第7話




 松崎さんは足を止めて生瀬さんの表情をうかがった。


「生瀬さん、どう、したんですか……?」


 松崎さんはそう聞かざるを得なかった。

 生瀬さんの顔にどことなく力がないように、松崎さんには思えたのだ。


 しかし生瀬さんは手を振った。


「松崎さん……いえ、なんでも、ないですよ」


 生瀬さんは柔らかい笑みを浮かべてそう言う。


 親しくなってまださほど時は経っていないが、それでも、松崎さんは生瀬さんの否定の言葉に、なにか深く抱えているものを見て取った。先ほどヨロズ先輩から受けた相談のおかげだろうか、生瀬さんからも放ってはおけない感じが漂ってくる。


「あります。なんでも、ありますよ、生瀬さん」


 松崎さんが退かない姿勢を見せると、生瀬さんは少し迷う仕草を見せた。迷うことがあるのなら、相談に乗りたい。

 松崎さんはそう思い、生瀬さんを促した。


「近くに空き教室があるので、そこに行きましょう、生瀬さん」


 松崎さんは生瀬さんを引き連れ、空き教室に戻って椅子をすすめた。

 つい先ほどヨロズ先輩が座っていたそこへ、生瀬さんが腰かける。今日はなんだか相談事が多いなと松崎さんは感じつつも、頼られているようで嬉しくもあった。


 生瀬さんは席についても、顔をうつむけたままだ。

 すぐには口を開いてくれそうにない。


 校舎の外から聞こえてくる運動部の掛け声が、しばし冷たい空き教室を満たした。生瀬さんを急かさないように気を配って声をかけつつも、松崎さんは生瀬さんの気持ちが整うまで、いつまでも待とうと思った。


 しかし、それほど時間は必要ないようだった。

 生瀬さんが顔を上げたのだ。


「……バレンタインの時、すっごくその、がんばったんです」


 生瀬さんはそう言って、下唇に力を込めて言葉を途切れさせた。

 生瀬さんなりに相当の覚悟をもって事に挑んだのだろう。


 けれどその口ぶりから、あまり上手く行かなかったらしい事を見て取り、松崎さんはなんと声をかけようかと悩んだ。すると、そんな松崎さんの雰囲気を察したのか、生瀬さんが手をパタパタと横に振った。


「いや、あの、がんばったっていうか、暴走しちゃったというか……」

「ぼ、ぼうそう……?」


 不安極まる言葉に松崎さんは眉をくねらせた。

 なぜだか生瀬さんは頬を少し赤く染めて、下にした目線をさまよわせている。


「松崎さんから、友チョコを頂いて、あの……」

「あ、ああ。あれが、どうかしたんですか?」

「……あのチョコに入っていたお酒で、あの、気分が大きくなってしまった、というのか……あ、あのチョコ、美味しかったです。ありがとうございます」

「ど、どうも」

「おかげで、大胆になれたし」


 その時の事を思い出したのか、生瀬さんの顔が赤くなっていく。


 どうやらバレンタインの時、まるっきり上手く行かなかった訳ではないようだ。と、松崎さんは思い、生瀬さんに続きを促した。


「……大胆、ですか?」

「はい。あの、踏むべき順序を飛ばしてしまった感じで、いろいろと、その……」


 言いよどんで頬をさらに赤くする生瀬さんの表情に、松崎さんはぴんと来た。妙な艶めかしさというのか、生瀬さんが遠くなってしまった感じというのか。

 そういう雰囲気が今の生瀬さんにはある。


 ひと夏のアバンチュールを終えた女子が放つ、あの色気だ。


(こ、これはっ――あれだ! お、大人の階段を上った感だ!)


 順序をすっ飛ばして階段を上ってしまうなんて、ドラマチック極まりない。

 松崎さんの鼻息は荒くなった。


 できればその大胆な行為とやらについて根掘り葉掘り聞きたかったが、松崎さんは自身の欲求をぐっとこらえた。

 松崎さんは片手をどうぞと差し出し、生瀬さんに続きを促した。


「そ、それで、生瀬さん。どうなったんですっ?」

「それでその、下の名前で呼び合うくらいには、なったんです」

「いいじゃないですか! 進んでるじゃないですか!」

「はい。でも、その、なんていったらいいのか……彼とその、深く繋がれた部分もできたかな、って、そう思ってたんですけど……」


 そう言って、生瀬さんは再び顔をうつむけた。


「私のしたことは、彼の中には、あんまり、残らなかったみたいで」

「……どうして、なんです?」


 松崎さんは首を傾げた。

 生瀬さんに大胆なアプローチを受けて、記憶に残らない事などあるのか? 以前、生瀬さんから聞いた話では、たしか生瀬さんは意中の相手を土の下に埋めようとしていたはず。そんな事をバレンタインの日にされてしまって、心に残らないなどと言う事はありえない。松崎さんは不思議で仕方なく、生瀬さんにすかさず聞き返した。


