オオヤマレンゲとわたし

田島絵里子

オオヤマレンゲとわたし


 平成初期のこと、わたしは夫とともにトレッキング・サークルに入った。広島に来たばかりだし、運動不足と孤独を解消する意味でも、そのサークルに入って山登りをしようというわけだ。


 広島は、低山に恵まれた土地である。初心者でも手軽にいける山が、ごろごろしている。そのなかには古事記に出てくる神さまが葬られたという比婆山ひばやまもあれば、その隣には、頂上に木が一本もない毛無山けなしやまもある。


どんなに低山でも、ちゃんとした装備は欠かせない。しかし、どんな装備を用意すればいいのか判らない。そんなときにサークルに入っていると、先輩からいろいろなことを教わることが出来る。


 地図の見方を教えてくれたり、靴はスニーカーじゃダメだよと教えてくれたり、なにかとお世話になったサブリーダー。髪はかるくウエーブしており、目は大きくてキラキラ輝いていた。山に登っているのにまったく焼けていなかった。


「この山じゃないけど、ショウジョウバカマって花も咲いてる山があってね、これもなかなか可憐で、見てて飽きないんよ」

 そんなことを言っているサブリーダーは、おおきな瞳が美しかった。

「オオヤマレンゲは、どんな花なの?」

わたしが水を向けてみると、

「それは行ってのお楽しみ!」

 と、サブリーダーは、いたずらっぽく微笑んだ。


 数ある山の中でも、忘れられない山がある。梅雨まえに、オオヤマレンゲという花を見に行ったときのこと。場所は島根県境の猿政山さるまさやまである。

 マイクロバスで駐車場に着いてから、ラジオ体操をする。平均年齢六十歳。人数は十二人ぐらいだった。


どんよりとした空の下、わたしたちサークルは、山を登っていく。山登りは登るだけでも楽しいものだ。頂上に到着したという達成感は、半端ない。

 わたしたちは、山の道を歩き続ける。

 ふと小石に足を取られそうになり、サブリーダーが手を差しのばしてくれた。リーダーはグループの全体に目をやり、遅れそうな人に声をかけている。周りを見る余裕なんてまったくなかった。冷たい、湿った風が潮のように青い木々を揺らしていた。


 早くも息が切れる。花はどこにあるのだろう。咲いていなかったら、どうしよう。オオヤマレンゲという名前からすると、レンゲの花と似ているのだろうか。

 レンゲというと、中華料理に出てくるあのスプーンとか、田んぼに咲いているあの雑草ぐらいしか知らないので、あまり期待できないかなと思った。


「だいじょうぶ? 少し休む?」

 サブリーダーの言葉に、わたしは少し笑って首を振った。

「なんのこれしき。わたしはまだ、三十代だよ。体力は自信があるのよね」

 なんて言っているが、ほんとのところはバテバテである。広島人は、根性も違うんだなと思って自分が情けなくなってきた。


 滑りやすい急勾配を七~八分登ると美しいブナの森が見えてきた。足元を覆うササの藪を漕ぐ。そのまま稜線をへろへろと歩き、頂上直下の大斜面が目の前に……。

 それからが、もうたいへんだった。フィールドアスレチックなのである。上へ行くためにロープがある。ロープを伝って渡るときに、「下を見ないようにね」サブリーダーのことばに思わず下を向いて、めまいを感じてしまうわたし。


 かと思うと道を横切る木の根がある。ごつごつした木の根を乗り越えて、さらに上を目指すと、今度は岩がごろりと邪魔をする。点数がとれないし、疲れるし、いいところはまったくない。

もうだめか、と思ったとき、やっと山頂にたどり着いた。



 

 その鬱蒼とした森の中に、オオヤマレンゲがあった。

「おお……」

 仲間の声が漏れる。それほどこの花の存在感は、大きかった。


 花というより、まるで貴婦人。赤ん坊の掌ぐらいはありそうな花弁のひとつひとつは円形にまとまっており、花の芯を守っている。においはなく、、緑ゆたかな木々の中で、その白さが光の斑(ふ)のように輝いていた。

「これが、オオヤマレンゲ……!」

 わたしは、その花を見上げた。花は大きな木に、リンとして誇らしげに咲いている。

「絶滅危惧種なんじゃ」

 リーダーが、そっと言った。

「じゃけ、とってええのは写真だけ、残してええのは思い出だけじゃ」

 いいことを言うなぁ、と思っていたら、山登り仲間での合い言葉だったらしい。


 写真を撮らずに帰ることにした。

 わたしには、思い出があればいい。思い出は褪せないし、盗られることもない。場所も取らない。

「あんたも変わってるねえ、写真ぐらい撮ればいいのに」

 サブリーダーに笑われてしまった。


 帰りに、広島の絶滅危惧種について、話が盛り上がった。

「ミヤジマトンボっていうトンボも、絶滅危惧種なんじゃよ」

リーダーが、ないしょだよ、という顔で教えてくれた。

「みんなで大切に、守ってやらにゃならんのじゃ」


 あんなに曇っていた空は、いまはすっかり晴れて、夕暮れが迫っていた。

 今度はどんな山に登り、どんな出会いが待っているのだろう。


 大きな期待とわずかな不安に振り返ると、登山仲間が、ほがらかな笑顔で包み込んでくれた。

 わたしを幸せにしてくれる、ほっこりした笑顔だった。

―――オオヤマレンゲは、いまも猿政山で咲いている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

オオヤマレンゲとわたし 田島絵里子 @hatoule

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