第7話 猫は恋人
「今晩、お通夜なの?」
「うん」
今日は写真部でずいぶんもめた。鉄ヲタの廃線紀行案と山岳派の冬の藻岩山の二案で結論は出ないまま下校時間になった。で、正面玄関で岡崎さんに捕まってしまった。
「冬は園芸部は暇なの。もう今年の播種計画は立てちゃったし」
登校時はいつも一緒だったけれど、帰りが一緒なのは珍しい。というか帰りくらい地下鉄の心地よい揺れに身を任せたい。
「キミといると退屈しないから」
白い息を吐きながら、岡崎さんはさらりといってのけた。
僕は抵抗をあきらめた。頼んだ覚えはないけれど、待ってもらって袖にすることもない。
*
亡くなったのは僕の母方の叔母だった。住んでいたのは円山で、比較的裕福な人々が住む街だ。
叔母は母よりずっと年が離れていて、長女だったせいか一族の長老と目されていた。僕が小学生の時にすでに五十の坂を通り越していたのは間違いない。
地下鉄円山駅から公園通りを抜け右に曲がり、しばらく山にむかって歩く。その一角、山裾と言ってもいいくらいの三角地に叔母の家は立っている。碁盤の目都市の札幌では珍しい区画割りだった。三角は忌地といって、商家は三角地に家を建てないものだそうだけれど、ご先祖さまは気にしなかったらしい。
ここは我が一族――札幌在住五代目になる――発祥の地、ということになっている。それより以前は除籍謄本によると遠いご先祖さまはいまの石川県の辺りに住んでいたようだ。
母は結婚を機に家を出て、叔父たちもそれぞれ家庭を持つと、
僕は子供の頃から叔母にとても可愛がってもらった。
漣叔母は独身で、僕の叔父たちには娘しかいない。なので叔母は僕を跡継ぎ扱いしたかったのだろう。
僕は漣叔母のことをレンおばさんと言っていた。漣の読み間違いがそのまま定着してしまったんだろうけど、叔母は気にするわけでもなく、いつも訪れた僕を歓迎してくれた。
*
最初の坂を下りながら、岡崎さんは言った。
「きれいな人だったんでしょう?」
「まあね。なんでそう思ったの」
「キミが慕っているくらいだし。ひょっとして背も高かったとか」
岡崎さんは百七十センチの高みから僕を見下ろしつつ、ニッと笑みを見せた。
「なんでそうなる」
「まあいいから。で、それからどうなったの」
「うん。一つ問題があってさ」
*
猫。
昔から我が家は猫と関わりがある。言い伝えによれば北陸の寒村で網元をしていたご先祖様が、ネズミ対策として飼っていたらしい。
一族総出で北海道に入植したときにも何匹かの猫を連れてきたようだ。近隣の農家が鼠害に悩んでいるときもご先祖様の家だけは災禍を逃れたという。ただし、猫を飼えるのは一族の長だけという暗黙の掟があった。当然ながら一族のなかで叔母だけが猫を飼っていた。
僕も猫が好きだ。というか僕が猫を好きになったのは叔母の影響だろう。
叔母が飼っていた猫はアデルという。昔の映画から取ったと聞いたが邦題は思い出せない。とてつもなく賢く気高い猫だった。
ある日、僕が叔母の家に向かうべく地下鉄円山駅の二番出口を出ると……突然、チリンと鈴の音がした。足元にこつ然と現れた――としか思えない――アデルが僕を見上げていた。
こんな人目に触れるところに来て間違って捕縛されたりしないのだろうか。
僕は猫を抱え――というか彼女が飛び込んできた――叔母の家に連れ帰った。僕が家に入ると叔母はご苦労さま、とアデルにいい、笑みを僕に投げた。
「アデルを迎えにやったの?」
「そろそろ来るころね、と思ったときにはもういなかったわ」
そんなことってあるのだろうか。
僕はそれまでアデルが首輪に付けた鈴を鳴らして歩くのを聞いたことがなかった。彼女はどんな猫よりも静かに移動するのだ。もしかすると地下鉄の入口で聞いた鈴の音は彼女の合図だったのかもしれない。