「……えっと、生瀬さんは埋めた、んですよね? その、彼のこと」

「はい。でも、それ以上の事が、あったみたいで」


 そういう生瀬さんの言葉に、松崎さんははっとした。

 生瀬さんの恋は片想いだ。そして、意中の人には、別に好きな人がいるのだ。


「恋敵の人……ですよね? 生瀬さん?」

「はい。その、ぜんぶ、持っていかれちゃったみたいで」


 気落ちした様子の生瀬さんに、松崎さんは胸が苦しくなった。

 バレンタインに積極的になったのは、生瀬さんだけでは無かったのだろう。

 相手もさる者だったらしい。


「それで、この前……相談、されたんです」


 そう言った生瀬さんの主語が分からず、松崎さんは聞き返した。


「えっと、相談って、誰に? 件の彼に、ですか?」

「はい。その、デート、する事になったらしくて……」


 そう述べる生瀬さんの声色は、悲しいような、苦しいような、それでいて、意中の人が喜んでいる事を想い、それを嬉しく思ってすらいるような。

 なんとも形容しがたい、悩ましい声だった。


「で、デート、ですか? 生瀬さん?」

「はい」

「恋敵の人が、その意中の彼に、デートしようって持ち掛けた、と?」


 松崎さんが確認すると、生瀬さんはこくりと頷いた。


「……それって、なんか、すごい感じのデートっぽいんですか? もうすぐ春休みだし、二人で旅行に行こうとかっていう、そういう感じの?」

「いえ。それが、いたって普通の、遊園地デートらしくて」

「普通の?」

「はい。バレンタインに私のしたことは、すごく変わった事だったけれど、その人が普通の事をしただけで、彼の中から消えちゃったっていうか……」


 生瀬さんの乾いた笑みに、松崎さんはかける言葉を探しかねた。


「えっと、それって……」

「両想いに、なっちゃったっていうか……そのデート次第なんでしょうけど。もう、そうなるのは時間の問題で、どうやったらいいのかな、って……」


 生瀬さんの声は弱々しかった。

 重ねた指が白くなる程、堅くぎゅっと握っている。


 いてもたってもいられずに、松崎さんは胸をどんと叩いた。


「まかせて、生瀬さん! そのデート、ぶっ潰しましょう!」


 我ながら酷いことを言っている自覚は重々あったが、松崎さんは止まらない。判官びいきは世の常だ。


 松崎さんは生瀬さんを励まそうと、力強い声で続けた。


「今回はその彼に想いが通じなかったとしても、何度も叩き続けるんです。そうやって道はこじ開けるんです。戦国武将だって、何度負けたって、命取られない限りは再起に賭けたんですよ。それに、その恋敵の人って、なんだか鈍感そうな人だし、生瀬さんの事も警戒してないっぽいから、いくらでも不意打ちが可能です。どんな強敵でも、寝首をかけば一発で――」

「いや、その……」

「……?」


 気まずそうに目を彷徨わせる生瀬さんの様子に、松崎さんは首を傾げた。


「生瀬、さん? どうか、したんですか?」

「……先日のバレンタインで、色々とあって、告白してしまって……」


 しっとりとした声で生瀬さんは言った。

 松崎さんが窺うかぎり、生瀬さんは額にじんわりと汗すら滲ませている。自分でも大胆で愚かな事をしてしまったと、反省しているようでもあった。


 なにより生瀬さんが言った、「告白」というキーワード。

 松崎さんはポカンとした後、がばっと椅子から立ち上がった。


「……か、彼に、好きって言ったんですか!?」

「い、いえっ。そうじゃなくて!」


 わたわたと手を振って否定する生瀬さんを、松崎さんはまじまじと見た。


「……では、誰に? 何の告白を?」

「その……恋敵の人の方に……」


 おずおずと言った生瀬さんの告白に、松崎さんは目を瞬かせた。


「はへ?」

「私は彼の事が好きだって、言ってしまったんです……」


 つまり、生瀬さんの動向は滅茶苦茶警戒される、という事に他ならない。


「自分でも、なんでそうしたのか……あの、ただ、どうしても、その時は、そうしなくちゃいけないと思って……やっちゃったんです」

(……生瀬さん、すごい……)


 松崎さんは級友に感嘆を覚えた。


 大胆不敵にも程がある。松崎さんが以前聞いた限りでは、生瀬さんのライバルとやらは強敵のはずだ。思い詰めた時の行動力が、生瀬さんは頭抜けている。

 そう感心しつつ、松崎さんは生瀬さんにそれとなく促した。


「頼れる人とか、他にいないんですか?」

「いない、訳ではないんですけど……」

「その彼の身内に知り合いがいたら、その人を味方に引き込んだりして。外堀を固めてから攻め込むって言うのは、大阪の陣の時に家康がやったことで……まだ、いろいろできますよ。だってまだ、終わった訳じゃないんでしょう? 生瀬さん?」


