2話
「すぐそこにあるカフェなの」
彼女はそう言って、僕の手を引く。
僕は未だ胸の鼓動が治まらない。
――まだ出会って間もないのに、何故こんなことに。
ふいに、彼女はこちらを
「若い子を逆ナンしちゃった」
さらりとこんな事を言うのだ。
僕はますます、彼女についていくしかない。
目的地と思われるお店は、ろろぽーと豊洲から歩いてすぐであった
お店の前に着くと、彼女はやっと手を離してくれる。
「ここだよ。入ったことあるかな」
ガラス張りの店内からは、暖炉のように暖かい光が溢れている。
低い階段に繋がる入口の上には、三角屋根の家のマークと、『
「前を通ったことは何度もあるんですけど、中には入ったことがないですね」
豊洲
「そうなんだ。最近の子は、こういう凝ったインテリアのお店、好きなのかと思ってたわ」
階段を昇りながら言う。
「見るのは好きですけどね。入るのは別といいますか……」
僕は苦笑いで返す。
『おしゃれなお店は苦手です』とは口が裂けても言えない。
ふーん、とだけ返して、彼女は自動ドアをくぐった。
「ああ、そうだ」
彼女がいきなり立ち止まるので、ぶつかりそうになる。
「煙草吸うのよ、私。喫煙席でも大丈夫?」
「――ああ、平気ですよ」
彼女の言葉は少し意外であった。
――こんなにキレイな人でも煙草を吸うんだな。
「僕は吸いませんが、職場でスパスパ吸ってる人が居るので、慣れてます」
「そっか、ありがと。最近は男の子でもあんまり吸わないよね」
フロアからやって来た店員さんに、彼女は2人連れであることを告げる。それから慣れた様子で灰皿を取り、窓際のカウンター席へと進んで行った。
「ろろぽーとの喫煙所にも寄ったし、そんなにスパスパ吸ったりしないから」
彼女は脚の高い椅子に腰掛けた。
「エンドロールの終わりまで我慢できる時と、できない時があるのよね」
先ほど
――トイレが近くなる感じかな。
バッグを下ろして左隣に腰掛ける。
彼女は白いカバンから煙草を取り出すと、銀色のライターで火を点けた。
「よっぽど我慢がきかないんですね――」
口に出してからハッとする。
――初対面の人に対して失礼だったろうか。
「そうなのよ。飲み物があれば我慢できるんだけど。
――
お冷を運んできた店員さんに、ブレンドコーヒーを2つ注文する。
彼女は吸い込んだ煙を天井へふうっと吐くと、思い出したように笑った。
「ダニエル=グレイグが、マルボロ吸ってるシーンを思い出しちゃった」
――今夜観た映画にそんなシーンは無かったけど……。
「ああ。『ドラゴン・タトゥーの女』ですね」
彼女の顔が明るくなる。
「そうそう。あの映画、レンタルで観たんだけどさ。登場人物が煙草を吸ってると、こっちまで釣られて吸っちゃうのよね」
そうして、また一吹き。
店員さんがコーヒーを運んでくる。
ドリップされた本物のコーヒー。いい香りである。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
僕は店員さんに、軽く会釈を返した。
「……思ってたんだけど。キミってもしかして、接客のお仕事してる?」
「はい、そうです。美術館で働いてます」
「へえ。美術館とは意外ね。じゃあ、学芸員さんなのかな?」
「いえ。ギャラリーショップの店員です。アルバイトですよ」
アルバイト。少しバツが悪くなり、コーヒーに口をつける。
なるほど、と言って彼女もコーヒーを飲む。
「シネコンで会うときもそうだけど、キミって店員に対しても礼儀正しいよね。頭を下げることに慣れてると思って」
「はは……。職場でいつも注意ばかりされてますから」
「いやいや、そうじゃなくて」
彼女は身体をこちらに向ける。
「気持ちを伝えるために、自然と頭を下げることが出来るって、すごいことだよ。私は素敵だと思うけどな」
真剣な眼差しを向けられる。
思いもよらない彼女の言葉に、少し面食らってしまった。
僕は手元のコーヒーへと視線を逃がす。
「そう、ですかね。ペコペコし過ぎだって、よく後輩から言われちゃって」
「気にしなくていいのよ。ペコペコ頭下げてる陰で、あっかんべーするくらいが丁度いいの」
「あっかんべー、ですか」
その響きが面白くて、つい笑ってしまう。
話せば話すほど、彼女が砕けた性格なのが分かる。それは、彼女の芯の太さから来ているように感じた。
「そういえば、まだお名前を伺ってませんでした。僕、木村っていいます。
「私は……リエって呼んで。よろしくね、宗太くん」
――宗太くん。
彼女にそう呼ばれただけで、舞い上がってしまいそうになる。
「よろしくお願いします。――リエさん」
彼女はにっこりと頷いた。
リエさんは自身の仕事のことも教えてくれた。
