第2話 雪国ジョガーは走りたい

「もったいないよね」

「全然」

「学卒、役所勤務で上級職。しかも本所勤務だよ?」

 同じ市職員の麻美あさみだけあって説得力はある。が、実態を知らない第三者の意見だ。麻美の職場は街外まちはずれにある図書館で、あいつと接触する機会はないはず。


 雅史まさしとはジムで出会って怪我で別れた……というか距離を置いている。冷却期間だと自分に言い聞かせてはいるけれど、心の冷凍庫に放りっぱなしの案件はいったいいくつあるだろう。年齢を考えれば後悔がないといえば嘘になる。

「真理恵は自己主張がすぎるんだよね」

「相手に合わせて自分を変えたくない」

「男は頼ってくれる女が好みなんだよ」

「いつの時代だよ」

「妥協点を探しなよ」

 麻美は飲みかけのコークハイのグラスをテーブルに置いた。わたしはウーロン茶だ。アルコールと糖分の入ったものは一切飲まない。

「あんな優良物件、めったにないよ。向こうもはっきり気があるんだし」

 あいつは不動産か。たしかに性格は悪くない。市役所づとめだけあって清潔感はもちろん服装もきっちりしている。けれど……。


 わたしは大学卒業後、市内のソフトハウスで携帯アプリをつくっている。一日中コーディング作業に追われ、脂肪細胞は着々と増殖を続けてBMIが三十を超えたあたりでジムに走った。


 雅史と出会ったのは狸小路からちょっと離れたところにあるアスレチックジム。職場からは歩いていける距離だ。一人では勇気がいるので麻美と一緒に通っていた。

 運動音痴のわたしは真摯しんしにトレーニングに励む雅史が新鮮にうつって、自分から追っかけたような気もする。そのあたりのことはもうよく覚えていない。わたしも走ることに夢中になったから。


 わたしが話に乗らないせいか、麻美は話を変えた。

「来週から冬休みが始まるんだよね。小中学校のさ。あいつら絶対に本を元あったところにかえさないし」

「それ夏休みにも言ってなかったっけ」

 ようやく麻美の不機嫌な理由がわかった。わたしの話は前菜みたいなもので、仕事を愚痴りたいらしい。

 図書館の繁忙期になると、ビル地下での月イチの食事会が愚痴り大会になるのはいつものことだった。わたしも雅史の件では愚痴りまくったので、平たく言うと同病相哀れむというところ。


「こないださ、返却された本をチェックしたらポテトチップのかけらが出てきたわ。何箇所も。油染みがひどくて廃棄確定。ポテチで押し花すんじゃねぇよ」

 うんそうだね

「最近の中学生は本を手当たり次第に携帯で取りまくりやがって図書館に何しに来たんだろうね」

 うんそうだね。

「あんた鈍感だから気づいてないみたいだけど、ジムの常連さんのあんたを見る目がきついよね。雅史を捨てたせいだよ」

 うん、そう……は?

「人呼んで彼が怪我した瞬間に別れた女。そら世間の目も厳しいわ。そこはお見舞いくらい行ってやんないと」

 雅史は庁舎地階の食堂横にある倉庫の引っ越しで一日中荷物を運んでいたらしいのだけれど、同じ日にジムで無茶をしてわたしの目の前で右膝の靭帯を切った。


 そんなにしてまで“強い男アピール”しなくてもいいのに。


 お見舞いには行ったが二度でやめた。帰りにジムに寄ると言ったら、すごく嫌な顔をした。自分が行けないのが面白くないらしい。体は頭一つわたしより大きいくせに子供みたい。以前からも私が出張したり外泊したりすると機嫌が悪くなっていたのが怪我をしてからは露骨になった。

 本当の原因はわかっている。経済力でわたしが圧倒していることに引け目を感じているらしい。三つ年上のわたしが公務員勤務二年目の雅史より収入が多いのは大して自慢にもならない。


