第2話 冥帝見参
大五郎は夜の公園を歩く。件の殺人事件があった公園とは別の場所だが、近場である。
彼が手に持った500mlの缶ビールが、歩くたびにちゃぷちゃぷと内容物を揺らす。大五郎がこの界隈を徘徊し始めてから実に6本目であった。
「へへへ、グイグイいくね、おたく」
茂みから出てきた猫背の痩身。色白の肌も薄汚れた中年男だ。
馴れ馴れしく話しかけてきた上目遣いを、長身の大五郎は無言で見下ろす。
彼が全身に帯びた空気は、大衆酒場でのそれとは異なり頑なで尖りのある張り詰めたものだ。
「なあ、飲みさしで構わねえからよ、俺にも酒を分けちゃくれねえか。呑み足りなくってよ。な?いいだろ?」
薄ら笑いを浮かべて歩み寄る男に、大五郎はハッキリと険しい眼差しを向けた。
「臭えな、アンタ」
大五郎の声に、男の歩みが止まる。顔には薄笑いが貼り付いたままだ。
「アンちゃんだって呑んでるじゃねえの」
「その臭いじゃねえよ。人間様を食い物にする、
青年の喝を受け、男が一瞬「ヒッ!」と引きつった笑い声を喉奥から搾り出し。
「ヒヒヒヒヒヒーッ!」
薄ら笑いがたちまち哄笑となり、痩身色白男の体躯が変貌開始。
筋ばった四肢が隆起して男のボロ服を内側から破り、体表を灰色の剛毛が覆っていく。
今しがた大五郎が見下ろしていた男は、瞬く間に身の丈2メートルを越す
――『ニュータント』。それがこの怪物の“総称”である。
ある日発見された未知のウィルス『ニュートラル』は、感染した者に特異な能力を付加する。
人びとは通常では考えられない
正面から飛び込んできた狒々の右腕が力任せに振るわれる。件のアベックを無惨に殺害した腕である。
大五郎の側頭部を狙った腕はしかし宙を切った。咄嗟にブリッジの体勢まで体を逸らして回避したのだ。
そのまま逆立ちになった大五郎、ハンドスプリングで跳躍して狒々の胴を蹴る。
強靭な腹筋が蹴りを跳ね返すが、これにより大五郎は狒々の腹を足場にして後方へと飛び退いた。
一連の攻防の最中、空中に放り投げられたビール缶がようやく地面に落下して黄金色の内容物でアスファルトを濡らす。
「ち、まだちょっと残ってたのに」
舌打ちした大五郎、狒々怪人を睨む。幾分か眼が据わってきているのは怒りゆえか、酒が回ってきているのか。
大五郎が構えをとる。体は半身に、両腕は弧を描くように曲げて同じ高さの前後に配する。
特徴的なのは拳の形だ。親指と人差し指をわずかに曲げ開いた円弧とする形――杯手である。
「ヒヒヒー、酔いが回ってんじゃないのか、おたく」
大五郎の佇まいを見て狒々が嗤う。構えを取った彼の状態はゆらゆらと揺れ、足元もまた不安定におぼつかない様子だった。
「まだ酔い足りねえな」
「ヒヒヒヒヒーッ!」
再び飛び込んできた狒々怪人に対し、大五郎は構えた杯手で連続した突きを放つ。
狒々は突きに怯むことなく腕を振るう。それを倒れこむように回避すると同時に体重を乗せた裏拳だ。
鳩尾を打たれて一瞬怯んだ狒々の足元に倒れた大五郎、立ち上がることなく地面に背中をつけたまま両脚で蹴りを見舞う。
狒々怪人は脚の関節や下腹部を蹴り上げられるも、力づくの踏みつけを敢行。
手と同じく長い指に鋭い爪を供えた脚の急襲を、大五郎は地面を転がってかわし流れるような動作で立ち上がった。
「ただの人間にしちゃあ、やるじゃないか!」
「血の臭いがぷんぷんしやがる。てめえ、その爪で何人殺した」
「おたくで9人目!あと少しで記念すべき10人切りだァ!」
「そうかよ。残念だったな」
「ああぁン!?どういう意味だよォ」
返答代わりに、千鳥足の大五郎が踏み込んだ。不規則な軌道で迫る動きに対応できない狒々怪人は、対手が懐へと侵入するのを易々と許す。
大五郎の杯手が牙となり、狒々の喉笛を掴む。屈強な肉体通りの握力が獣の気道を圧迫し呼吸を止めさせる。