コンセッション――飲食物の販売員をしていること。それと併せて、フロアに立ってもぎりをしていること。業務試写といって、公開前の映画を観る機会があること。今日のように自分で映画を観に来る時には、社員割引きを使うことなど。かなりの数の映画を観ているらしい。
「宗太くん、映画が好きよね。ほぼ毎週見かけるもの。日曜にだけ来てるの?」
「今の仕事に就いてからは、ずっとそうです。月曜と火曜が休みなんですよ。職場が豊洲に近いから、最終日の日曜の夜にばっかり来てます」
「そういうことか。謎がまたひとつ解けたわ」
彼女は灰皿に煙草を押し付けて、コーヒーカップを持つ。
「今日はリバイバル上映を観に来たのよね。もしかして、宗太くんは007が好きだったりするのかな?」
「はい。――と言っても、最初に観たのが『007スカイフォール』なんです。ダニエル版の007しか知らないんですよね」
「あれはすごく良かったわよね。私もあの作品、好きだよ」
「本当ですか」
――同じ映画が好きだなんて。益々、嬉しくなってくる。
「それじゃあ、そんな映画好きの宗太くんにクイズです」
彼女は指を立ててみせる。
「『カジノ・ロワイヤル』のボンドガール、エヴァ=グリーンは知ってるよね」
ボンドガールとは、劇中に登場するヒロインを演じた女優のことだ。シリーズを通して毎回変わり、必ず主人公ボンドと恋に落ちる。
「ダニエル=グレイグと、エヴァ=グリーンは、その後も共演を果たしています。その映画のタイトルとはなんでしょうか」
「え?他にも共演してたんですか」
「そうだよー」
彼女は「してやったり」といった様子だ。
自分が観た作品を思い起こしてみるが、さっぱり思い当たらない。2人がまた共演していたなら、絶対に忘れるはずがない。
「うーん……降参です。わかりません」
「ざんねん。答えは『ライラの冒険』でした」
「…………ああ!言われてみれば確かに」
高校時代にレンタルで観た記憶がある。
その頃は俳優にまで興味が湧かず、覚えていなかった。
「2人ともメインの役じゃなかったからね。かなりマニアックなクイズだったかしら」
僕は苦笑いで答える。彼女の映画知識に舌を巻いてしまった。
「私もたまたま観ていただけなの。一緒に映画を観に行くうちに、いつの間にか覚えたのね」
彼女の視線は、遠い場所に向けられていた。
――その相手とは、昔の彼氏だったりするのだろうか。
「今度は宗太くんが問題出してみてよ」
2本目の煙草に火を点けながら言う。
「そうですね。じゃあ……」
僕たちは、お互いに問題を出し合った。
俳優のこと、監督のこと、音楽や演出のこと。延々と話し続けた。
コーヒーのおかわりをして、映画トークは続いた。
正直に言うと、僕は女性と話すのが本当に苦手なのだ。そんな自分がこれほど会話が続くなんて。
単純なことだけど、僕にとってはそれだけで喜びだった。
リエさん――不思議な女性だ。
あっという間に時間が過ぎ去っていく。気が付くと終電の時間が近い。
彼女は細い腕時計に視線をやると、そろそろ帰ろうと切り出した。
言うが早いか、彼女はさっと伝票を取って、レジへと向かう。
僕は慌てて財布を出そうとしたが、彼女に止められた。
「強引に誘ったのは私だから」
久しぶりに楽しい時間を過ごせたし、そう続けて言った。
あっさりと勘定を済ませ、お店を出る。
外に出ると、先ほどよりも寒く感じられた。
「すっかり遅くなっちゃったね。付き合ってくれて、どうもありがとう」
「こちらこそ。ご馳走になってしまって――。今度は僕が払いますから」
口に出すと、僕は『今度』がまたやって来るだろうかと思った。
彼女は柔らかい笑みを浮かべたままだ。
――また彼女と2人で会いたい。
僕はポケットに入れた携帯を握る。
それから、勇気を振り絞って彼女に言った。
「あの!よかったら、なんですけど……。連絡先を――
彼女は考えるようにして口元に手を当てると「ごめんね」と答えた。
「私、そういうのやらないからさ」
「そうですか……。すみません。困らせてしまって」
いいのよ――。彼女は首を振る。
「私、駅とは反対なの。ここで別れましょう」
彼女は僕に手を挙げてみせて、背を向ける。
――名残り惜しいけど、仕方ないか。
今夜、たまたま映画で一緒になったというだけで、2人の間に特別なものは何も無いのだ。
ドラマのように物語が始まるなんて、あるはずがない。
僕は小さな溜息を漏らした。
すると、彼女は振り向いて、大きな笑顔を見せた。
「また、レイトショーで会いましょう」
そう言って、彼女は豊洲の夜へ去った。
「……また、レイトショーで会いましょう」
ひとりで呟いて、胸の奥が熱くなる。
こみ上げてくる笑みを
その足取りは、ふわふわと軽かった。
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