1話
「今週からの新商品!オクラ納豆カレー味はいかがですか!?」
カウンターに立つ若い女性店員さんは、マニュアル通りにハツラツと勧める。
だが、その新商品は、およそ悪意に満ち満ちていた。
――語感からしてネバネバ感が凄そうなんですけど。
そんな僕の気持ちも
こんな状況になった原因は僕にある。
僕が好んで頼むようになった、SSサイズのキャラメルアイス。
あれが数週間まえにメニューから消えた。
そして、選択肢を奪われた僕は、2回目のポップコーン迷子となっていた。
悩み出した僕を見兼ねて、この子が勧めたのが、オクラ納豆カレー味。
「……他のおすすめはありませんか」
「それでしたら――ゆず
店員さんはそう言って、
「――じゃあ、それにします」
なんとか笑顔で応えた内心は、敗北感を味わっていた。
――この子の必死な笑顔に押された気がする。僕が悪いんだけどさ。
ゆず胡椒味。
あのひと――彼女なら、もう少しまともな提案をしてくれたかもしれない。
オレンジジュースと、
こうなったら、この子のチョイスを信じるしかない。
ロビーの椅子に座り、周囲を眺める。
日曜の夜の映画館だ。お客の入りは少ない。
独りで上映時間を待つ男性。
上品そうな老夫婦。
大学生と思われるカップル。
昨年まで同じ大学生の身分だった僕には、あのカップルが未だに羨ましい。
今ではこうして、仕事帰りに来る立場だ。
――今朝も社長から説教をされてしまった。
先週から同じことを言われ続け、モチベーションがダダ下がりだった。
思い出すと、
ワイシャツの第一ボタンを外して緩めた。
――ちゃんと切り替えないと。せっかくの休みが台無しだ。
ポップコーンを試しに一口摘まんでみる。
……なるほど。
今度からは迷うことなく言おう。
「ポップコーン、しお味で」と。
入場開始のアナウンスがされた。
僕は劇場入口から少し離れた場所で、もぎりに立つ店員さんを眺めた。
――ここにも居ないか。
やっぱり、彼女は休みのようだ。
今日は大柄なおばさんが、お客のチケットを切っている。
小さな溜息をついて、肩を落とした。
――あのひとに会えることも週末の楽しみだったのに。
ゆっくりと立ち上がると、僕は入場受付へと向かった。
「劇場5番になります。通路奥の右側にございます。行ってらっしゃいませ」
僕は店員さんに軽く会釈を返した。
厚い
ここに来ると、日常から切り離された気分になれる。
これから贅沢な時間を過ごすという予感が、高揚感を増してくれた。
予約した席を探して座る。
スクリーンに向かって中心の、やや上段の席。予約する段階でそこが埋まっている場合は、少し右側へズラす。
僕のこだわりだ。
今週は幸いにして、特等席が取れた。
肩にかけていたデイバッグを足元に置き、携帯の電源をオフにする。
こういうとき、荷物となっていた上着の存在がなくなり始め、5月の終わりを感じていた。
――上着を手にしているお客さんは、近場に住んでるのかな。
このシネコンは、『ろろぽーと
『ぽーと』という名前の通り、建物は港のように海に隣接している。
外は海風が強いので、歩きでゆっくり来るとなれば、それなりに寒い。
この回が今夜のラストだ。夜風への防寒対策は必要である。
席に座る少ないお客たちを眺めながら、僕は勝手に推理を巡らせていた。
暫くして上映開始のブザーが鳴り、照明が暗くなっていく。
今夜観る映画はリバイバル上映。
『007カジノ・ロワイヤル』。劇場で観るのは初めてである。
主人公ジェイムズ=ボンドが持つ、ミステリアスな大人の色気。それは僕にとって、憧れるものがあった。英国紳士であり、
――彼のような大人の色気が、いつか僕も
つまらないことを考えながら、流れ始めたCMをぼんやりと聞き流していた。
スクリーンの光が灯る劇場のなかで、足早に歩く人影が見えた。おそらく上映時間ぎりぎりに入場したお客だろう。
僕は視界の隅で、その人影を捕らえていた。
女性のようだ。
その人は僕の右側、2つ隣の席に座った。甘い香水の香りが漂う。
ちらりと、僕はそちらに目を向けた。
肩まで届くセミロングを揺らし、上着を膝に乗せている。ほっそりとした脚を組むと、背もたれに深く腰掛ける。
スクリーンを向く横顔は、大きな眼鏡をかけている。
見覚えのある顔のラインだ。
――どこかで会った気がする。
僕はつい、座席から身を乗り出していた。
そのとき、彼女がこちらに気付く。
こちらを見る彼女の瞳と、視線が合った。
僕は
背中にじんわりと嫌な汗が噴き出す。
――やってしまった。
耳が熱くなってくる。
――女性のことをジロジロ見るなんて、どう考えても失礼だろ!
絶対に変な奴だと思われた。
キモいって思われた。
いや……変質者だと思われたかもしれない。
僕は誤魔化すようにポップコーンを食べた。次から次へと口に運ぶ。
ゆずの香りが強過ぎて、もはやポップコーンではない。
――ゆず、ゆず、ゆず。胡椒の味はどこへいった!
