全智の記憶

天邪鬼

全智の記憶

 ラプラスの悪魔が実在すると言えばあなたは驚くだろうか。

 いや別に、私がいわゆる中二病というのでは無い。

 話は六年前に遡る。

 私はふと、未来が知りたいと思った。当時私の家庭は非常に暗かった。結婚して五年、堅物の私に冷たい妻、子どもは無く、セックスレスで溜まったストレスから始めた会社の後輩との浮気。それを知った妻から突き付けられた離婚届。彼女と別れたところで特段何か変わるだろうかと、私は返事の代わりに押印した。なぜか妻は泣いていた。


 しかし別れてみると、存外寂しいものである。浮気というのはやはりその背徳感と、バレてしまわないかという緊張感を興ずるものであって、妻と離婚してからは後輩に対する興味も冷めてしまった。というより、女への関心が途端に無くなってしまった。

 

 かつてこれほどまでに孤独を感じたことは無かった。もともと無欲な私は、果たして自分の生に価値などあるのかと考えるようになった。

 私がそんな風に考える中で、世界にはひたすら生きることに精一杯な人間がいることもまた諒解していた。私などは彼らと比較すればずいぶんと恵まれた環境の中に生きているということはよく分かっていた。マズローの欲求段階で言えば、私の階層は極めて高い位置にいるのだろう。

 それでいて生に意味を見出だせないのはやはり彼等に対する不敬かもしれない、私に少なからず残っていた良心がそう思わせた。


 何か、大きく自分を変えられるものは無いかと考えた。

 ふとそのとき、私は大学時代に本で読んだラプラスの悪魔の話を思い出した。


 私が初めてそれを読んだとき、何も驚くことは無かった。というよりむしろ、今更になって物理学でこのような話題が取り上げられていることに驚いた。


 理由は単純で、私は一人、その「悪魔」を知っていたからである。


 私は幼少期をとある田舎の村で過ごした。都会に生まれ育ったあなたには理解できないかもしれないが、そこは未だに部落差別の残る地域で、私はその被差別部落の子であった。

 当時の私は子どもながらに、ここで育ち、父と同じように毎日田畑を耕し、適当な頃合いに嫁をもらい、子を設け、孫の誕生と同じ頃に没するのだろうと思っていた。

 そんな私の人生観を大きく変えたのがその「悪魔」だった。


 悪魔は老婆だった。名を源サチと言った。私の実家のすぐ近所に住んでいて、私は何かとあるとサチの家へ遊びに行っては、いつも夕飯をご馳走になるのだった。サチの作る芋の煮っころがしが格別に旨く、私の好物であった。


 サチはごく稀に未来を見た。いや厳密に言うと、サチは普段から未来を見ていたが、見たものを口にすることは殆ど無かった。

 ある日サチはその嗄れた声で私に言った。

「あなたは東京に出るのよ。そしてね、お嫁さんをもらってね…それでいつか、ばぁの元へ戻ってくるのよ。」

 いいわね、と念押しをして、サチはシワの寄った手をぽんと私の頭に置いた。温かい手だった。


 私は、サチが言うのならそうに違いないとひたすらに勉強して、確かに東京の大学に進学し、それなりの企業に就職した。

 何となく参加した合コンで妻に出会い、何となく付き合い、何となく身体を重ね、何となく結婚した。


 あまりに自然と流れていく時の中で、私はすっかりサチの言葉を忘れていた。

 あのとき確かにサチの言葉が私を変えた。では、サチが何も言わなければ、私は今もあの村にいたのだろうか。それとも、やはり東京へ出ていたのだろうか。


 もし今私が未来を知れば、あの時と同じように私の人生観は覆るのだろうか。それとも、何も無い未来に幻滅するのだろうか。

 しかしサチは確かにこう言った。

「婆の元へ戻ってくるのよ。」

 と。


 拒もうと思えば拒めたのかもしれない、しかし私の足は自然と故郷へ向かっていた。それともこれが、サチの見た未来なのだろうか。


 その一つ前の年、実家からサチが亡くなったという連絡を受けた私は、葬儀の為に一度帰郷していた。

 それが、私がサチの元へ帰るということだったのではないかと言うかもしれないがそれは違う。

 葬儀の後、母が神妙な面持ちで私に言ったのだ。

「あのね、源さんに伝言を頼まれてて…私が死んでも、次の年の秋までは家を壊さないでくれって。それと、そのことをアンタに伝えてくれって。昔から変なことを言う人だとは思ってたけど…アンタ何か分かるかい?」

