第3話 付き添う者は


 人もまばらな真駒内駅。

街中への通勤客で混むのは7時を過ぎてから。まだ余裕がある。


 周囲のあらゆる予想(と過剰な期待)に反して、僕は札幌の大学に合格した。迎える夏も二回目、すっかりなじんでいる。生まれは大阪の茨木市の山奥で、それまで百万都市に住んだことはなかったから初めての都会生活だった。

 札幌に来てすぐに、理由はわからないけれど関西弁が会話に混入すると微妙に距離を置かれることに気がついてすぐに改めた。そのほかは万事オッケー。


 北国の夏は快適の一語に尽きる。在学中は夏期に帰省するつもりは全くない。

 誰があんなところに帰るものか、とは出身組の満場一致の意見である(冬は全員帰省しちゃうけどね)。


 軽快な加速音とともに麻生行きの車両は高架を突っ走る。

 僕の座った車両には誰の影も見えない。


 母親に言わせると僕は神経過敏だという。父は吐き捨てるように女々しいと言った。おまけに酷いアトピー持ちだったから、子供の頃は同年代と遊んだ記憶もない。みんないやがるから。僕もそいつらを嫌いだったことを知らないはずだ。父母も含めて。

 ただ、函館にいた叔母だけはずいぶん僕をかわいがってくれた。不妊治療の甲斐なく子供ができなかったせいか、親族の中でただ一人の僕の味方だった。毎年のように夏は叔母の家で過ごすのが常だった。


 一人でも味方がいると人生はずっと優しくなる。


 母は病院で処方された薬を僕に投げるだけで、叔母だけが心配して聞いたことのないような治療や医院を紹介してくれた。多分良かれと思ってのことだろう。

 小学三年の夏休みだった。函館市内S町にある治療院(?)に付き添ってもらったことがある。函館にしては珍しいくらい気温が高く、セミが木に張り付いたまま絶唱して干からびてしまうんじゃないかと思うほどの暑い日だった。


「私の手には負えませんね」

 僕を一目見るなり年配の先生は言った。せっかく来たんですから、と叔母がやんわり抗議すると、先生は渋い顔をして、

「転居なさるがよろしい」

 ……それっきりだった。

 自分は生まれ故郷を出ないと幸せになれない。強い思いは幼子ごころに深く根を張って現在に至る。願えば願いは叶うものだ。かなわない人は自分のほんとうの願いに蓋をかぶせて平気なふりをしているだけ。


 札幌の夏は生気にあふれている。

 夏のいいところを全て備えていながら、酷暑や沸いて出る虫の大群やら湿疹とは無縁で過ごせるのだ。スポーツ施設は充実しているし、だいたいプールで身動きも出来ない内地のプールなんてどこの開発途上国だよ?


 空気がまたいい。生まれてこのかた僕を苦しめ続けてきた、肌を五ミリくらいの厚さで覆っている病の掻痒そうよう感がさらりと流れ去っていく(ような気がする)。花粉症の発作もぐっと少なくなった。

 これって最高じゃないか?


 ゴムタイヤを備えた車両は優しく停発車を繰り返し、南平岸で急に人影が増える。

だんだん人いきれと圧迫感で苦しくなる。人混みを避けて札駅を通り過ぎ北十八条で降りる。さすがに札駅は人が多いからね。それでもまだ穏やかなほうだ。大阪に比べれば。


 たった一度だけ母と一緒に大阪にお出かけしたことがある。

 彼の地の空気は濁りがある。空気そのものが独自の主張をしているのだ。

 わめき声、歓声、怒号、中には異国の言葉すら混じって頭がくらくらする。長い長い人々の歴史が渦を巻いている。ちょっと街を歩くといろんな古い歴史的構造物にぶつかるし、いろいろと面倒くさい。


 九月には帰省するようにと母の手紙にはあった。あの人はメールを使わない。

 手紙のほうが破壊力を持っているのを知っていてそうする。手紙に触れた瞬間、込められた気持ちのようなものを感じることさえある。たぶん僕は神経過敏。いや、母が嫌いなだけかも知れない。父は僕を死んだものと思っているらしい。自分の思い通りに育たなかったからといってそれはないよね?

 単調の中にも小さな幸せを見いだせるのは健康な証拠。僕は健康。僕は幸せ。言いきかせる力があるのも健康あってこそ。今、誰も僕を止められない、追ってこないはず……こんな自己暗示を信じかけていたのも昨日までだった。


 今日は朝から空気が死んでいた。真駒内の山側だと暑い日でもそれなりの空気の流れはあるはずなのに。けれどアパートのドアを開けた瞬間から、むっと空気が肌に粘り着いた。子供の頃のただれた感覚が一瞬よみがる。


 イヤホンをして携帯の音量を上げる。のっぺりした恐怖が襲ってきたら、思考停止にぴったりの音楽――メタル系とか行進曲とか――がいい。音楽の力は兵隊を鼓舞し、死線すら越えさせる。

 けれど今日に限って軽快な演奏も僕の足を軽くはしなかった。無意味なリズムが頭蓋を揺るがし虚空へ消えていく。音楽から意味を汲み取れない。なんの感情も生み出さない。


 真駒内駅は人がいなかった。発券機あたりにいつもたむろしている高校生たちもいなければ、ホームも無人駅のようにがらんとしていた。


 何かが近づいている。

 否。何かに僕は近づいている。引き寄せられている。

 故郷にうち捨てていたはずの僕の悪い半身がいるとすれば昨日の夜あたりに津軽海峡を渡っていま新札幌くらいだろうか?


