第5話 眠り少年と目覚まし女

 隣に誰かいる。

 僕の右肩、地下鉄の進行方向の位置にいる誰か。僕のぼんやりした視野に長い髪が見えたし、柔らかい肩はどう考えても女の人だ。

 意識明瞭、体は麻痺。またしても金縛りだ。隣の女性も眠りこけているようでもあり、次第に僕にかかる荷重が増してくる。

 心地よく揺れる車両に誘われて眠りに落ちるのはいつものことだったけれど、ここまで露骨に密着されたのは初めてだ。


 向かい斜めのシートにいた同じクラスの岡崎さんが文庫本から目を上げた。何かおもしろそうにこっちを見てる。ちょうど地下鉄は平岸駅ホームに侵入したところ。


 女性に寄りかかられたまま動けない僕がそんなに面白いのか。

 向かいの暗い窓ガラスに、疾走するトンネルの壁と首を珍妙に傾けた僕の姿が映る。まさか岡崎さんに限ってケータイで写真を撮って全校にばらまくような真似はしないと思う。地下鉄車両でフラッシュ無しで撮影するのは難しいし。


地下鉄のドアが開閉を繰り返し、けったいな恰好の僕と微妙な笑みを浮かべた岡崎さん、次第に熟睡の度を深めているらしい女性を乗せて地下鉄はトンネルを疾走していく。

 南平岸のアナウンスが聞こえてきたときだった。急に目の前が暗くなった。

「早く降りなさい!」

 大声が車内に響いた。



**


 優秀な父と出来すぎな兄にくらべて僕は昔から特定方面に頭が弱かった。よわいというのか、すぐに寝てしまう。特に数学で意識喪失してしまう。

 父親が経営している病院で検査してくれたがそうではなかった。ナルコレプシーとかいう難病でもないそうだ。

 夜も早めに床につく……それでもダメで、ありがたくもこのあだ名が付いた。僕の本名よりもあだ名のほうが校内に知れ渡っている。

 「眠り王子」っていう。何が王子だ。

 当然、友達もあまりいない。

 特に女子は僕を避けているようだ。彼女たちと僕の間には絶対防衛ラインがあって、僕がそれを超えようとすると、おびえと今にも叫びそうな顔がこちらに向けられる。

 その最大の理由が、僕が起きたときの反応なのだ。

 机から転げ落ちるとか、頭を机にぶつける程度なら、優しく許容してくれる女の子だっているかもしれない。

しかし、僕の眠りはあまりに深く、数々の武勇伝をうみだしている。


 たとえば先月の中間試験の日のことだった。 

 徹夜で勉強した結果、覚醒貯金を使い果たした僕の脳みそは睡眠不足を解消しようと全力を尽くしたらしい。よせばいいのに通学途中に、だ。地下鉄が動き出してほどなくして意識はシャットダウンした。


 気がつくと地下鉄南北線の最南端、真駒内駅に着いていた。このまま整備区間に持ってかれそうなところを慌ててホームにまろびでた。なんとか逆方向の車両に乗ったところまでは覚えている。

 ……気がつくと目的駅を遥か通り過ぎて大通りだった。その間の記憶はない。

 授業中に死んだように寝ていたかと思えば、夜驚状態で大声を上げて目が覚めたこともある。幼稚園児じゃあるまいし。一度二度なら笑ってすんだことだろうが、繰り返すに連れ次第に周囲から気味悪がられて現在に至る、だ。


