4話
「きちんと教育してるのかしら。これじゃ、普段の業務のほうも疑問だわ」
泉さんは、鼻息も荒くまくし立てた。
「僕たちは給湯室を使ったりしません。なにかの間違いです」
ミュージアムショップのスタッフは、基本的に給湯室に入ることはない。
うちの会社はショップの企画から運営まで、美術館側から一任されている。しかし僕たちスタッフは本来、この美術館の職員ではなく、外部社員なのだ。職員の施設である給湯室を使うことは、社内のルールで禁止されている。
「給湯室で煙草の臭いがしたのよ。うちの職員に喫煙者は居ないわ。そちらのアルバイトが給湯室に入って、喫煙したとしか考えられない。館内が全面禁煙なことくらい、当たり前に知ってるでしょう」
「もちろんです。しかし――」
「どういう教育してるのよ。お宅の会社には、コンプライアンス
うちのスタッフで喫煙者は、水谷先輩も含めて数人いるが、館内で喫煙など絶対にしない。
――どうしてこんなことに。
「お宅のところのチーフさん、よく煙草吸ってますよね。彼なんじゃないかしら。社員揃ってルールを守る意識が低いのよ。ちゃらちゃらした態度で居られると、美術館の品位が問われます。こっちまで迷惑よ」
――先輩のことまで持ち出すのか。
さすがに腹が立ってくる。
でも、ここで自分まで熱くなっては、余計に収拾がつかなくなる。
――理不尽だけど、ここは一度謝って、あとで先輩に報告しよう。
そう思い僕は口を開きかけたが、先に口火を切ったのは、カナミちゃんであった。
「さっきから黙って聞いてれば、好き勝手言ってくれるね。おばさん」
「――なんですって」
不味い、すっかり忘れていた。
カナミちゃんも、熱くなりやすい
「煙草の臭いがしたから?うちの兄貴がそんなことする訳ないだろ。よくもそれだけの根拠で、妄想が広がるわね。その被害妄想に、こっちまで巻き込まないでよ。あんた、他人に
「な、なに言ってるのよ、あなた――」
「自分が喧嘩売ってるのに気付いてないのかよ。明らかにこっちが悪いなら、そりゃあ、ちゃんと筋を通して謝るよ。でもね、その喧嘩は根拠が薄いって言ってんのよ。おばさん」
おばさん、という単語に悪意を込めている。
泉さんの方といえば、青筋を立ててしまっている。
このままではいけない。
最悪、カナミちゃんがここに居られなくなるかもしれない。
――僕がなんとかしないと。
深い息を吐いて、覚悟を決めた。
「……うちの社の者がご無礼を致しました。本当に、申し訳ございません!」
僕は膝をつくと、床に頭をこすりつけ、土下座をした。
カナミちゃんたちを
「そ、そんなことで許されると思ってるの!こんなの無礼なんてもんじゃないわ!」
「返す言葉もございません。彼女には後できつく言っておきます。ご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ございません」
「ソータ、なに言って――」
騒ぎを聞いて駆けつけた先輩が、カナミちゃんの言葉を
「すみません。うちのアルバイトの者が何か、不手際を起こしましたか。チーフの水谷です」
「不手際なんてもんじゃないわよ!信じられないわ」
土下座の姿勢をとったままの僕を立たせると、先輩は説明するように言った。
僕は要約して、先輩に状況を説明する。
先輩は黙って頷くと、泉さんに向き直る。
「うちのアルバイトの者が、失礼なことを致しました。教育が行き届いておりませんでした。本当に申し訳ございません」
先輩は深々と頭を下げる。
「後日、社長の岡村と謝罪に参ります。誠に申し訳ございませんでした」
「当たり前じゃないの!部下の責任を取るのは、上司の仕事ですからね。このことは館長にも伝えます。お宅の会社には、一切の信頼をおけないと言っておくわ」
先輩が拳を握るのが見えた。
――僕の対応がもっと早ければ、ここまで言われなくて済んだかもしれない。
僕は先輩の悔しさが伝わり、自分が情けなくなった。
そのとき、別の学芸員さんが通路を通りがかった。
「泉さん、ここに居たんですかぁ。さっき、館長室からお客様が帰られたので、片付けておきましたよぉ。