 松崎さんが問いかけると、生瀬さんは少し考えてから小さく頷いた。


「はい、たぶん」

「だったら、前進あるのみです。戦力の集中は軍略の基本。生瀬さんの持ちうる力のすべてを集中させて、その遊園地デート、ぶっつぶしましょう」


 松崎さんはグイッと身体を近づけ、生瀬さんの右手を取ってそう言った。松崎さんの両手に握られた右手へと目をやりながら、生瀬さんは悩ましげな顔をする。


 迷っているのだろう、と松崎さんは見て取った。


 遊園地デートを邪魔することは、意中の人の幸せを邪魔する事に他ならない。生瀬さんの性格を考えれば、思い悩むに違いないだろう。けれど松崎さんは生瀬さんの味方になると決めたのだ。無責任かもしれないが、押せる背中は全力で押してあげたい。そんな松崎さんの決意を感じてか、生瀬さんの躊躇いはすぐにその瞳から消えた。


「なら、松崎さん。お願いが、あるんです」


 強い覚悟を感じさせる声で生瀬さんにそう言われ、松崎さんも力強く頷き返した。生瀬さんのお願いなら、大抵の事はやるつもりだ。


「なんでも言って、生瀬さん」

「一緒について来て、くれませんか? もう、時間がなくて」

「えっと、その、デートの日に、ですか?」

「はい」


 生瀬さんは頷いて、力強く松崎さんをじっと見た。


「松崎さんがいてくれたら、きっと心強いから」


 そう言う生瀬さんの目力に恐ろしさすら感じつつも、松崎さんはぐっと両手に力を込めて、生瀬さんの右手を握り締めた。


「もちろん、生瀬さん。来週だよね?」

「はい。ありがとうございます、松崎さん」


 生瀬さんが安心したようにぺこりとお辞儀をし、「そんな改まる必要ないから」と松崎さんが場の雰囲気を和らげようとした、その時だ。


 空き教室の戸ががらりと開いたかと思うと、そこに一人の男子生徒が立っていた。


「やっと見つけた。松崎さん、探したよ……」


 疲れたような声を出した男子生徒は、森田君だった。

 校舎内を方々探し回ったらしく、森田君の顔は少し赤い。


「ラインにも出てくれないし。副会長が、部活の予算案でちょっと聞きたい事があるからって呼んで――あれ、エリちゃん?」


 森田君がそう呼びかけると、生瀬さんははっと息を飲んだ。


「清太くん……」

「エリちゃん、どうしたの?」

「ううん、なんでもないよ。松崎さんに、ちょっと相談事をしてて」

「そうなんだ」


 森田君は生瀬さんと松崎さんを交互に見て、頷いた。


「なら、松崎さん、相談が終わってから来て」

「大丈夫だよ、清太くん。相談は終わったから」


 そう言うなり生瀬さんは立ち上がり、森田君に「私は美術室に行くから。じゃあね」と手を振り、松崎さんに一礼して、空き教室からするりと立ち去った。


 生瀬さんと森田君のやり取りに松崎さんは引っ掛かりを感じつつも、「じゃあ、松崎さん、行こうか」と森田君に促されるまま生徒会役員室へと向かう。

 森田君の背中を追う道すがら、松崎さんは感じた引っ掛かりに気付いた。


(……んっ? あれ……生瀬さんが森田君を清太くんって……森田君も、エリちゃんって呼んでて……さっき、生瀬さんがバレンタインから名前で呼び合うようになったって、うれしそうにしてて……ちょ、な、え!? 生瀬さんの好きな人って、え?)


 廊下を歩くほどに、松崎さんの考えは確信を帯びてくる。


(あ、あれ? 待てよ、そういえば、銀野会長も普通の遊園地デートをしたいって……生瀬さんが潰したいっていうデートも、遊園地で……ちょ、ちょちょっ、ん?)


 松崎さんは思い至る。

 バレンタインの時にライバルから宣戦布告をうけたというヨロズ先輩の話と、バレンタインの時にライバルに宣戦布告をしてしまったという生瀬さんの話を。


 ばらばらだったパズルのピースが、ぴたりと一致し、一枚の絵となるかのように松崎さんの頭の中で浮かび上がる。それは二律背反いちじるしい絵であった。その絵が頭の中で鮮明になってゆくに従い、松崎さんの額にじんわりと汗がしみ出した。


 なぜ、今の今まで、この二つを関連付けて考える事ができていなかったのか?

 まさかそんな訳がないという、思考の穴を完全に突かれていた。


(…………あれ?)


 冷静になって考えれば考えるほど、そうとしか思えない。


(んっ、んん!? 銀野会長の相手って、森田君!? それで、生瀬さんの好きな人っていうのも、森田君!?!? え、あ、じゃ、じゃあ……私――)


 すさまじい敵対関係にある両者共に、味方になると松崎さんは言ってしまった。生瀬さんに対してはデート当日に付き添うとまで、約束してしまっている。


 一度言ってしまったものは、もうどうにもならない。

 知らなかっただとか、そんなつもりは無かっただとか、そんな言い訳は二の次だ。


 松崎さんはがしっと頭を抱えた。


(――私ッ、滅茶苦茶やらかしてない!?)


 松崎さんはただただ、顔を青ざめさせた。


(ど、どどどっ、どうしよう…………?)


 その問いに答えてくれそうな人は、松崎さんには思い当たらなかった。




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