 まあ、外見や成績はそこそこ、意識的に清潔を心がけてはいるけれど、僕の痴態が相手の耳に入るとおつきあいは淡い雪のように消えて行く。

幾つもの出会いの芽は決して育ちも実ることもなく、僕の醜態が枯らしてしまう。

 だから、僕が岡崎さんに声をかけるなんて、夢のまた夢だった。



**


 まだうすら寒い四月の早朝、地下鉄中島公園駅の階段をとっとと降りているころ、時計の針はまだ七時すこし前だ。

 我が家は五時には起床して、一時間の勉強をする。いわゆる朝勉である。

「俺もそうしたから、お前もそうしろ」

 とはオヤジと兄の言い分で、朝は二人のどちらかがたたき起こしにくる。片方は現役の内科医だし、兄貴は札医大に在学中。説得力MAX。抗弁の余地なし。

 朝食を済ませると小走りで地下鉄駅に向かう。

 いつもの乗車口から車両最後尾に乗り込んで、次の駅に着くまえには睡眠体勢に入りかけだ。

 特に月曜の朝は太古の昔からブルーマンデーって言うくらいで、心地よく揺れる地下鉄の車両はたちまち眠りの世界へ僕をいざなっていく。地下鉄特有の加速音の行き着く先は夢の国だ。

 覚醒中枢の濁度が増加し、幽明の境を流れる川の岸辺で足を浸しかけた頃、次の幌平橋駅で地下鉄のドアが開く。


 岡崎さんがひらりと乗車して、いつもの席に座った。僕の斜め向かいだ。もう僕の頭はどろっと濁ってるから動けない。だいたい僕のほうが先に乗車したんだし、席を変える理由もない。

 岡崎さんはこっちを一瞥して席に着き、文庫本を開いている。

 引き締まった口元と整った鼻梁がちょっと日本人離れしている。長い栗色の髪が後ろできっちりまとめてあって、うなじのあたりが美しい曲線を描いて上衣に消えていく。顔つきはちょっとハードタッチな美人で鋭い目つきがこれまたそそる。

 大人っぽくて、クラスでも一人だけ浮いていたけれど本人は意に介した様子はない。僕はなによりも彼女の自立したところが好きだった。

 彼女には不要なものを寄せ付けない守護天使がいるに違いない。いや、彼女が天使、と言ってもいい……言えるかよそんなこと。


 岡崎さんは生物部で、僕は写真部だ。噂によると彼女には植物を育てるとびきりの才能があるらしい。最初はその高身長を買われてバスケ部にしきりに勧誘されていたそうだが、きっぱりと断って生物部の部長をしている。

 去年の夏には大きな麦わら帽子を被った岡崎さんが部員を従えて学校花壇の手入れしていたのはよく見かけた。一年の部員に大変慕われているらしい。僕だって慕うだけなら誰にも負けない。


こんなのはどうだろう。

花の写真を撮らせてもらえませんか。そういえばいつも地下鉄で会ってますよね……。みたいな。簡単じゃないか。

 けれど僕には同じクラスだというのに話しかける勇気がない。話ができたらなとは思う。でも……。いつもの脱出不能なループが始まって、僕の意識は遠くなる。寝顔を見られているとかどうでもいい。


 ……眠いのだ。


 七時二十分には地下鉄は登坂をはじめ、高架になる。車内にまぶしい朝日がなだれ込んできてようやく目が覚める。

 目蓋をあけて最初に飛び込んでくるのが、朝日を浴びた彼女の姿だ。

 栗色の髪がオーラのようにぼうっと輝いてまことに美しい。高速で飛び去っていく町々を背景にして高貴な光が生き物のように彼女を取り巻いている。身動きできない僕でも見えるような気がする。

 僕の呪縛が溶け、車両の速度が緩やかになる頃、岡崎さんは文庫本から顔を上げ高架にのぼった車両の窓から遙か遠くを見つめている。


 やがて目的の駅に着いた僕は、向かいのホームから発車する満員の車両を横目で見つつ、階段を駆け下りる。彼女の前で眠りこけたことを後悔しながら。

 一日はこんなかたちで始まる。入学して以来、二年間ずっとだ。

 

 ……正直、せつない。


*


 地下鉄駅を出て、学校までは二つのルートがある。

 一つ目は遠回りコース。地下鉄の東口からしばらく行った先に横断歩道があって、校舎へ至るなだらかな坂道が続いている。“静粛に”みたいな張り紙があちこちの電柱に張ってあって視覚的に煩わしい。


