第3話 龍酔拳

 狒々ひひ怪人は困惑していた。


 この怪人の姿と力を手に入れてからというもの、自分はおよそ痛みなるものからは無縁である。

 襲い掛かったチンピラが窮して鉄パイプで殴りかかってきた時も、蚊に刺されたほどの痛みも感じず、得物ごと相手の胴体をへし折ることができたものだ。


 それなのに、何故どうして


 何故何故どうして。目の前のに胸郭を打たれただけで、激痛に胸抱いて咳き込まなくてはならぬのか?


「見たか龍酔拳りゅうすいけん・鏡月!」


 裏拳放った杯手を引き戻し、酩酊ニュータント――『冥帝めいていシュランケン』が全身をふらつかせて構えをとる。


 狒々怪人の具える怪力とシュランケンのそれとは互角であった。

 だが、身体能力の増強に総てを費やした結果である狒々に対し、シュランケンの膂力は彼に与えられた権能の一端でしかない。


「ヒヒャァーッ!」


 反撃の剛腕が宙を切る。転倒するがごとく上体を捌きシュランケン、回転運動を伴って狒々の背後へ移動。

 

「龍酔拳・霧島!」


 倒れ込みの体重を乗せた肘打ちが狒々の背筋に突き刺さる。

 「ゲヒッ」と汚声を漏らす狒々が振り返った時には、既にシュランケンの姿はなく、幻惑的な緑斑模様グリーンマーブルの残滓だけが視界を掠め。


「龍酔拳・雲海!」


 真下からの急襲。地面に寝そべった龍人がブレイクダンス染みた動きで狒々の下腹部を蹴って蹴って蹴る。


「ギヒィ……!」


 上中下段の区別なき乱数的ランダムな攻撃は、混沌としたプレッシャーを対手に与え苛んでゆく。


 というアドバンテージを失ったいま、両者の間には明らかな戦闘技術の差のみがある。

 身の体積だけがいくばくか勝る狒々怪人は、見下ろしている筈の龍人が途方もなく巨大な怪物きょういとして映っていた。


『ハーイ♪ハーイ♪ハーイ♪ハーイ♪』


 腰に提げた瓢箪の栓を開けると軽快な囃子コールが響く。あぎとの中へ更に更に酒を流し込むシュランケン。


 狒々怪人はようやく悟った。こいつはヤバいと。関わってはならない存在なのだと。

 シュランケンが飲酒を終えぬうちに、狒々は背を向け全速力で逃げを打った。



 週末の繁華街に突如闖入した狒々怪人。

 両腕両脚を使った四足走行の狒々は必死の形相である。人々は悲鳴と共に逃走する怪人に道を譲った。


「随分遅かったな?」

「ヒィ!」


 いつの間にか目の前に仁王立ちしていた酔いどれ龍人に、狒々は無様に尻もちをつき後ずさる。

 彼の視線は。冥帝シュランケンが片手に持つ物に注がれて、片手で振りかぶった物に注がれて、目を見開けば振り下ろされた。


「龍酔拳・スナックあけみ!」


 狒々の脳天にネオン看板直撃!火花と破片が景気よく砕け散った。

 ど真ん中に頭を貫通させた看板が襟巻のようだ。


 打撃によろめく狒々を尻目に瓢箪に口をつけるシュランケン。繁華街の人々の反応は二様だ。一目散に逃げだすか、遠巻きに見物するかである。酒で恐怖心が鈍麻したのであろう、携帯端末で撮影を始める者もあった。


「お、お前……!もうその辺にしとけって!」


 瓢箪からとめどなく溢れる酒をがぶがぶ嚥下するシュランケン。狒々は怯えた様子で諫めにかかる。

 怖いのだ。シュランケンの力も、飲酒の勢いも、元来は一介の凡夫に過ぎぬ者にとっては得体が知れぬ恐ろしさを感ずるのだ。


「あ゛あ゛!?うるせえな、黙ってろ!」


 声を荒げるシュランケンに狒々が肩をびくつかせる。シュランケンが身にまとう空気オーラは、徐々に荒々しく粗暴になってきていた。


「うぃぃ……さあ、そろそろケリつけようや。覚悟は?」

「ヒ、ヒ、ヒ、ヒヒヒヒヒィィィィ!!」


 窮した狒々怪人が巨体を宙に躍らせ跳び掛かる。破れかぶれの強行攻撃だ。

 火事場の力を込めた巨腕の剛爪が袈裟懸けに交差してシュランケンを襲う!


「よぅしよしよし!」


 バツの字を描かんとした両爪が同時に逆方向へと弾かれる。

 狒々怪人の襲い掛かったシュランケンの構えは大きな樽を抱えたような陣容かたちへと変じており、弧を描いた両腕の肘が爪撃の中を弾き飛ばしていたのだ。


「龍酔拳・黒七夕!」


 ガラ空きの狒々胸板に、錐揉み回転しながらの横っ飛びで飛び込むシュランケン。全身を砲弾と化したコークスクリュー頭突きが、狒々の分厚い胸筋に強かな衝撃を徹す。


 苦悶はもはや音にならず、たたらを踏む狒々怪人。だが、龍の拳士は許さない。


「おらあああ!龍酔拳・百年の孤独!!」


 杯手が月牙きばへと変じ、容赦なく狒々の両目を突き潰す。続けざま、駄賃とばかりに両手で側頭部の毛を鷲掴み力任せに毟り取った。


 ようやく悲鳴をあげる異類の狒々怪人。


――そこまで、一方的な攻撃を続けた所でシュランケンの動きがぴたりと止まる。膝に手をつき中腰となった龍人は、わずかにえづいているようにも見受けられる。すわ、逆流リバースか!?


