5話

 勤務を終えた僕は、ろろぽーと豊洲に着いていた。

 美術館のある新木場しんきば駅から地下鉄に乗り、豊洲まで直行で来たのである。

 現在は午後7時半くらい。早くリエさんに会いたいと思っていた。

 しかし、彼女の仕事の邪魔になってはいけないと思ったし、上映時間もまだ先である。

 とりあえず、リエさんが今日は来ているかを、確認することにした。

 シネコンの入口脇に立ち、ロビーを見渡す。

 リエさんはカウンターの前にしゃがみこんでいた。そばには女の子と、その両親と思われる2人が立っている。

 リエさんは女の子に赤い風船を渡し、優しい笑顔で語りかけていた。

 子供に向ける柔らかい眼差し。

 その光景を見るのはこれで2度目である。

 ――彼女らしいな。

 僕はその場を後にした。



 ろろぽーと内のラーメン屋で夕食を取り、時間を潰すと、再びシネコンへと向かった。

 リエさんはカウンター内に立っている。

 予約した映画の発券を済ませ、僕はそちらの方へ向かう。

「いらっしゃいませ。――こんばんわ、宗太くん」

「こんばんわ」

 僕はいつものメニューを注文する。

「そういえば。再来週また日曜が休みなのよ。良かったら一緒に映画観ない?」

 それは、突然の申し出だった。

「え、いいんですか?」

「もちろん」手際良く、彼女は商品をトレイに載せていく。

「キミと映画トークしてると楽しいから。映画のあとの余韻に浸れると思って」

 彼女の言葉に胸が高鳴るのを感じた。

「僕もすごく楽しかったです。一緒に映画行きましょう」

「うん。レイトショーがいいよね。社員割引き使って、私の方でチケットを予約しておくよ。何か観たいものある?」

 僕はカウンター脇に掲示された、6月の上映スケジュールを見た。

 眼鏡に手を当てて、少しだけ考える。

「そうですね。このラインナップなら――『CABINキャビン』が一番観たいかな」

 そう言ってから彼女を見ると、ジト目でこちらを睨んでいた。

「それって確かホラーでしょ。3年くらい前の。どうしてそれを選んじゃうかな……」

「あ、いえ!この中でなら何を観たいかなって思っただけで。リエさんが他のにしたいなら構いません。――すみません」

「いいよ、謝らなくて。そっか、ホラーか……」彼女は腕組みをして考える。

 女性と観る映画にホラーは不味かったかな。

 自分のこういう気の利かないところが嫌になる。

「うん、まあいいか。それじゃ、チケットは取っておくね。待ち合わせ場所は、こないだのカフェの前でどうかな」

「はい、大丈夫です」

「時間は夜の8時半くらい。そのまま映画に行くってことで」

「分かりました。――楽しみにしてます」

「うん。それじゃあ、今夜の映画も楽しんで行ってね」

 ポップコーンと飲み物を受け取り、僕は劇場へと向かった。



 劇場に入り、僕はぼんやりと映画を観ていた。

 ――デートってことになるのかな。

 デート。

 その甘い響きに、僕はすっかり頭を奪われていた。



 6月も半ばになり、ずいぶんと日が長くなった。勤務を終える時間になっても、太陽はまださんさんと輝いていた。今週は気温が高い日が続いていた。街行く人たちの服装を見ても、夏が始まっていることが分かる。

 夕食を他で済ませた僕は、CAFEカフェHOMEホームの近辺をうろうろして時間を潰した。

 今は午後8時20分。僕はカフェの前でリエさんを待っていた。

 暫くして、通りの向こうから、彼女が小走りで駆け寄ってくる。

「ごめん、待たせちゃったみたいで」

 今日の彼女はアウトドアっぽいスタイルだ。青いTシャツに、グレーのジョガーパンツ。青っぽいスニーカーを履いており、頭にはキャップ。腰に赤色のチェックのシャツを巻いている。ロードムービーに出るヒロインのように格好いい。