 幸い、乗った車両は僕一人の貸切状態でほっとする。

 が、その安心感は南平岸駅であっさり破られた。老人の団体が車両に入ってくるなり、よたよたと席に座り始めた。今日は街中でイベントでもあるんだろうか。

 あっというまに車内の推定平均年齢は僕の四倍ぐらいに跳ね上がり、息が詰まる。老人独特の樟脳に似た重い匂い。肺疾患の人もいるのだろう。ときおりしわぶきが聞こえる。

 正直、つらい。

 地下鉄車両は高架から徐々に高度を落として地下へ潜り込む。この一瞬は何となく好きじゃなかった。地下から飛び出す帰路はいいんだけど。


 突然、喉がひりりとした。

 ……乾きを覚えた、なんてもんじゃなかった。

 喉に砂が詰まる。全身がてらてらと熱い。

 バケツ一杯の水、いや何か甘酸っぱくて喉を浸す液体。涼やかで喉を転がりながら渇きを癒してくれるものを飲み干したい。


「喉が乾いた」

「乾きましたね」

 斜め向かいの優先席、そろって見事な禿頭の老人二人が僕の気持ちを代弁した。いつの間にか僕の隣にもおっさんが座っている。静かだった車両は、はずれ馬券舞い散る競馬場のごとき異界に変貌していた。


 喉の焼けつきを鎮火したい。

 こんな時に限って、リュックに常備しているミネラルウォーターのペットボトルがない。今日はもう帰った方がいいかもしれない。次の駅でとっとと反対ホームに移るべきか。


「兄さん、ちょっとけてくれないか」

「は?」

「なんか飲むものもってねぇか」

 いつの間にか隣りに座っていた白髪の痩せこけた老人が、親指と中指指で輪っかを作ってくいくいと動かす。

「……もってません」

「嘘つくんじゃねぇ」

「ついてませんって!」

 声を荒げると、ぷいっとあっちの方向いた。この腐れジジイめ。

 リュックサックのジッパーをつまんだまま僕はフリーズする。全員が僕に粘っこい凝視を送っている。


 絶対に次の駅で降りよう。僕の本能は即座に決断を下す。しかし……。


 中の島……幌平橋……どの駅だってよかった。降りることが出来たなら。

 何故か僕の足はすくんで動かない。それどころか地下鉄のスピードが異様に遅く感じる。地下鉄はゆっくりゴムタイヤをきしませながら中島公園駅に滑り込んでいく。


 ドアまわりの人が割れて、急に僕の正面が白くなった。おっさん&爺さんのくすんだ灰色の群れのなかに白い点光源がぼっと現れたような。正面に座った女の子はつば広の白い大きな帽子を目深に被っていた。

 妙に印象のない顔である。鼻筋は通っていて、前髪が眉に被るくらい。髪の毛は肩から胸に流れている。色はつやのある黒。白く長い手がたらりと両膝に置かれている。

 ちょっと目をそらすと彼女のディテールは僕の頭から蒸発している。確かに以前見たことがあるような気もするし、そうでないような気もする。視覚に捉えたものの、印象に残らない。先頭車両から流れた風が一瞬彼女の髪を揺らす。

 彼女は僕の前に座っている。真正面に座っていながら何一つ特徴を捉えきれない女が。


 すすきの駅についた。

 彼女はふわりと立ち上がる。意外に背が高い。一瞬ちらりと僕に目をやってから足音もなく車外にでていく。その後をまるで先導されたかのように年寄り連中もあとに続いていった。車両の中に老人臭を残したまま……。

 かわりに徹夜明けらしい化粧の濃い女性たちが数人乗り込んできた。すすきの駅のごく当たり前の日常に戻っていることに気がつく。もう大丈夫という気がする。何に対して大丈夫なのかは知らない。

 地下鉄車両は軽快に大通り駅へと進んでいる。


 僕は携帯の画面を見つめ日付を確認する。今日は八月十五日……。

 札幌に来てからは年中行事がすっかり希薄になっていたから忘れていた。

 あのひとは僕を救ってくれたのだろうか。渇き切った人ならざる者たちの思い残し満たすためにすすきのに付き添って行ったのか。

 そういえば連中が乗り込んできた南平岸駅の旧名は確か……。


 列車は札駅を発車した。加速する車両の中で僕は考える。

 帰りは地下鉄はやめてバスで真駒内に戻ることにしよう。連中が往路に地下鉄を利用したなら、たぶん復路だってそうだ。

 そして大学の休みが始まったら、叔母のお墓参りに行ってあげよう。

 九月の半ばには函館もだいぶ涼しくなっているだろうから。


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