……私はここにいますよ、と。
思うに彼女は透明になれるのだ。僕が確認できたので音で知らせ、周囲の安全を確認した後、姿を表したのでは……しばらくのあいだ、そんな妄想が浮かんだものだった。
叔母と彼女の関係は飼い主・ペットの関係を超えていた。まるで自分の娘のように扱う叔母と、礼儀正しいおしとやかな娘。ただし僕が叔母の家に滞在中、アデルは僕にまとわりついて離れなかった。
*
「のろけ話はもう結構」
「なんだよ、それ」
「そういうところがあるから、キミは憑かれやすいんじゃない?」
「ただの猫だよ。普通の。品種とかはわからないけど」
「ある種の守り神的な?」
「知らんけど。僕が幼稚園の頃からいたから結構な年齢のはず」
「年を経て人語を解するようになったのかも。いわゆる猫又」
「岡崎さんはそういったことも詳しいの」
「そっち方面はかかわらないようにしてる」
どっちの方面なんだろう。
話しているうちに住宅街を抜け、二つ目の坂道に届く。融雪剤で煤けた黒い路面は油断がならないから、僕たちは黙って歩いていた。
坂の中腹から地下鉄のシェルターが見えた。夕日に染まる巨大なチューブの中を、地下鉄が光条を伸ばしながら移動していく。
*
高校に進学してからはめったに叔母の家に行くことはなかった。
学校に通学するには真駒内行きの地下鉄に乗らないといけないし、僕の活動圏は札幌の南側に軸を移すことになったのだ。友達もほとんどが平岸以南にすんでいる。
岡崎さんは別だ。この人を僕の友人といっていいいのかはまだわからない。僕が何らかの観察対象である可能性はまだある。
「猫はだれが飼うの」
「それが問題なんだよね」
僕の家はペット不可のマンションだし、うるさい人が約一名いるおかげで彼女の行く末が心配だ。
「猫を引き取ってくれるようなところは……」
「私は駄目。小さい妹がいるから」
別に頼んじゃいないのに。
寄る辺ない猫を引き取ってくれる老猫ホームみたいなものはないんだろうか。
「盲導犬の介護ハウスは札幌にもあるけど、猫はきいたことないわ」
「なんか不公平だよね。猫が働いていないという理由だけで」
叔母の死より、僕はあの賢い彼女のことが気にかかる。あの穏やかな瞳と、気品のある物腰……猫なのに何という形容なのかと自分でも思うが、彼女は実際そうなのだ。
ペットを買う時に一番大事なこと。
それは絶対にペットより先に死なないこと。ペットを亡くした悲しみより、主を亡くしたペットのほうがずっと悲しみは深い、と僕は思う。
けれど、家族と疎遠なお年寄りにペット無しで暮らせというのはあまりに残酷だ。
黙り込んだ僕にそれ以上話しかけることなく、岡崎さんは幌平橋駅で先に降りていった。
*
珍しく親父が僕より早く帰宅していた。病院の仕事は変わってもらったんだろう。母親はクローゼットから喪服を取り出しながら僕に言った。
「お通夜は円山の家で執り行うそうよ」
「制服のままでいいの」
「フォーマルなものはそれしかないでしょ」
僕が手洗いとうがいをすませて――清潔は我が家の
「
「葬儀の席で腹の虫がなったら台無しだからな」
ずずっ、とお茶漬けをすすった。
大事な席にお呼ばれしたときとか、出かける前に一口、二口食べていくのが昔からの習わしなのだ。要は他家で賤しくしないように、失礼にならないようにということらしい。
僕もご飯をお茶碗に入れて、お
「叔母さん、こんなに早く亡くなるなんて」
「持病があったからな」
「なんの?」
「パーキンソン病だ。治療はしていたようだが、不治の病だからな」
そういえば僕が叔母の家にでかけた最後の日は、庭の掃除とか細々した頼み事をされたものだった。
