3話
月曜、火曜の休みが明けた翌週。
僕はいつものように出勤していた。
天気が良く、自転車で通う道のりは気持ちがすうっとした。
5月も終わりが近付いている。街路樹の桜はとっくに青い葉に変わっていた。
僕は次にやってくる夏を予感し、少しうきうきとしていた。
――リエさんには夏が似合いそうだ。
僕が勤めている『都立ゆめ
駐輪場に自転車を停めると、職員専用の入口へ向かった。
グリーンの壁掛け時計が9時を指す。
僕は職場であるミュージアムショップに居た。
今は開館前の朝礼を聞いているところだ。
今朝のスタッフは4人。
僕と、チーフの
ショップのスタッフは全員が制服を支給されており、男性はワイシャツ、女性は白いブラウス。これに黒のスラックスである。
「先週までの企画展示が無事に終わりました。今週からは常設展示に戻り、来客数も減るかと思いますが、気を抜かずに業務のほうを行ってください――と、社長が言ってました。言われるまでもないっつー話ですよね」
僕も含め、話を聴いていたスタッフ全員は苦笑した。
前に立って話す、体操選手のようなこの人が、チーフである水谷先輩だ。
僕と水谷先輩は、同じ美大の先輩後輩の間柄である。ここのアルバイトを紹介してくれたのも、水谷先輩だ。
「展示の内容に関係なく、お客さまからは、常に同じ対応を求められます。そうは言っても、ぶっちゃけ俺たちも普通の人間です。ケジメさえつけていれば、俺は文句を言ったりしません。それを忘れず、今日もよろしくお願いします」
見た目も口調も少し荒っぽい人だが、なによりも優しい。
僕にとって水谷先輩は、尊敬する兄のような存在である。
「宗太、ちょっといいか」
「はい、先輩」
「夕方から、カナミとモモカちゃんがシフトで入る。あの2人もやってきて半年くらい経つし、そろそろ
カナミちゃんとモモカちゃんは、僕らの大学の後輩で、ともに2年生である。
2人は見た目も性格も対照的であった。
カナミちゃんは、ひとことで言えばボーイッシュな女の子。
モモカちゃんはふんわりとした印象。
栗色のセミロングに、ゆるいパーマをかけていて、性格はやや控えめである。昔から男子に人気がある。
「わかりました」と先輩に伝えて、僕は業務に戻った。
9時半になると美術館の開館時間となり、お客がちらほらとショップを覗きに来る。
朝礼で言っていたように、企画展示が終わってしまえば、来客数も減る。
久しぶりに、ゆったりとした時間を過ごした。
夕方になると、大林さん、高橋さんのシフトが終わる。
「お疲れ様でした」と挨拶を交わし、2人はカウンター奥のバックヤードに入る。
バックヤードはロッカールーム兼、商品在庫の置き場となっている。職員通路にも繋がっており、基本的に出入りはここを使う。部屋の一角は鍵付きの部屋であり、女性スタッフ専用の更衣室になっていた。
『大林さん、高橋さん、お疲れさまでーす。今から帰りですか』
バックヤードからカナミちゃんの声がする。
シフトの始まる2人がやって来たようだ。
話し声が聞こえてくる。
『ええ、そうなの。今日は社長も居ないし、楽だったわー』
『カナミちゃん、ちょっと聞いて。私、今夜は新しいインド料理に挑戦しようと思ってるの。タンドリーチキン。それと、先月から漬けておいた、アチャールも出してみようかなって』
『大林さん、相変わらず料理好きですね。こないだパックでいただいた、キーマカレーも美味しかったし。私が旦那さんだったら、真っすぐ家に帰っちゃうな。モモカもそう思うよね』
『うん、本当に美味しかったです。カナちゃんも大林さんから、お料理習ったらいいんじゃない?そうすれば、憧れの先輩の心もわし
『あーあー聞こえなーい。何の話か分かりませーん』
女性陣の笑い声が聞こえてくる。
――カナミちゃんにも好きな人が居るのか。
『モモカ、余計なこと言わなくていいの。ところで、アチャールってなんですか』
『インド風のピクルスよ。今度、持ってきてあげようか。赤唐辛子のアチャール』
『私、辛すぎるのダメなんですよね~。頭皮まで熱くなってきて、アチャール!ってなっちゃうかも』
うっかり聞こえてしまった僕は、吹き出しそうになってむせた。
お客さんが怪訝そうにこちらを見ている。
僕は努めて営業スマイルを浮かべた。
『あれ、モモカちゃん。――もしかしてまた、おっぱい大きくなった?』
『ええ!?そんなこと――』
『そうなんですよ。モモカってば、ほら。彼氏いるじゃないですか』
『ああ……。なるほどねぇ。彼氏さんが居るからねぇ』
『ち、違いますよ。少し……ちょっとだけ、太っただけなんです!』
『それなら、おっぱいも大きくなったんじゃないの』
『カナちゃんのばか!』
そしてまた、女性陣の笑い声が響く。
――すごい会話してるな。このあと、モモカちゃんにどんな顔して会えばいいんだ。
それにしても、ちょっと声が大きい。ショップにまで聞こえている。
――不味いな。これは注意しなければ。
僕はロッカールームの方へ向かった。
「みんな、すこし声が大きいですよ。ショップまで響いて――」
「――ふぇ?」
間抜けな声を出したカナミちゃんは、今まさにTシャツを脱ぐところであり、下着が丸見えであった。
――なぜ更衣室で着替えない!