鼻からゆず臭が抜けてくる。
まさに踏んだり蹴ったりである。
そうこうしているうちに、映画本編が始まった。冒頭から、激しく立ち回るアクションシーンだ。
僕はそうっと、視線だけを彼女に向けた。
彼女は腕を組み、スクリーンに集中しているようだった。
どうやら、彼女は気にしていない様子だ。
――良かった……。それにしても。
やはり、どこかで会った感じがする。でも、この暗がりのなかではよく分からない。
それ以上は考えていても仕方がないので、僕は映画に集中することにした。
彼女の方を極力見ないよう、僕は首の位置を固定しなければいけなかった。
そして、そのままの姿勢で映画を観続ける。
映画は面白い。
なのに、これでは首が辛すぎる。
…………集中できない!
そうして時間は過ぎ、映画本編が終わる。
名優ダニエル=グレイグがボンド役を演じた一作目の007。若さと知性が相まったボンドに、僕は心を奪われていた。
――やっぱり劇場に観に来て良かった。
感動に浸っている僕の脇で、彼女が立ち上がるのが分かった。
そのまま劇場を出て行くようだ。
――エンドロールは観ない人なのかな。
オーケストラが流れるなか、僕は彼女の背中を見送った。
首を大きくグルリと回す。
――肩がこってしまった。
そのままエンドロールを最後まで観てから、僕は席を立った。
彼女の香水の香りがまだ残っている。
――あの人には悪いことをした……。忘れてくれていたらいいのだけど。
劇場を出てロビーに戻る。
映画は楽しめたのだが、色々と重なって複雑な心境だった。
悪いことほど重なりやすい。
泣きっ面にハチ。
デイバッグを肩にかけ、シネコンを出る。
外は少し肌寒いくらいだった。
このくらいなら、建物を出たばかりなので、なんてことはない。
気持ちがいい。この火照りは高揚感か。疲れからくるものか。
僕は地下鉄の入口へ足を向けた。
「――ねえ、キミ」
ふいに、後ろから声をかけられる。
聞き覚えのある女性の声。
立ち止まって振り返る。
そこには、先ほど劇場で隣り合わせた、
少しウェーブのかかったセミロングに、大きな黒縁の眼鏡。青地のチェック柄シャツに、薄い茶色のカーディガン。そして、タイトな黒いジーンズには、白いスニーカー。
背は僕よりも頭ひとつ低く、小柄で華奢だ。
「やっぱりいつも来てる人だ。私の勘違いだったら、どうしようかと思ったよ」
「……もしかして、シネコンの店員さん?」
僕の顔を見ながら、彼女は白い歯を覗かせて笑った。
「こんばんわ」
眩しそうに目を細める笑顔。
やっと気が付いた。
今日、僕が一番会いたかった人。
キャラメルアイスの彼女である。
彼女はいつも髪を結っているので、下ろしているだけで気付かなかった。よくよく見ると、眼鏡に隠れて、泣きボクロがあるのも分かる。
「全然分かりませんでした。外でお会いしたこと、一度もなかったので」
私服姿の彼女は、いつものフォーマルな制服の時とは、まるで印象が違った。
アメリカン・カジュアルを着こなすラフな格好だ。
「今日はシフトが休みだったんだ。それで映画を観に来ていたの」
彼女は僕の方に歩み寄ってくる。
「そうだったんですか。なかの方で見かけないので、風邪でもひいたのかなぁって」
「まさか。私の取り柄は元気だけだよ。……なんてね」
そう言っている間にも、彼女はどんどん傍に寄ってくる。
なんだか、すごく近いような。彼女の香水が鼻をくすぐる。
「ところでさ――」
僕の目の前まで来て立ち止まる。
彼女は下から見上げると、僕を指差した。
「さっき、私のほうをガン見してなかった?」
――――完全にバレていた。
再び、嫌な汗が噴き出してくる。
みるみる動悸が激しくなる。
思わず、彼女から視線を逸らしてしまった。
なんて言えばいい。
なんて答えればいい。
どう説明すれば正解だ。
脳内はぐるぐると回り、うまい言い訳が見つからない。
「おお。ガン見してたのは、間違いなかったみたいだね」
「いえ、あれはその!見覚えのある人だなって思って。いつも会うたびに笑顔がステキだなぁって思っていたら、今日は居ないみたいで、それで探していたこともあって、気が付いたら、つい……」
なにを言っているのか、自分でも分からなくなってきた。
――ああ、本当に格好悪い。
こんなとき、先ほど観た劇中のボンドのように、
しかし、どう逆立ちしても、格好悪い僕はボンドになんかなれないのだ。
――でも、これだけはちゃんと言わないと。
僕は勢いよく頭を下げた。
「すみませんでした!ごめんなさい!」
いきなり頭を下げられてしまった彼女は、少しきょとんとしていた。
それから僕に向かって手をひらひらさせる。
「あはは。そっかそっか」
意外なことに、彼女は笑っている。
変な誤解は持たれなくて済んだようだ。
僕は全身の力が抜けてしまった。
「……でもね。ああやって女性のこと、ジロジロと見るのはマナー違反。有罪です」
彼女は腰に手を当てて、わざと怒ったようなポーズをとる。
「だから、罰としてこれからお姉さんと、コーヒーに付き合いなさい」
そう言うと、彼女は僕の右手を取った。
「――え?」
突然のことに僕は目をしばたく。
彼女はイタズラ好きな女の子のように、楽しそうに笑っていた。
そのとき僕はきっと、すごく間抜けな顔をしていたと思う。
彼女の温かい手に引かれ、僕は隣を歩いた。
2人の影が、夜の歩道へ並んで伸びていた。
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