またいつかの桜

古月

またいつかの桜

 目の前には一株の大樹。本来ならば真っ直ぐ天に向かっているはずのその枝々は、幹からして四方八方に広がっている。あれだ、地面から噴出した溶岩がそのまま一瞬で冷えて固まったらこんな感じかもしれない。

 大樹の周りにはぐるりと取り囲むような柵が組まれている。落雷でこのような六股の幹に裂けてしまったのに加え、そもそもが齢数百年の老木なのだ。うっかり近づいて根を踏みつけられないようにと設置されたらしい。

 その柵に沿ってぐるりと歩きながら、僕たちは斜め上を見上げる。青い空に手を伸ばすような焦げ茶色の枝。なんだか太陽の光を少しでも多く手に入れようとしているみたいだ。


 すると隣からは情趣の欠片も感じられない声音で一言。

「ねぇ、咲いてないんだけど」

「うん、咲いてないね」


 ――答えた瞬間、脇腹をどすっと殴られた。

 旅の同行者はどうやらこの状況にご不満らしい。ご不満らしいのだが、何が不満なのか僕には皆目見当がつかない。つんと唇を尖らせて、


「わざわざレンタカーまで借りて、はるばるこんな何もないところまで走らせて、道中は退屈で死にそうで、あげくにお目当ての花は咲いていない。この状況、わかってるの?」

「それは見ればわかるじゃないか」

「ではそのご感想をどうぞ」

「すごいよね。来て良かった」


 ……そんな珍妙な奇人を見るような目で覗き込まないでよ。


「なるほど、その頭の中は確かにお花満開だわ」

「それはさすがに酷くない?」


 ふん、と鼻を鳴らして踵を返し、さっさと先へ行ってしまう背中を追いかける。と、そこで視界の端にちらりとそれが映った。


「あ、咲いてる」

「あぁ?」


 振り向きざまに睨みつけないでもらえませんかねぇ? そう言ってやりたいのを飲み込んで、僕は見つけたそれを指差した。

 枝の先に小さく膨らんだ蕾。それが一つだけ、他に先んじて花開いていた。ともすれば見逃してしまうように枝の陰に隠れている。それでも隠れきれなかった白から薄紅色のグラデーションが辛うじて見えた。まるで恥じらう乙女のはにかみ顔を見た気分。


 パシャ、とまた情緒もへったくれもない音が隣から。見ればケータイを取り出して写メをお撮り遊ばされている。うん、君にはもうちょっと、こう、自然を慈しみつつ畏敬の念を抱くような、そんな心はないのでございましょうや?

 はぁ、と息を吐きつつ僕もカメラを構える。安物だけど、旅行先だけで使う特別なカメラだ。普段の日常にはないものを、普段の日常で使わないもので記録する。それが僕のこだわり。


「あらぁ~? あんたたちゃぁ、桜ば見に来よったとね?」


 不意に背後から声がかかる。二人して視線を向けてみれば、買い物カートを引っ張ったお婆さんが一人、少し離れたところからにこにこ笑顔でこちらを見ていた。子ウサギが跳ねる小豆色の半纏が可愛い。


「今年ん冬は長かったけんねぇ、咲くとはもうちょっとばかし先になっとよ。ごめんねぇ」


 この近くに住んでいる人なのだろう。訛りがあるけれど、なんとか理解できる。僕たちがぎこちないながらも会釈を返すと、お婆さんはくしゃっと笑んで、


「また今度来んしゃいね。待っとっけんね~」


 それだけ言うとカートを引いて行ってしまった。

 僕たちは顔を見合わせて、そしてどちらからともなく微笑を漏らす。


 ほんの少し、春が来たみたいだ。


***


阿蘇あそって、あそこだよね? いや駄洒落じゃなくて。ほら、大桜があるところ」


 リビングでテレビのニュースを見ていると、聞き覚えのある地名が表示された。熊本県で発生した大きな地震。震度別に表示された地名の中に「南阿蘇村」が含まれている。震度六強ってことは、かなり大きい揺れだ。実際、これだけの規模の災害でニュースに取り上げられたということは、それだけ受けた被害も特別大きかったということの証左だ。

 直後に映し出された映像でも、崩落したり土砂に呑まれた山道が映し出され、隆起した断層が壁のように立ちはだかっている。あれが映像じゃなく目の前に現れたなら、僕なら絶望感で気絶すると思う。


 僕は立ち上がり、本棚から一冊のアルバムを取り出した。もう何年前だったかな……適当にページを捲りながら記憶を探る。

 お、あったあった。撮影した枚数は少なかったけれど、しっかり残っていたぞ。


「そう言えば、とうとう行けず仕舞いだったっけ」

「うん。今度は咲いたころに行こうと言って、でも結局行かなかった」


 今度は二人そろってソファに腰かけニュースの続きを見る。いつもは並んでニュースを見ることなんてないのだけれど、今はどうせどの放送局でも同じニュースしかやっていない。


「今度また行ってみようか?」

「いや、今は無理でしょ」

「もちろん今すぐじゃなくて、行けるようになったころに。半年後か、一年後か」

「半年後はダメでしょ。絶対咲いてないじゃん」

「いいじゃん、咲いていなくても」


 僕の言ったことがそんなに意外だったのか、きょとーんとした顔を返す君。いいよ、面白いよその表情。あんまり見ているとまた脇腹に一発喰らいそうだけど。


 そんなやり取りをしている僕たちの後ろから、ぱたぱたと足音が走り寄る。その足音の主は三つ編みお下げの女の子。とてとてと歩み寄ると、ぐーっと背伸びして僕の横からアルバムを覗き込む。


「それ、なぁに?」

「昔の写真だよ。――ここ、行ってみたいかい?」


 大桜の前で撮った写真を見せて指さす。するとぐぐっと誰かに似た仕草で写真に顔を近付ける。本当、誰かとそっくりだ。

 きっかり十秒ほどにらめっこした後、ようやく顔を上げて唇を尖らせる。

「これどこぉー? ママしか写ってないよ?」


 そりゃあそうだ。あの頃僕は君のママにぞっこん惚れていたんだもの。

 何かにかこつけて写真を撮りたかったのさ。


 僕は女の子を――僕たちの娘を持ち上げて膝の上に乗せると、また三人で一緒にアルバムのページを捲った。


 今度は君とパパとママと、三人で一緒に写真撮ろうな。


(了)

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またいつかの桜 古月 @Kogetsu

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