「今週末はどうすんの」

「隠れ家で本でも読んでるわ。実家は弟と親父がうるさいし」

「あんたはいいね。そんな余裕があるなんて。ひょっとして例のアレ?」

 わたしは応えず机上の注文伝票を取った。今月の食事会の支払いはわたしの番だ。麻美は少し呆れたような顔をして席を立った。

 月に一回は隠れ家にこもるのがわたしの密やかな楽しみだった。携帯アプリの売り上げが絶好調なせいで、この程度の贅沢は可能だ。初音ミクは千葉市に引っ越してしまったけれど、まだ札幌バレーは死んでない。

 レジで会計を済ませ、地上にでると雪はまた深さを増していた。重い雪が勢い良く頬にあたって痛い。



 北海道に住んでいて、地方に行きたいと一度も思ったことがない。関心もない。このあいだ会社で音更おとふけ町をおとさら、と読んで北海道人であることを疑われたくらいだ。

 この街で生まれ育ってそれだけ愛着がある。なので休日になると円山にある実家には帰らず、町中のホテルで過ごすことがある。


 ジムに行きたい。

 でも麻美の話を聞いていきづらい。新しいジムに新規会員で入るのも面倒だ。なじむまで時間がかかるし、根雪になると札幌のジムは夏より混む。オール札幌市民がウィンタースポーツに夢中なはずもなく、冬季のスポーツ施設は十八時くらいから込み始める。ジムのトレッドミルはめちゃ混みで一人三十分ルールになっていた。

 ……走りたい。

 女の筋肉は鍛えても男よりずっと早く消えてしまう。

 自由に走れる体育館は市内にはない。夏場は豊平川自転車道を走ればいいけど、まだ半年先だ。

 ……走りたくて気が狂いそう! 

 かくしてわたしはある決意を持って隠れ家に一泊の予約を入れる。


 定宿のホテルは札幌の中心にある。

 かつて街の中心は大通りだった。いまはぐっと駅よりに移動したけれど、大通りのテレビ塔周辺の夏の吸引力は半端ない。加えて冬のイルミネーション、雪まつりで大通りは圧勝する。まだまだ駅前はちょっと弱いのだ。だから札幌の中心は多分札幌駅と大通りの間のどこかにあるはず。

 わたしは札幌でも有数の伝統があるこのホテルのあたりだとにらんでいる。駅前でも大通りのイベントにも動きやすい。絶妙な位置にある。


 午前五時五十分。喉が凍るような寒気をぬって、ホテル前の地下連絡口に飛び込んだわたしの姿はスノトレシューズに白い上下防寒スウェット、ニット帽。手袋。以上。

 札幌駅から大通駅までの地下連絡通路は520メートル。往復で一キロある。通路洗浄のクリーナー機が唸りを上げるまで2セットは軽い。すすきのまで足を伸ばせばもっと距離があるけれど、空気が悪いからやめておく。


 最初はゆっくり小走りに、防災センターを過ぎて貸しスペースの全道高校生絵画展の展示を横目にしつつ、少しずつスピードを上げる。

 低い天井の天窓から差す光はまだおぼろで、地下連絡通路には遠くに数人いるだけだ。中にはわたしと同じフル装備で歩いているおじさんがいる。同好の士、かもしれない。そのうちこの通路も走るのは禁止になるだろう。

 ハンバーガーショップを右手に、やがて地下鉄札幌駅前の改札近く、アイヌ刺繍展示場の一つ手前の柱でターン……。

 呼吸が乱れる。いきなり柱の陰から現れたのは雅史だった。松葉杖はしていない。少し安堵する。

「……どうしてここがわかったの」

「麻美さんに聞いた。でもどのホテルかわからなかったんで、ここで待ってた」

「で?」

「ごめん。治療中は不快な思いをさせた。トレーニングできないのがつらかったんだ。もう治ったからやり直したい」

「勝手な理屈よね」

「僕はこれまで男らしくしなきゃっていつも思ってた。怪我をしてわかった。ありのままでいいって。もう二度と真理恵さんの給料にイヤミを言ったりしない。どこに泊まっても文句は言わない」

「いまさら遅い」


 わたしはくるりと向きを変え早足にあるく。でも、走ったりはしない。

「真理恵さん!」

 必死になって追ってくるのが振り向かなくてもわかった。

 ついてこれるならついてこい。わたしは自分の道を変えたりしない。


 ……ずっと、わたしについてこい。


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