「全然。僕が早く着いただけですから」

「お。今日は宗太くん、仕事着じゃないのね。珍しいじゃない」

「ええ。一応……」

 実は一度、家に戻ってシャワーを浴び、それからこちらへ来たのだ。

 白いTシャツに紺色のベストを羽織り、少し丈の短いベージュのチノパンに履き替えた。靴も仕事用の物から、明るい茶色の革靴に変えてきた。

 自分なりに格好つけたつもりである。

「うんうん、キミらしくてカッコ可愛いじゃない。そういうファション、私は好きだよ」

 ――好きだよ。

 言葉尻だけが心のなかで響き渡る。顔が熱くなってきた。

「それじゃあ、行こっか」



 シネコンの前に着くと、彼女からチケットを渡される。日中のうちに発券を済ませていたらしい。

「同僚の人と少し話して行くから。悪いんだけど、先に行っててくれるかな。飲み物、私の分も買っておいてくれる?お金は後で払うよ」

「分かりました。なにがいいですか」

「ウーロン茶のSサイズでお願い」

 彼女はロビーの脇に立つ、女性スタッフの方へ挨拶に行った。

 僕はカウンターへ行き、メニューを頼む。

 それを受け取ると、先に劇場へと入った。


 席に座って少し待っていると、「おまたせ」と言って、彼女が左隣に座る。

「いいえ。あ、これリエさんのです」

 ありがとう、彼女は座席の左側に飲み物を置く。

 ――なんだか緊張してきた。

 すぐ隣に彼女が居る。それだけで心臓が高鳴るのを抑えられない。

 さっきから、彼女の顔をまともに見ることができないでいた。

 ――このまま沈黙していてもだめだ。なにか話題は無いか。

「あの――」

「あのさ――」

 同時に口を開いた。彼女と視線が合う。

「あ、すみません!」

「いいって。お先にどうぞ」

 微笑みながら、彼女はウーロン茶に手を伸ばす。

 ――どんだけダサいんだよ、僕は!

 手汗が止まらない。

「あの。今日はリエさん、眼鏡じゃないんですね」

「うん、今日はコンタクトなの。どうして?」

「この間、劇場で会ったときは眼鏡だったので、どうしてかなって」

「ああ、そうだったね。ただの気分よ」

「そ、そうでしたか」

 ――どうでもいい話題だった。

「リエさんは、何を言いかけたんですか」

「ん?うん……いや、なんでもないよ。あはは」



 照明が暗くなり、映画予告などが終わると、いよいよ映画本編が始まった。

 今夜観る映画は『CABINキャビン』。

 山小屋にやってきた学生達が、怖い目に遭うという典型的なホラーだ。

 僕はレンタルで観ていたのだが、なかなかに面白い物語だった。ちなみに、僕はホラーが好きである。

 仲間だけの旅行ということで、最初はテンション上げ上げの学生たち。段々と、不穏な空気に包まれていく。

 ――あ。このあと怖いシーンが来るな。

 怖さを出すための、引きの展開だ。

 そのときリエさんが、僕の服の袖を引っ張る。

「どうかしましたか――」彼女の方を見る。

 すると、リエさんは右手で僕の袖を掴み、もう片方の手で自分の顔を覆っていた。指の隙間からスクリーンを覗いている。

『ドーン!』油断したところに、大きな音が鳴る。

「っ!!」

 彼女はたまらず、僕の腕にしがみついた。

「ちょっと、リエさん?」小声で話しかける。

 その後もびっくりシーンは続く。

 その度に彼女は僕の袖を引っ張っては、腕にしがみつく。

 彼女はホラーが大の苦手なようだった。

 ――だから、あのとき観るのを渋ってたのか……。

 不思議なもので、彼女のテンパっている様子を見ていると、逆にこちらが冷静になってくる。

 ――可愛い。

 リエさんの意外な一面を、また見つけてしまった。

 強そうに見えて、本当は怖がりだなんて。

 ――彼女がこれで安心できるなら。

 スクリーンに視線を戻し、僕は彼女に腕を貸した。

 結局、彼女はそれから映画が終わるまで、腕にしがみついたままだった。



 やがて本編が終わり、エンドロールが流れ始める。

 彼女は腕から離れると、僕に耳打ちする。

「先に出てるから」

 彼女はそそくさと席を立つと、劇場から出て行ってしまった。

 ――煙草を吸いに行ったのかな。

 そう思ったが、ふいに嫌な予感が頭をよぎる。

 ――いや、もしかして。やっぱりホラー映画は嫌々付き合ってくれただけで、本当は怒ってる?