僕は叫びそうになったが、虚しいことに、それは叶わなかった。
無言で笑うカナミちゃんのボディーブローがきれいに決まり、その場で崩れ落ちたからだ。
「お兄ちゃん。――と、その他1名。おつかれーす」
「お疲れ様です。水谷先輩、宗太先輩」
彼女たちがカウンターへやって来た。
「2人とも、おつかれさま……」
僕はまだ、みぞおちの辺りをさすっていた。
すれ違いざま、カナミちゃんに「変態ソータ」となじられる。
――あれは不可抗力じゃないですか。
「カナミ、職場ではチーフって呼べ」
水谷先輩の注意も聞かず、カナミちゃんはフェイスアップ――
僕は大学時代、よく先輩に誘われ、水谷宅にお邪魔していた。
カナミちゃんのことは、彼女が高校生の頃から知っている。
僕にとって、彼女は妹のような存在だ。
ちなみに、僕には4つ年の離れた姉がいる。
実を言うと、先ほどのようなハプニングも、家では日常茶飯事だった。
そういった理由もあり、カナミちゃんの下着姿に対して、僕はそれほど動揺していなかった。
――カナミちゃんのは、控えめなおっぱいだったな。
失礼な言い草だが、心で思うのは自由である。
「ちょっと、変態ソータ」
フェイスアップの終わったカナミちゃんが詰め寄ってくる。
「変態、ではないけど。なんでしょうか」
「さっき、どこまで見たのよ」
殺気のこもった鋭い目つきである。これが先輩に向けるべき眼差しであろうか。
まさか正直に、『いや、丸見えでしたけど』とは言えない。
「全然、なにも、見えませんでした」
僕は目の前の猛獣から視線を逸らして言った。
すぐさま、カナミちゃんに
「さっき見たことは完全に、キレイさっぱりと、記憶から消すのよ。わかった?」
「はい……。でも言わせてもらうと、あそこで着替えるほうも悪いと思う――」
「なんだって?」みぞおちに拳をぐりぐりされる。痛い痛い。
「なんでもありません。すみませんでした」
カナミちゃんはようやく解放してくれた。
――この子、本当に力が強いよな……誰に似たんだ。やっぱり先輩か。
「それはそうと。今日うちら、検品のやり方を教わるって聞いてたんだけど」
「ああ、そうそう。2人ともバックヤードに来てくれるかな。先輩、少し外しますね」
先輩は手を挙げて応えた。
僕たちはバックヤードに移動した。
「――伝票に書かれた数と、実際の商品の個数が合っているか数えるんだ。そのとき、一緒に商品の状態も確認してね。キズや破損があったら売り物にならないから」
商品の入ったダンボール箱を囲み、僕は2人に説明する。
「宗太先輩。個別に包装箱に入ってる物も、開けて確認するんですか?」
「そういうのは、包装箱の状態だけを確認して。箱に潰れや、ぶつけた
「わかりました」
「カナミちゃんは、何か分からないことあるかい?」
ダンボールの脇にしゃがんでいる彼女へ声をかける。
「キズとかの程度って、どのレベルからNGになるの」
「ああ、なるほど。判断に迷うときは、チーフか僕に聞いてくれればいいよ。僕らの居ないシフトは、先輩スタッフに聞けばいい」
「わかったー」
あらかたの説明が終わり、ショップに戻ろうとしたときである。
バックヤードと職員通路を繋ぐ扉が開いた。
現れたのは、
「泉さん、お疲れ様です。どうかされたんですか」
「今日は社長さん、いらっしゃるのかしら」
「いえ、
「あっそう」とだけ言い、泉さんはその場で腕を組んで立つ。
なんだか
「それじゃ、あなたから他のアルバイトさんに伝えておいてくれるかしら?」
「なんでしょうか」
「給湯室なんだけど。あなた達のアルバイトさんも使ってるでしょう」
「え――」
「これは明らかなルール違反です。悪いんですけど、このことは館長を通じてクレームを出させていただきます」
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