あの頃からもう体の無理はきかなかったのか。僕ときたらアデルと遊んで、というか遊ばれるのに手一杯でろくに手伝いもしなかったのが悔やまれる。
「アデルは」
「だれだそれは」
「猫。おばさんが飼ってた」
「あの猫か」
お茶漬けを食べ終えた父は、茶碗を台所のボウルに沈めながらこともなげに言った。
「処分に決まってるだろ。年取った猫なんかだれも引き取らんだろうし」
僕の家は犬猫はおろか、ハムスターなどの小動物、昆虫の類まで厳禁だった。父は職業柄、人畜共通感染症を警戒していて僕の願いはことごとく拒否していた。
「俺が感染して万が一にでも患者さんに
仕事のことは分かるんだけど、この人は他人の心情に無頓着なところがある。まあね、食わせてもらって学費まで出してもらってるから何も言わないでおく。……許したことは一度もないけど。
まるで僕の考えを読んだかのように、父は続ける。
「この家では絶対に飼えないからな。わかってるだろ」
父親が僕に釘を刺すまでもなく、お通夜が終わった時点で問題は消えてしまった。正しくは問題の主、アデルが行方知れずになっていたのだ。
叔母は自宅で事切れていたのをデイケアの人がみつけたのだが、猫の姿などなかったという。
その上、猫を飼っていた形跡がみあたらない。給餌器や猫用のボウルなど、一切なかった。叔父たちの結論として、アデルは叔母が亡くなるずっと以前に死んだのだろうということになった。
*
「おはよう。珍しいわね。今日は眠ってないんだ」
車両のドアが開いて、圧搾された空気の余韻とともに岡崎さんが入ってくる。そして僕の真向かいに立った。
朝からいきなり圧迫面接かよ。僕だってそういつも地下鉄で眠りこけているわけじゃないはず、なんだけど確証がないので言い返せない。この人は入学以来、一年間に渡り地下鉄で眠りこける僕を観察していたらしいのだ。
「お葬式で何かやばいものを拾ってきたんじゃないかと……」
「なわけないだろ」
岡崎さんは「視える人」なので軽く言うが、憑かれやすい僕にとっては迷惑この上ない。
僕はかいつまんで事の顛末を話した。
「自宅葬だったから、行ったついでに家の周りを探してみたんだ。でもいなかった」
「キミが事実上の後継ぎというか伝承者なんでしょう?」
「叔父たちがいるし。って伝承者ってなんだよ。一子相伝するものなんかうちにはないよ」
上から見下ろすのに飽きたのか、岡崎さんは僕の横にすっと座った。栗色の髪が僕の肩に一瞬かかる。まだ地下鉄は地上に出ていない。
「お屋敷が残ってるじゃない」
「取り壊したほうがいいんだってさ」
「もったいないような気もするけど」
「変に市の文化財指定とか受けると維持管理は自腹だし、売却できなくなる」
「古い家にはいろいろ棲み着いてるから。触りがなきゃいいんだけど」
「僕はもうあの家に行かないし」
アデルも叔母もいない家なんてただの古い建物にすぎない。相続なんか願い下げだ。
「ま、なんか拾ってきたら私がなんとかしてあげるから。手に負えなかったらその時はごめんってことで」
笑顔で言う話でもないだろ。
地下鉄はもういつもの降車駅ホームに入りかけている。
まだ早い時間だから、ホームには誰もいない。
岡崎さんは、足早に階段を降りて改札口を抜け、外へ続くアルミ製のドアを開ける。
「ありがとう」
僕が礼を言いつつドアをぬけても、岡崎さんはまだドアをおさえている。後ろに人の姿は見えない。岡崎さんは少し笑みを見せた。
「ずっとついてきたみたいね」
僕の耳にチリン、と小さく鈴の音が聞こえたような気がした。
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