悲しい坂

駅員3

玉川上水工事の影の立役者 伊奈半十郎

 各駅停車しか止まらない多磨霊園駅で京王線を降りて一本裏通りに入ると、車が1台通れるくらいの狭い道に生垣などがあって、昭和の香りが漂う閑静な住宅街が広がる。 

 そんな小路を南に行くと、路は緩やかなS字カーブを描きながら下り坂となる。ここは武蔵野台地の南端にあたり、『立川崖線』と呼ばれている古多摩川が作った浸食崖だ。武蔵野台地は東京中西部に広がるおおよそ700キロ平方メートルに及ぶ広大な台地で、その東端は文京区、台東区、港区にまで達する。上野の山の西郷さんは、まさに武蔵野台地の東端に立っている。


 この立川崖線を下る坂の名前は『悲しい坂』というのだが、なんとも閑静な住宅街には似合わない名前だ。

 この坂の名前の由来は、玉川上水の工事とかかわりがあるといわれている。玉川上水は、ここから直線距離にして5.5kmも北の小金井界隈を流れているのに、なぜこの地に玉川上水の工事に由来する名前が付いたのか。

 玉川上水は、工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治が命ぜられた。工事を請負ったのが農民出の玉川兄弟で、その功績により『玉川』の姓を名乗ることを許され、200石の扶持米と永代水役を命じられたことは有名だ。

 取水口のある羽村の取水堰と玉川上水終点の四谷大木戸の標高差は92m、全長43kmある。それをわずか8か月で掘りぬいた逸話が残っている。


 しかし玉川上水の工事は、2度の失敗を経て漸く3度目に成功したことは、あまり知られていない。当初の計画では、日野の渡し(立川市と日野市を結ぶ日野橋下流の青柳村(現国立市青柳))付近の多摩川河畔から取水すべく工事が始まった。府中市の八幡下から、東京競馬場北側の滝神社のところを東方へ向かい多磨霊園駅の南方を経て神代あたりまで掘削して試験的に通水したところ、この悲しい坂のあたりで流れが地中に浸透してしまい、下流まで流れなかったといわれている。ここ等辺の地盤は富士山の噴火した灰の積もった関東ローム層で、土中に水が浸み込んでしまい、下流まで流れなかったのである。

 そこで取水口を福生に替えて工事を始めるが、今度は当時の技術では掘りぬくことの出来ない大きな岩盤に突き当たってしまう。その工事の跡が空堀となって福生市熊川の『みずくらいど公園』に残されている。『みずくらいど』とは、『水喰らい土』のことで、関東ローム層の非常に浸透性の高い土地であることを意味している。

 3度目に羽村に取水口を決めたのは、松平伊豆守信綱の家臣で野火止用水の開削者安松金右衛門によるものだとも言われている。

 悲しい坂を下りきったところに府中市が設置した石標がある。それによると

『責任を問われて処刑された役人が「かなしい」と嘆いたことから、この名があるといわれます。このときの堀は、今も『むだ掘』『新堀』『空堀』の名で残っています。 昭和60年3月 府中市』

と記されている。


 杉本苑子著『玉川兄弟』では、この失敗により工事責任者をだった水道奉行の伊奈半十郎忠治が責任を取って切腹するシーンが出てくるが、その後書きで、「伊奈半十郎は病死かもしれない」と述べている。

 また松浦節著『伊奈半十郎上水記』では、「二度水喰らい土に阻まれて工事に失敗。この難工事の最中、玉川兄弟と現場で打ち合わせ中に伊奈半十郎は突然心臓を押さえるようにして倒れこみ、砂川の陣屋に運ばれた。一度は回復するものの、二度目の発作に襲われ62歳で病死した。」とされている。


 史実によると、伊奈半十郎は1653年(承応2年)6月27日に死亡し、家督は子息の伊奈半左衛門忠克に引き継がれている。子息が家督を継いだことから、工事の失敗の責任を取らされて切腹したというのは所謂『都市伝説』であり、おそらく病死したのだろう。

 伊奈半十郎忠治は関東郡代で、農地改革や河川修治の仕事に多くの功績を遺した。利根川を東京湾から太平洋(銚子)に流し替える工事は、忠治から始まって伊奈家3代、60余年に及ぶ大事業を成し遂げている。


 平成に入り、東京競馬場脇(滝神社下)で道路工事中、玉川上水試掘跡の遺構が発見されている。

 悲しい坂の麓に立って緩やかに上っていく何の変哲もない住宅街の坂を見上げていると、いつしか両側は鬱蒼とした武蔵野の雑木林となり、ちょんまげを結った農民や武士の行き交う姿が見えてきたような気がした。

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