幸せは、塩ラーメンの味がする

一初ゆずこ

幸せは、塩ラーメンの味がする

 阿蘇あそに住む康介こうすけ兄さんを訪ねたのは、三月の半ば頃だった。

 きっかけは、正月三が日に届いた年賀状。墨痕ぼっこん鮮やかな新年の挨拶あいさつに添えられた「また遊びにおいで」の一言が、私の背中をとんと押した。

「さゆき、一人で平気?」

 両親には心配そうに訊かれたけれど、私は元気よく頷いた。九州に向かうのは、十五年ぶりになるだろうか。今の街に引っ越す前は、私も阿蘇で暮らしていた。当時五歳だった私は、父の弟だという近所の康介兄さんに、とてもよくなついていた。

 康介兄さんも、自分にだけ懐く引っ込み思案な女の子が、きっと可愛かったに違いない。「さゆきは、将来えらい別嬪べっぴんさんになるたい」なんて言いながら、私の頭を大きな手のひらでくしゃくしゃと撫でてくれた。康介兄さんは、父とは歳が離れていて、そのときは二十二歳だったはずだけれど、農家の仕事を頑張っていて、目を三日月型にして笑う人は、当時の私にはすごく大人に見えた。

 けれど、私ももう二十歳。引っ込み思案な女の子は成長して、髪もきちんにくようになった。ほんのりとだけどお化粧もするようになったし、自分から康介兄さんに会いにいけるような自信も持てた。電車のボックスシートに座りながら、私はこっそりと決めていた目標を、頭の中で反芻はんすうする。

 あの頃のことは、たくさん覚えている。まばらに建つ家々の間で、草原がさわさわと揺れていたこと。康介兄さんの家の庭木には、手作りのブランコがわえてあったこと。さまざまな花が咲く庭で、にわとりを追いかけて遊んだこと。だけど、稲穂いなほのように瑞々みずみずしく光る記憶の中で、ひときわ鮮やかに残っている思い出は、ラーメンだ。康介兄さんが夜食に作っていた、具だくさんの塩ラーメン。あの味が、私は今も忘れられない。

「さゆきも食べるか?」

 茶目っ気たっぷりに訊かれた私は、どきどきしながら「食べる!」と小声で返事をした。小さなおわんに分けてもらったインスタントラーメンは、まるで夢のような味がした。

 だから、もう子どもじゃない私は、康介兄さんと再会したら、きっとこう言って驚かせるのだ。今度は私が、兄さんにラーメンを作ってあげる。

 そんな目標を、立てていたのだけれど――私のささやかな野望やぼうは、駅まで迎えに来てくれた康介兄さんの言葉によって、あっさりと消え去ってしまった。

「さゆき、よう来たなぁ。昼飯にラーメン食べるか?」

「……食べる!」

 作ってあげるラーメンよりも、作ってもらえるラーメンを食べたい。がらにもない背伸びは、もうおしまい。少しおしゃまになっていた私は、十五年前の女の子に戻ってしまう。康介兄さんの家の庭は、木の枝が折れたからか、手作りのブランコが消えていて、鶏もいなくなっていたけれど、三十七歳になって目尻にしわができた三日月の目が、親戚で囲んだご飯みたいに柔らかくて温かい笑顔が、私の心を十五年前までタイムスリップさせてくれた。私は、故郷に帰ってきたのだ。

「この味をまた食べたくて、熊本まで来たんだよ」

 懐かしの居間で、炬燵こたつに入ってラーメンをすすりながら、私はしみじみと言った。塩気がからんだめんから、まろやかな甘みがふわりと香る。熱い湯気が、頬をくすぐった。

「さゆきは、都会に出て、面白なって帰ってきたなぁ」

 康介兄さんは、言葉通り面白そうに相好そうごうを崩すと、トッピングの豚肉を頬張った。私は、思わずはしを止めてしまう。

 十五年前にはなかった物が、康介兄さんの左手の薬指にはまっていた。

「康介兄さん、幸せ?」

 訊いてみると、康介兄さんは幼い子どものようにきょとんとした。私は、既視感きしかんを覚えた。康介兄さんは、家業の農業を継いだ頃に、「どうして農業の道を選ぶのか」と、周囲から質問を受けた際に、今みたいにぽかんと黙り込んだらしい。そんな質問を受けたことを、心から不思議がっている顔だったと、親戚の間で語り草になっていた。そんな康介兄さんの気持ちが、今の私には理解できた。

 農業の道を選んだことは、きっと康介兄さんにとって当たり前のことなのだ。康介兄さんは、疑問を挟む余地なんてないくらいに、自分が進むべき道を定めていた。そういう真っ直ぐなところに、私は憧れていたのだろうか。

 ラーメンを食べる手を止めていた康介兄さんは、やがて「よう分からんけど」と前置きすると、愉快そうに歯をのぞかせて、おおらかに笑った。

「こぎゃん可愛いめいっ子が遊びに来て、一緒にうまかラーメン食えて、生きててよかったって思うとるよ」

 私も返事をしようとしたけれど、めんが伸びてしまいそうだから、急いで食べて誤魔化した。久しぶりに味わった康介兄さんの塩ラーメンは、相変わらずインスタントの袋麺で、だけど白菜や豚肉が贅沢ぜいたくなくらいにっていて、あれから十五年たって変わった私は、もうその味を夢のようだとは思わなかったけれど、代わりに生きていてよかったと思うくらいに、満たされた心地になっていた。私が変わったように、康介兄さんだって変わったけれど、変わらないものだって、ちゃんとここに残っている。

 それに、新しく生まれるものもあることを――康介兄さんの指輪を見たときから、きっと私は、予感していた。

 胡椒が沈んだスープを飲んでいると、玄関の引き戸がガラガラと開く音がした。康介兄さんは、ふっと穏やかな目つきになると、玄関のほうに「ああ、おかえり」と声を張って、立ち上がった。誰かを迎えに行こうとしている背中を見送りながら、私は少し緊張した。けれど、ラーメンで温められた心が、私の身体を自然と立ち上がらせていた。少しだけ引っ込み思案に戻った私は、十五年の歳月でつちかった勇気を総動員して、初めて顔を合わせるその人の元へ、そうっと歩く。照れ笑いが、顔に浮かんだ。

 ――今度は私が、兄さんにラーメンを作ってあげる、なんて。本当に、最初から言う必要などなかったのだ。

 家に入ってきた相手も、私という来客に気づいた。黒髪が綺麗なその人は、大きなお腹に手を添えていて、私に微笑みかけてくれた。

 康介兄さんと、よく似た笑い方をする人だ。これからさらに新しく変わっていく家族を祝うために、私はもう一歩、玄関扉から射す白い光の中へ踏み出した。

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