 あれだけ怯えていたのだ。そうであってもおかしくない。

 僕が無神経にも、相手のことを考えずに観る映画を決めてしまったから。

 無理に付き合う形になり、リエさんは怒っているのかもしれない。

 僕は席を立ち、劇場をあとにした。



 シネコンを出たカフェの隣。そこにあるガラス張りの喫煙所に、彼女の姿はあった。

 僕が喫煙所の傍まで来ると、彼女もこちらに気付いた。火を消して、喫煙所を出てくる。

「もうエンドロール終わったの?早かったね」

 リエさんは、ケロリとした口調で言う。

 彼女に怒っているような様子はない。

「あ、はい。前にも観ていたので、別にいいかなって」

「そっか。私は初めて観た映画だったけど、結構面白かったね。ちょっと怖かったけど」

「え――。ああ、そうでしたか」

 僕は笑顔で返した。

 ――どうやら、僕の勘違いだったみたいだ。

「もっと怖いのかと思ってた。私の想像を超えるホラーではなかったね」

「そうですね――」

 彼女に引っ張られて、ヨレヨレになった袖をさすりながら、僕は笑った。



 映画を観終わった僕たちは、待ち合わせ場所にしていたCAFE:HOMEに戻っていた。

 前と同じく、喫煙席のカウンターに座り、コーヒーを頼んだ。

 運ばれてきたコーヒーに口をつけると、彼女はこちらを向く。

「今日はありがとうね」

「そんな。こちらこそ、ありがとうございます」思わず、僕は頭を下げる。

「ホラー映画なんて観るの、久しぶりだったわ」

 正面に向き直ると、呟くように彼女は言った。

 その視線は、ガラス越しに見える街よりも、ずっと遠くを見ているようだった。

 僕はおそるおそる口を開く。

「リエさん、本当は怖いのダメなんですよね?無理に付き合せてしまって、すみませんでした……」

 彼女は黙って、首をふるった。

「袖、伸びちゃったね。こっちこそ、ごめん」

「このくらい、大したことありませんよ」

 うん、と頷いて、彼女は自分のカップにミルクを注いだ。

「私、ホラーなんて独りじゃ見れないほど怖がりで。それなのに無理しちゃったわね。キミに余計な心配かけたみたい」スプーンでカップをかき混ぜる。

「以前はよく、母と映画を観に来ていたの。母と離れてからは、全然行かなくなって。ホラー映画なんて観るの、何年ぶりかしら」

「お母さん、ですか。仲がいいんですね。今はどちらに」

「――亡くなったわ。今年の1月で、ちょうど三回忌だったの」

「……すみません」

「いいの、いいの。そんな顔しないで。もう3年も前なんだから。悲しいとか、そういう時期はもう終わってるの。母の居ない生活にも、もう慣れたし」

 彼女は明るく振舞った。

 でもその笑顔は、僕にはとても寂しいものに見えた。

 お母さんが亡くなって、慣れてしまうなんて。

 リエさんはそう言っているけど。彼女はそんなひとではないと、僕は思った。

「キミにあの映画を観ようって言われたとき、母と一緒に行ったことを、思い出したの。それに、いつまでも怖がって観れないんじゃ、母が浮かばれないからね」

 冗談めいたように、彼女はそう言った。

 それから彼女はそっと、僕の手に触れた。

「だから、ありがとう」

「――リエさんの力になることが出来て、良かったです」

 彼女の冷たい手が、また温かくなるまで、少しの間、そうしていた。

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日曜日のレイトショウ 赤井ケイト @akaicate

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