「――――完全に、出来上がったぜ!!」


 龍酔拳の使い手に逆流無用。瓢箪の栓を開け、更に呑む、シュランケン。呑む!シュランケン!浴びるように、呑む!


『ハーイ♪ハーイ♪ノーンデノンデー♪ノーンデノンデー♪』


 シュランケンが体に宿した酔龍が濃度を増した酒精の血に酔う。その時、龍酔拳の極意が真の牙を剥くのである!


究星有誅拳きゅうせいうちゅうけん!!」


 シュランケンが吐き出した炎の龍が飛び回る。尾に陽炎を曳き宙空を舞う。

 陽炎のゆらめきにぐにゃりと歪む空間には強烈なアルコール臭が立ち込めた。泥酔空間、完成す。


「ウウ、オエエエエエエ!」


 近くで携帯端末を構えていた野次馬サラリーマンがたまらず嘔吐。吐しゃ物の落ちる先には、いち早く昏倒した同僚の後頭部だ。現在の空間アルコール度数は実に70%超。生身の人間にこの度数は耐えられない。


 居合わせた者を問答無用で泥酔状態へと誘う究星有誅拳にかかれば、巨体の狒々怪人とて例外ではなかった。


「なんだこりゃ……どうして俺は、酔っ払って……おごぉ!?」


 既に視界を失っていた狒々怪人を無数の打撃が襲う。視界だけでなく平衡感覚すら奪われた怪人は、龍の拳撃を全身に浴びてもはや天地の別すら曖昧となる。


 シュランケンの杯手が狒々の鼻を捉えて、もぎ取った!喉笛を掴んで、抉り取った!そして!


「龍酔拳・禁じ手!魔界への誘い!!」


 口中からの蒸留酒噴霧!

 狒々怪人の傷口にアルコールが浸透し灼けるような苦痛を味わわせ。然る後、龍炎纏った連続回し蹴りがその身を現実の炎で包んだ!


 狒々怪人の焼却が始まって、一秒にも満たぬうちに即完了。


「ヒック」


 燃え落ちる死体を見下ろし、シュランケンは一度だけしゃっくりをした。



「こい、セキトバー!」


 敵を討ち果たしたシュランケンが夜空に呼び声を放てば、すぐさま爆音轟かせやってきたのは大型バイクだ。


 黒いボディに朴筆で描かれた深紅の炎模様が入っている。これが、シュランケンの愛馬マシンセキトバーである。


 シュランケンは颯爽とバイクに跨ると、爆音と共に夜の闇へと消えていくのであった。飲酒運転であった。速度オーバーであった。


*


 翌昼、大五郎は築40年の安下宿に借りた自室の布団の中で目が覚めた。

 頭はズキズキどころかガンガンギギンギンガンガンと痛んでいる。


「少し呑み過ぎたかな」


 痛む頭を捻ってみるが、どうにも昨晩の記憶はおぼろげだ。マシンセキトバーに跨った後の記憶に至っては完全に抜け落ちている始末。

 激烈な二日酔いと記憶の散逸は、寶大五郎が冥帝シュランケンとして力を得る代償であった。


 中古屋で購入した型落ちテレビの電源を入れれば、ちょうどニュース番組にチャンネルが合っている。


「昨晩、週末の繁華街で酒に酔ったニュータントの乱闘事件が起きました。これによりニュータント一体が殺害され、周囲に居合わせた数名がめまいや吐き気の症状を訴え病院へ搬送されました」


 画面はスタジオから現場の生中継へと切り替わる。リポーターが背にする繁華街の風景に、昨晩その場で立ち回りを演じたはずの大五郎は「どことなく見覚えがあるな」と曖昧な印象を抱いた。


「現場には今もアルコールの臭いが立ち込めています。ここに立っているだけで酔っ払ってしまいそうです」

「通常では考えられない現象だという指摘もあるようですが……」


 再び画面はスタジオに切り替わり、ニュータント研究者などという肩書き付きのコメンテーターがしたり顔で解説を始める。


「ともかく、勝ったみたいだな、俺」


 曖昧な記憶をワイドショーじみたニュース番組で確認した大五郎、ようやくのっそり布団から抜け出し台所兼洗面所へ。


 顔を洗っても未だズキズキガンガンの続く頭を抱えて六畳一間へ戻ってくると、テレビ画面には新たなニュータント怪人出現の速報テロップが踊っていた。


 外出の自粛を呼び掛ける注意情報が指定するのは、この下宿からそう離れていない地域だ。


 大五郎は大きく一回、酒の残った吐息を吐き出してテレビの電源を落とした。


「――――迎え酒、いくか」

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