 もう一つは、駅前交差点をすぐに渡って、急な坂をのぼるコース。

 平面図上では学校までの最短距離だった。始業までは余裕があるが、僕はその坂を急いで登る。

 学校に着いた時点で七時四十分くらい。大雨でも降らない限りこの時間には間違いなく到着している。

 僕の足音だけが響く静かな校舎内をまっすぐ写真部の部室へ向かう。こっそり合い鍵を作ってあるから、始業前でも入室可能だ。そして僕は一日の始まりの儀式を執り行うのである。


 すなわち……寝るのだ。

 本棚に置いてあるキッチンタイマーのボタンを押す。時間は二十五分。

 部室にストックしてある缶コーヒーを一気飲みして、暗室にあるソファに倒れ込んだ僕はすぐに眠りに落ちる。

 カフェインが脳に届き始める頃、僕はぱっちり目を覚ます。午前中の「覚醒貯金」はなんとかぎりぎり貯蓄される。


 パワーナップは僕の必須にして聖なる朝の儀式だった。これでようやく午前中の授業はやりすごせる。地下鉄はともかく校内では醜態をさらしたくない。とくに岡崎さんの前では。


*


「降りなさいよ!」

 いきなり言われても途惑うばかりだ。もちろんそれくらいで僕の眠気は消えたりはしない。

 岡崎さんが僕の前に立っていた。身長170cmの高みから僕を見下ろしている。 

 降車するのはもう一つ先の駅だ。ここで降車すると部室で寝る時間が無くなる。冗談じゃない。

 言葉は頭の中で周回するばかり、体はぐったりとして重い。ひょっとしてこれは夢かも知れない。


 車両は減速をはじめている。

「だからあなたは降りなさい」

 いきなり僕の肩にバシンと手が乗せられる。


 突然肩が軽くなる。隣りにいたはずの女性は……いない。

「君に言ったんじゃないわ」

「へ?」

「憑いてるやつに言ったの」

 いつの間にか岡崎さんの空いた方の手は数珠を握っていた。

「今日のはちょっとヤバかったからね」

「ていうか、君は”見える系”の人?」

「目下のところ修行中。南平岸駅の昔の名前、知ってるでしょ」

「あ」

「君はどっかで拾ってきたのを毎朝ここに運んできたってわけ。」

「つまり僕は運び屋だったの?」

「憑きやすい体質ってあるから。こっちも面白くて眺めていたんだけど、最近は教室にまで持ち込むから、なんとかしようと思ってた」

「二年間も?」

「君も私のことをずっと見てたじゃない。こっそり写真を撮ったり」

「…………」

「ま、今日みたいな例外もあるけど、君に憑くようなのは基本的に無害ね。気持ちが善良だから」

「それって褒め言葉?」

「単純とも言う」

「とりあえず礼を言っておく」

「感謝が足りない」

 ぴしり、と言い返した岡崎さんと僕はホームに足を踏み出す。シェルターの窓からさす曙光が眩しい。今日も暑くなりそうだ。


「もし、あのまま眠ってたらどうなったんだろう」

「さあ。たまーにとんでもなく強力なやつが居るからね」

「お盆が近いからかも」

「あなた、実験台にならない?」

「は?」

「あなたがいろいろ運んでくるのを私が値踏みしてやばかったら対処する」

「手に負えなかったらどうするの」

「頑張れ、王子くん。あなたの屍は拾ってあげる……なんてね」

 ふふん、と岡崎さんは鼻で笑った。百七十センチの高みから僕を見下ろす目つきはちょっとからかい半分、といったところ。本気なんだろうか。

「バイト代も出すわ」

「そんなことならお安い御用だ」

 何が僕にくっついていたのか知らないが、これはチャンスだ。



 その時交わした契約が、のちのち僕に後難をもたらすかもしれないくらいのことは考えても良かったかもしれない。でも僕はまだちょっと寝ぼけが抜けていないなかったし、岡崎さんを目の前にして、僕に躊躇はありえない。


二人で地下鉄駅の玄関に向かう。岡崎さんにドアを開けてあげてから僕は思った。今日は遠回りルートで登校しよう。

 岡崎さんとは話したいことがたくさんありすぎて、僕は時間が欲しかったんだ。





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