巨腕を振るおうとする狒々だが、肩の根元を押さえるようにして密着した相手に充分な打撃は与えられない。
「ヒィ……ヒ!」
狒々怪人の唯一体毛に覆われていない顔面が紅潮。引き嗤いのような声も絞り出せなくなる。
このまま窒息へ至らしめんと右腕に力を込める大五郎。
が、彼は突然、自分の体が宙に浮かぶ感覚をおぼえた。次いで、振り回される感覚。
首を絞められた狒々怪人が自らの体を回転させ、大五郎を振り落とそうとしているのだ。
狒々の体を軸としたコマに巻き込まれた格好の大五郎。
ただしがみ付くだけであれば造作もないが、遠心力によって両脚が地を離れ体が横一文字となったことが拙かった。
横腹に狒々の拳がめりこんだ。トラックがぶつかったかのような凄まじい衝撃に指の力が思わず緩む。
屈強な青年は軽々と吹き飛ばされ、公園の垣根に叩き込まれた。
「……痛ぇ」
「頑丈だねえ!ヒヒヒ、いいサンドバッグだ!」
並の人間であれば腰骨を砕かれて居ても不思議はない狒々の一撃を受けてもなお、大五郎は立ち上がる。
その事実が意味するところに狒々怪人はまだ思い至らない。
「痛ぇな……酔いが醒めちまった」
「醒めたところで第二ラウンドってかあ!?」
「ああ。呑み直しだ!」
立ち上がった大五郎が手にしているのは、腰帯に提げていた
全長30cmほどの瓢箪。底からてっぺんにかけて巻きつく龍が
真珠の輝きをもった美しい白色に化粧を施され、くびれの部分は朱色の紐で飾る。
栓は龍爪が
大五郎が栓を抜くと、瓢箪の口から幾人もの人びとの声が漏れ出した。
『ナーンデモッテルノ♪ドーシテモッテルノ♪ノミタリナイカラ モッテルノ♪』
陽気で軽快な節をつけた囃しだ。この瓢箪は明らかに単なる容器とは異なるモノだった。
声の響く瓢箪を顔の高さまで持ち上げて。口を下に傾ければ、湧水の如く透き通った液体があふれ出す。
大五郎は自らの口でもってその液体――酒を受け止めた。口中にむせかえるような酒精の気と清涼かつ奥行きのある滋味が拡がる。蒸留酒だ。
『ソーレソレソレ♪イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!』
「うぶっ……おっ、おっ、おぶっ!」
軽快な声に囃されて、大五郎は酒を呑む。
明らかに体積を超える量の酒を吐出し続ける瓢箪。それをラッパ飲みですべて嚥下していく大五郎。
狒々怪人は、目の前の男が及ぶ奇行を唖然と眺めるばかりだ。
「オイオイオイ!死ぬわコイツ!」
顔面が紅潮し切る頃、ようやく大五郎は飲酒を停止。
既にまっすぐ立っていることもままならず、足元をふらつかせ上体を不規則に揺らし、それでも眼前の狒々怪人を不敵に見据える。
「――出来上がったぜ」
いっそう眼の据わった大五郎がほぼアルコールそのものの息を吐く。息を吐く。
吐き続ける吐息が色を帯びる。炎の色だ。赤から青へと変わる炎。
――青白い炎の龍が、大五郎の口より出でて彼の身体を包み始めた!
*
「お前もニュータントだったのかあ!?」
その
着ていた
「ニュータント?ああ、最近そういうのが“流行ってる”らしいな……無粋な呼び方だ」
その
全体を大型爬虫類の頭骨を人面に貼り付けたようなフルフェイス・ヘルメットの頭殻で覆っている。
更に側頭部から後ろへ向かって龍の角が伸び、人間に似た口元には鋭い牙が生え揃う。
龍鬼人とでも呼ぶべき神々しさと禍々しさを同時に孕んだ姿。
全身の甲殻と鱗は幻惑的な緑基調の
「人は呼ぶ『冥帝』――」
手に持った瓢箪を腰に提げて、両手の杯手を胸の高さで構えて、千鳥足のつま先で地面を叩いて、彼は名乗る。
これから先、夜闇に跋扈する異類共がひと度聞けば震え上がることになる、その名を名乗る。
「俺は『冥帝シュランケン』!」
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