「……え?」
先ほどまで
「部屋の中がすごいモクモクしてて。入っただけで煙草の臭いが染み付いちゃいましたよぉ。……どうしたんですか、泉さん?」
「――なんでもないのよ。さっさと戻りましょう」
2人は足早にバックヤードから去って行った。
――難を逃れることは出来たようだ。
思わず僕は、長い溜息をついた。
「どうやら向こうの勘違いだったみたいだな。あのお
「先輩、すみませんでした」
「なんで宗太が謝るんだよ。おまえは何も悪いことしてないだろ。――モモカちゃん、少しレジ任せられるかな。すぐに行くから」
「――あ、はい。わかりました」
隅っこで青くなっていたモモカちゃんは、弾けたバネのように走っていった。
先輩は腕を組み、カナミちゃんに向き合う。
「カナミ。おまえのケンカ腰な態度のせいで、ここまでの騒ぎになったんだぞ。その自覚はあるのか」
先輩の
「だって、悪いのはあっちじゃない。結果的に、あいつの勘違いだったし――」
「そういうこと言ってるんじゃない!」
ピシャリと言い放つ。
なんだか僕まで小さくなってしまう。
「俺が間に入って、頭下げるのはいい。でも、巻き込まれた宗太はどうだ。おまえのことを庇って、土下座までしたんだぞ。そうさせたのは、おまえの責任だ。ちゃんと宗太に謝れ」
カナミちゃんは涙を
それからうなだれて、僕に頭を下げる。
「ごめんなさい、ソータ。私のせいで、あんなことまでさせて」
「いいんだよ、僕は気にしてないから」
僕はカナミちゃんの肩をぽんと叩く。
「今度からは、もう少し冷静になろう。お互いに熱くなると、折り合いが付けられなくなるから」
「うん。そうする――そうします。本当にごめんなさい」
目を赤くしながら謝る彼女に、僕は頷いてみせた。
「じゃあ、この話はこれで終わりな。社長には俺から上手く言っておく。大事にはならないだろ」
先輩はすでに、いつもの笑顔に戻っていた。
「宗太、ちょっと休憩行って来い。疲れたろ」
「え、大丈夫ですよ。もうすぐ勤務も終わりますから――」
「いいから行って来い。あとで俺も行くから待ってろ」
強引に押され、仕方なく休憩へと入った。
職員通路を抜けて、僕は外に出る。
小高い丘の傍にある
――本当に、なにをやっても格好悪いよな。
先ほどのことを思い出し、下唇を噛んだ。
――もう少し早く僕が決断していれば。お兄さんのことを悪く言われて、カナミちゃんが黙っていられるはずがない。
既に陽は傾いており、近くを流れる川が、オレンジ色に染まっていた。
船着場の方へ目を向けると、イーゼルを立てて絵を描いている人が見えた。
若い人のようだ。
川を凝視してはパレットから絵の具を取り、筆を走らせている。
――あの人は、何に駆られて絵を描くのかな。
ぼんやりとしながら、彼の姿を眺めていた。
美大を卒業した昨年の3月を思い出す。
みんなが夢を持って、社会へと踏み出した。
梅の花が咲く中庭でひとり、そんな彼らを、ただひたすらに羨ましいと思った。
自分に絵の才能が無いと気付いた頃には、もう遅かった。
筆を持つ理由が無くなっていた。
そうして時間に押し出され、社会に飛び込んだ僕には、夢と呼べるものが無かった。
働いている間は、余計な考えに振り回されず、生きていくことができる。
それでも、美術館という職場を自分で選んだ。
過去の執着心に、今も囚われているような気がする。
――過去も振り切れないし、仕事も上手くできない。
大きな溜息をついた。
「たそがれているなぁ。
後ろから水谷先輩に声をかけられる。
振り向こうとして、冷たいものが頬に当たる。
「うわっ!」冷えた缶コーヒーである。
「さっきカナミを庇ってくれた、お礼だ」
缶コーヒーを受け取る。
先輩は隣に腰掛けると、煙草を取り出して火を点けた。
「さっきはすみませんでした。先輩にまで迷惑をかけてしまって」
「挑発に乗ったあいつが悪いんだよ。こっちこそ、土下座までさせて、本当にすまなかった」
先輩は、僕に向かって頭を下げた。
「カナミちゃんを責めないであげてください。泉さんに先輩の悪口まで言われてしまって。彼女は、それが許せなかったんだと思います」