 過疎化の進む私の故郷で、サチの家に新たに住む人は無かったが、サチの遺言だからということでその空き家は放置されていた。


 おそらくサチは、ラプラスの悪魔は、私にを遺したのだろう。そして今、私がそれを思い出したということは、それこそがサチが言った「戻る」という言葉の意味に違いない。


 私は故郷に着いてまず実家を訪ねた。手土産を渡していくらか話をし、その日の晩は泊めてもらった。なぜ先に連絡を寄越さなかったのかと母に怒られたが、離婚した後ろめたさからか、何か両親に会うことへの躊躇いがあり、結局何も言えぬままとうとう家の前に着いてしまったのであった。もちろんその日、妻と別れたことなどは一度も口にしなかった。


 明くる日、朝食を済ませた私は匆々に家を出た。もともと有給はそう長くとっていないので、用件だけ済ませば早く帰らねばならなかった。と言っても、その用件さえどれほど時間をとるのか、このときの私には皆目見当などついていなかったのであった。


 たかが一年とはいえ、人が住まないと家というのはあっという間に荒ぶものである。サチの家にはあちこちに蜘蛛の巣が張り巡らされており、入ることが少し躊躇われた。

 丁寧に挨拶をしに現れたゴキブリは、都会慣れした私の意気込みを削ぐには充分すぎた。このまま家に帰ろうか。


 しかし、居間の中央にずっしり構える分厚い本が目に入ったとき、私は覚った。

 これだ。これこそ、サチが私に遺したものだ、と。

 私は足元の虫を蹴散らすように居間に駆け上がり、その分厚い本を手に取った。

 それは見ると、本というより日記らしかった。



 その日記を開いた私は、ある種の衝撃を覚えた。

「サチの記憶」という表紙を見たとき、私はつい、「サチの記録」の間違いでは無いかと疑ったが、それは確かに記憶であった。


 一頁めくれば、塵のように細かな字が、びっしりとその紙面を埋め尽くしていた。まるで蟻の大群のようなその光景に吐き気さえ覚えるほどであったが、不思議なことに、私がそれに慣れるのと同時に、文字を追わずとも自然と内容が頭の中に流れ込んでくるようになった。

 それはサチの身近な本当に些細なことから、米国の大統領のこと、中東で起こる戦争のこと、果ては物理学の新たな発見に至るまで、ありとあらゆる出来事が記録された日記だった。まさか世の学者達も、こんな無名の村にアカシックレコードが存在したなどとは夢にも思わないだろう。それは過去のすべてを、あるいはサチの見た未来を記した記憶そのものであった。いや、少しばかり過言であった。なぜならこの日記でさえ、サチの見たすべてを書き記すには足りないはずであるからだ。


 サチは本当に、「すべて」を見ていたのだ。


 ところがあるページから、急にそれらの文字の羅列が消えた。

 代わりに一頁に一言ずつ、私に向けて書かれた言葉が添えられている。


『おかえりなさい、ケンちゃん。ついに戻ってきましたね。』

 健太とは私の名前であり、サチは私のことをケンちゃんと呼んだ。

「あぁ、しばらく忘れていたけどね。」

 私は声に出して返事をする。端から見れば日記と会話をする私は馬鹿馬鹿しいだろうか。しかしサチは私の返事もすべて見た上でこれを書いている。すなわちサチは私のこれから発する言葉をすでに聞いてそれに答えているのだから、これは立派な会話である。何もおかしなことは無いのだ。

『未来が知りたくなったのね。』

「私に何の価値がある?」

『人生に価値があるとすれば、それは宇宙の歯車になることよ。』

「そんなつまらない価値しか無いのか?」

『いいえつまらなくなんか無いのよ、それはね、とっても尊いことなの。』


 なんだか阿呆らしくなってきた。いったいサチが、私に何を伝えたいのかが理解できなかった。

「私に未来を見せてはくれないか?」

『未来を知ってどうしたいんだい?』

「ただ知りたいだけだ。」

『ケンちゃんお聞きね。未来を知った先にあるのは虚無だよ。自分がマリオネットだと知ったとき、残るのはただの虚無だよ。確かにそれは尊いこと、それでもやっぱり、人の心が感じるのは虚無だよ。』

「それでも知らないよりマシだ。」

『…そうね、婆には何もしてあげられないわ。あなたは今から未来を見るものね。』

「私が未来を見る、という未来を見たってことか?」

『そうさね、ケンちゃんは未来を見るよ。私が教えても、教えなくても、ケンちゃんはその方法を知ってしまうよ。それに、私の意志が拒んでも、私はその方法を教えてしまうことになってるからね。』


