第8話 チェシャ猫運転士

 小学校の授業でスケート靴を履いて以来、タナカくんとトダくん、そして僕の三人は真駒内のアイスアリーナによくでかけていた。交通手段はもちろん地下鉄だった。


 今はふたりともお硬い役所に勤めていると風の便りで聞いてはいるが、当時の二人はクラス内のバカ二大巨頭といってよく、僕もかなりバカだったけどそれほどではなかった。

 例えばこんな話。

 ピンポン玉を三階の窓から落とした時と、パチンコ玉をおとしたときでは当然パチンコ玉が早く地面に落ちる。重いからスピードが出るのだ。

 ……二人の意見である。僕ではない。

 僕はそこそこ科学知識があったから、

(こいつらガリレオを知らないんだ)と内心は思っていたけれど、口に出すことはなかった。二人は絶対に、一歩たりとも、自分のバカを譲らないところがあった。それは僕も一目置くところだったし、歴史的観点から言ってガリレオが言い負かされる懸念もある。まあ、それでも地球は回っているんだけどね、と僕は内心でつぶやくだけにとどめておいた。


 トダくんの家の近く、屯田通りに小さなパチンコ屋があって、僕たち三人はよくそこで球ひろいをしていた。今はどうか知らないが店のまわりにはパチンコ玉がけっこう落ちていたのだ。

 トダくんは生来真面目で勤勉な質だったから、雨も雪も彼の収集熱をくじくことはできなかった。僕らがいないときも欠かさずパチンコ屋にへばりついており、しこたまパチンコ玉を持っていた。

 僕は年の離れた姉貴が卓球部だったので、ピンポン玉の調達係になった(バレた直後に卓球のラケットで脳天割されたけど)。


 理論は実証されねばならぬ、ということは僕たちにもわかっていたから、資材調達後に三階の教室の窓から実験を行ったのである。

「パチンコ玉がピンポン玉より早く地面に着弾するのはピンポン玉より重いから」説は実験を繰り返しても着地時間はあまり大差のないように思われた。ストップウォッチもない中で目視だったからかも知れない。

 落とすものをとっかえてみてはどうだろう? そうだそうだ。やろうやろう。

 鉛筆、消しゴム、黒板消し、教室にあった朝顔栽培用の鉢……

 このあたりですっ飛んできた担任のキムラ先生が大音声を放ち、僕たちの実験は結論が出ずに終わった。本当にバカである。

 キムラ先生はその後、異動になって人が変わったように厳しい先生になったと聞いた。こんなバカを三人も量産したのが負い目になったのだろう。気の毒に。



 アリーナに出かけるのはたいてい日曜の午前中だった。

 昼食代と利用料をもらってそれぞれにアノラックにスノトレ姿で地下鉄駅で合流してから、一路、真駒内駅へと進んでいく。一日中リンクで滑りまくってから帰路につく。

 これがほとんど一冬のあいだずっと続いた。


 あの「地下鉄競争」を発明したのはタナカくんのはずである。三人の中で一番体力があったから、たぶん間違いない。それはこんなだった。


・最後尾のドアが開いてから、先頭車両めがけて走り出し、発車の直前に乗り込む。

・いちばん距離を稼いだほうが勝ち。


 怪我をしたらということは全く頭に浮かばない。面白そうである。なによりスリルがある。駅に到着して車両のドアとホームドアが開く。ガキ、全力疾走。

 ……ホントやめてほしい。その時死んでいれば、今僕がこれを書くこともなかったはずである。

 

 アリーナのスケートリンクが一般利用できる最後の週だった。

(ネットを漁っていたら当時の利用日日程が出てきて何年何月まで特定できた。僕は小学三年だった)

 それまでの最高記録はしばらく前にタナカくんの叩き出した二車両超えいっこ目のドア、だった。

 この記録はなかなか破られず、その日はどのみち最後だし三人で走ることにした。あの駅はたしか……中の島駅だったはずだ。ホームがまっすぐで乗降客も少ない駅だから。


 圧搾空気の音がして、ドアが開く。飛び降りた僕たちは記録更新を確信した。ホームには誰もいない。何という幸運だろう!

 全力で走っているうちに、発車のアナウンスが聞こえた。先頭車両はまだ二つ先である。ところがアナウンスが終わっても車両は動こうとしない。

 奇声をあげつつ、人類未踏の先頭車両に僕たちがあと一歩というとき……。

 運転席の側面の窓がパタンと開いたかと思うと、


「バカヤロー!!」


 驚いたのなんの。そこが開くとは予想外だったし、いきなりの罵声に虚を突かれたが、キムラ先生の口撃に鍛えられていた僕たちは速やかに立ちなおった。

「ばーか」

「ばーか」

「バーカ」

 バカの三連唱で反撃し、一斉に逃げ出したのである。ほんとバカだ。

 今にして思うのだが、発車を一瞬送らせて一喝した運転士の行動は正しい。命の恩人とも言えなくもない。


 しかしよく考えてみると地下鉄先頭車両の側面窓が開いたはずはないのだ。

 大昔の古い地下鉄車両で開いた写真は見たことあるけど、現行の車両で開いたのを一度も見たことがない。

 だいたい、バカが嬉しそうに走っている姿を窓も開けずにどうやって知ったのか。

ホームの監視カメラの映像が運転席にWi-Fiで飛ばされていたという可能性もあるがもう十五年も前の話だし、どうなんだろう。

 

 この話にはまだ続きがある。

 高校生になってから僕は地下鉄で通学することになった。

 ある朝、僕はいつものようにホーム先端の壁によりかかってデジタルカメラを握りしめていた。ホームに入ってくる地下鉄の写真を取るためである(本当はいけないのだが)。僕は入学してすぐに写真部に入ってあらゆるものを撮りまくったが、地下鉄は格好の被写体だった。

 カメラを構え、入ってきた地下鉄が停車するのを待つ。写真を取る。乗り込む。段取りはいつも同じだった。


 その日は何の予感か知らないが、ふと運転室の中の人物と目があった。

 緑のガラス越しに見えた顔はまたおまえかという顔をしていたし、僕もまた僕です、という顔をしていたはずで、僕は高校の制服だったけれど彼にはわかったらしい。

 微妙な空気がすぎること数秒、発車のベルとともに地下鉄は動き出した。

 乗り込むタイミングを逸した僕を無情にもホームに置き去りにしたまま、地下鉄はトンネルに吸い込まれていった。遅刻確定……。


 しばらくの間、彼の怒ったような笑いをこらえているような表情がチェシャ猫のように脳裏を浮遊しているような気がして、僕は小さくバーカと言ってみた。


 ……ただそれだけの話。

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札幌・地下鉄妖精譚 伊東デイズ @38k285nw

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