「そうだったのか……。あとでアイスでも
「――僕にはこの仕事を、精一杯やることしか出来ないんです」
あふれ出すように、愚痴が零れてしまう。
「カナミちゃんが怒り出す前に動けないうえに、先輩にまで迷惑をかけてしまうし。さっきみたいなトラブルも、本当はもっと上手く乗り越えないといけないのに。それなのに」
声がどんどん小さくなっていくのを感じた。
「そんな風に考えてたのか。ちょっと大人になったな、宗太」
「そんな、全然。なにやっても格好悪くて、自分が嫌になりますよ」
今こうして愚痴こぼす自分の姿すら、情けなくて嫌になる。
「俺が大学辞めたときのこと、覚えてるか」
先輩は立ち上がる。
「6年くらい前か。俺が3年で、宗太がまだ1年だったな。
「あのときは、本当にびっくりしました。でも、格好いいと思いました」
「カッコ良いわけないだろ」
先輩は頭をかきながら笑った。
「先に就職してた嫁さんの稼ぎは良かったけど、いずれは産休に入らないといけなかったからな。『21歳、大学中退、最終学歴は高卒』そんな俺でも、嫁さんと産まれてくる子供のために、とにかく働かなきゃって思ったんだ」
煙草を吸い、煙を吐く。
「もう、自分の夢どころじゃなかったよ」
「――先輩は、もう夢は捨てたんですか」
「どうだろな……。やりたいことの優先順位が変わっただけ、かな」
「優先順位――ですか。僕には、もうやりたいことが無いんです」
僕は手元の缶コーヒーに視線を落とす。
「だから、今の仕事を精一杯――」
「『だからそれしかない』っていう考え方は、間違ってるぞ」
座っている僕の前にしゃがみこみ、先輩は僕と向き合う。
「夢や理想を持ってることだけが、人の価値じゃないからな」真剣な表情だった。
「どれだけ必死で頑張れたか、努力できたか。そのほうがよっぽど、大事なことだと思うぞ。宗太が頑張ってるのは、ちゃんと分かってる。あそこで働いてるみんなも分かってる。優しいところも、本当は根性あるところも」
先輩は、僕の頭に手をやると、くしゃくしゃっと撫でてくれた。
「ひとのために真剣になれるおまえなら、夢だってまた見つけられるよ」
それから先輩はまた立ち上がり、ポケットから取り出した携帯灰皿で火を消す。
「俺にだって、また見つけられたんだ。間違いない」
「先輩の今の夢って、なんですか」
「――それは秘密だ。おまえも家族を持てば、分かるかもしれないな」
はにかんだようにして、先輩は笑った。
シフト最終日の日曜日が巡ってくる。
今日は午後から、カナミちゃんたちがシフトに入っていた。
「お疲れ様です。宗太先輩」
「おつかれさま、モモカちゃん」
モモカちゃんの後に続き、カナミちゃんがやって来る。
「ソータ、おつかれ。……これ、あげる」
彼女が差し出したのは、包装紙にくるまれた菓子折りのようだ。
「――これ、北海道マルサイのバターサンドじゃない。これ大好きなんだよ。ありがとう!」
彼女から包みを受け取る。
「でも、これどうしたの?北海道に行って来た――わけないか」
「たまたま寄ったお店にあったから、買ってきたんだよ。そんだけ」
カナミちゃんはこちらを向こうとしない。何故なんだ。
それを見ていたモモカちゃんが、カナミちゃんの後ろに立って言う。
「カナちゃん、こないだのお詫びがしたいって。わざわざ銀座の
「ばかモモカ!余計なこと言うな」
カナミちゃんは、顔を真っ赤にして怒った。
2人のやり取りを見ていた僕は、ついつい笑ってしまう。
「あのときのソータ、格好良かったから。……ご
――ご褒美。僕は犬じゃないんだけどな。
苦笑いを浮かべるしかなかった。
「カナミちゃん、ありがと。後でいただくよ」
「――うん」
カナミちゃんは、すぐに行ってしまった。
――可愛いところあるんだよな。
不器用だけど、本当は心根が優しいことも知っている。
お菓子をくれたことよりも、カナミちゃんが言ってくれたこと、気持ちが嬉しかった。
仕事が終わったら、みんなにもお菓子を配ってあげよう。そう思った。
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