 私は一呼吸置いて、サチに尋ねた。

「それなら、どうしたって仕方がない。私に未来を見る方法を教えてくれ。」

『裏の井戸を覗いてごらん。そしてケンちゃんは、絶望して井戸に身を投げるんだよ。』


 私は、それはそれでいいかもしれないと思った。

 サチの家の裏の井戸、そういえば昔覗こうとしたときに、とんでもない形相でサチに怒鳴り付けられ、以来近付かなかった場所である。後にも先にも私を叱らなかったサチが、ただ一度だけ声を荒げた瞬間だった。


 私は井戸を覗いた。




 何も、写らなかった。世界は何も変わらなかった。ただ一つ変わったのは、この先起こるすべてが見えること。


 見えるだけで何も変わらなかったのだ。


 それはとても不思議な感覚だった。例えるならば、うっかり手を滑らせて皿を落とす瞬間に、あっと声を上げるだけで何も出来ずにいる。そういう感覚だろうか。

 それは身体の動きが間に合わないだけだろうと否定する者もあるかもしれないが、まさしくそうなのである。もちろん、物理的に動きが間に合わないということはない。回避しようと思えば、回避できるのかもしれない。しかし身体がそれをしようとしないので、結局は見えた景色の通りに世の中が運ぶのである。こればかりは、未来を見たことが無ければ語ることの出来ない感覚であろう。もし私の下手な比喩があなたを混乱させてしまったのなら、謝らなくてはならない。


 しかし、私はその時井戸には飛び込まなかった。それは今こうして筆を執り、あなたに私のつまらぬ半生を語っていることが証明している。

 あの時、サチは「いつ」とは言及しなかった。きっと遠くない将来、私はどこかの井戸に身を投げるのだろう。いや、もちろん今の私にはそうなる未来が見えている。それは本当に遠くない将来のことだ。


 なぜこんな話をあなたにしたのか?安心してほしい、あなたが未来を知ることはない。


 ただ一つ、どうしてもあなたに話したかったことがある。いや、この話したいという衝動さえも初めから決められていたものかもしれないが、今はそういった面倒な考察はやめよう。


 実はただ一つ、サチの話にはおかしなところがあった。


 未来が見えると同時に、私には過去も見える。ある意味で寸分の狂い無く過去を把握するというのはすなわち、同様に未来を把握することと等価だと言える。


 私の記憶が正しければ、私は幼少期に井戸を覗いた際、足を滑らせて落っこち死んでいるはずなのだ。

 いや、記憶が正しければ、というのはこの際ひどく滑稽に聞こえるがそこは許してほしい。私は何一つ間違ったことは言っていない。


 しかし次の瞬間からは、私はまた何ごとも無かったかのように生活をしているのだ。


 何が言いたいか。


 私は本来であれば、ここに存在するはずはない。決定論的に言えばそうだ。


 ということは、あのとき何かが、その決定を覆したことになる。

 あの時、サチが怒鳴っていなければ私は確かに死んでいたはずだし、サチは怒るはずなど無かった。

 つまり、サチの話と矛盾する。どう足掻いても未来は変わらないというサチの言い分と。


 私は一つ、サチが気付かなかったであろう仮説を立てている。


 実は世界はいくつか存在していて、あるときどきに、その世界を切り替える転換点があるのではないか、というものだ。


 世界線の話か…それとは少し違う。決して確率論的に世界が動く訳ではなく、ある決められた転換点で、誰かが何か、今の世界で起こるはずの無い何かを行動したとき、初めて世界が切り替わるのだ。


 この瞬間だけ、この瞬間だけが人が決められた未来から抜け出せる瞬間なのだ。

 そして今私が見ている世界はあくまで、今いる世界の未来であって、いつかどこかで訪れる転換点から、私は、私たちはまた新たな世界に行けるかもしれない。


 いや、別に私はこの話についてあなたと議論がしたい訳じゃない、頼むから私の仮説を否定しないで欲しい。


 物理学的な厳密性だとか、そんなことはどうでもいい。そもそも未来が見えること事態、現代科学を遥かに超越しているのだから、科学的考察自体がナンセンスというものだ。


 私にはようやく目的が見付かったのだ。今の世界から脱け出すという目的が。

 転換点など無いんだと嘆くより、あるかもしれないと思う方が、希望があるというものだ。


 これから訪れる多くの事象は、本当につまらないことばかりで、いっそこの世界を憂いて身を投げてしまうのも悪くはない。だけど、どうせいつか井戸なんかに身を投げるのなら、少しでも抵抗した方が、その方が、とは思わないかい?




 あぁそうそう、あなたは間もなく大きな失敗をする。その失敗に苦しめられる日々が続くだろう。


 私はいつ訪れるか分からない転換点を求めて、少しでも長生きしてみようと思う。


 だからあなたも、無駄になるかもしれないが、せいぜい足掻いてみてほしい。

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