Best Place ~心穏やかに過ごす場所~

江田 吏来

安住の地:高知県

 医学部を卒業してから十年、僕はひとりの医師として、高知県で働くことになった。しかし、高知での仕事は予想以上に大変で、体は簡単に悲鳴をあげる。そのうち、ぼんやりすることが多くなり、ミスも増え、とうとう医院長に呼び出された。


「土佐湾を見渡す丘に、田中さんの家がある。そこの担当医になってくれ」


 手渡された紹介状に目を通すと、田中さんは乳ガンを患い、兵庫県の病院にいた。しかし、長い闘病生活で体が弱り、化学療法がおこなえなくなると、ガンは容赦なく全身に転移する。


「残された時間をここで終えたくて、他県からわざわざ引っ越してきたそうだ」


 ため息交じりの医院長の言葉に、正直、面倒な話だと思ったが、命令には逆らえない。僕はベテランの窪内くぼうち看護師の車に乗った。

 コバルトブルーの絵の具を落としたような土佐湾を眺めながら、これまでを振り返る。医師としての自信をなくしかけていたが、どこまでも続く青は、暗く沈んだ僕の心を癒してくれた。


 そして、田中さんの家に到着すると、広いリビングに案内された。


「はじめまして。安岡やすおか総合病院の、守本もりもとです。これからよろしくお願いしますね」


 ベッドに横たわる田中さんに、朗らかな笑みを浮かべて手を伸ばしたが、田中さんは天井をみたまま、ピクリとも動かない。

 目を合わせることもなく、いきなり僕に質問をしてきた。


「先生も、よそからこちらに来られたんですよね? 高知はどうですか?」


「はじめて高知に来たとき、駅前に大きな銅像が三つも並んでいて、驚きましたよ」


 少しムッとしていたが、そんなことは悟られないように、高知と聞いて思いついたことを適当に話した。


「あぁ、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎の像ですね。でも、アレは発泡スチロール製なんですよ。台風の時期には撤去されますし」


 色のない田中さんの薄い唇が微かにあがると、窪内看護師が大きな窓を開けた。

 大きな窓からは爽やかな海風が入り、頬をくすぐる。

 僕が息を吸い込み、潮の匂いを感じていると、田中さんはリクライニングベッドのスイッチを押して、体を起こした。


「高知には、エーゲ海に浮かぶ奇跡の島を再現した、リゾートホテルがあるのをご存知ですか?」


「ギリシャのサントリーニ島に行った気分になれるやつですか? 本当ですかねぇ」


 僕は田中さんのそばに座り、一緒に紺碧の海を眺めた。


「私、主人とサントリーニ島にも、そのリゾートホテルにも行ったことがあるんです。どちらも青と白のコントラストが美しくて……。さすがに海外で生涯を終えるのは無理だから、ここに家を建ててもらったんです」


「なるほど。この窓からみえる、海と空の鮮やかなブルーコラボレーションは、すばらしいですね。エーゲ海を眺めているようだ」


「ええ、ここからの景色が、私も大好きなんです」


 田中さんは目を細めて、柔和な笑顔を小さな顔いっぱいに溢れさせていた。ところが、窪内看護師が小さな声で「先生」といって、カルテを差し出す。

 僕はカルテに目を通すと、言葉を失った。

 不自然な長い沈黙が続き、僕のうろたえている様子を察知したのか、田中さんが口を開く。


「先生、いいんですよ。私には風がみえていますから」


 カルテには、ガンが脳に転移し、失明していることが書かれていた。


「高知は、森林面積率が全国一位なんですよ。外へ出て周りを見渡すと、どこかの方向に、必ず山がみえるんですよ」


 明るく穏やかな声で語りかけられても、僕は高知のことを知らなすぎて、何も答えることができない。


「自然の恵みに守られて、山・川・海の幸が豊富で、美味しいものがたくさん。だから、お酒が好きな人が多くて、高知は酒国なんですって」


 田中さんは笑みを浮かべながら話をしているけど、体は苦しいはずだ。それなのに、僕は気の利いた言葉ひとつ出せない。

 レースのカーテンが大きく揺れるのを、何度もみながら、言葉をさがしていると、田中さんが細い手が、僕に触れる。


「先生。高知を、楽しんでくださいね」


「……はい」


 それから七日後、田中さんは息ができないと訴えた。

 酸素吸入をおこない、酸素流量を増やしても、田中さんの苦しみは改善しない。僕は苦しみを和らげるために、鎮痛剤をこれまでの内服薬から貼付剤に替えるか、悩んだ。


 貼付剤を使えば、意識レベルがかなり落ちてしまう。

 話ができなくなるかもしれない。

 海風を感じることも、潮の匂いも――、きっとわからなくなる。


 それでも田中さんは、苦痛に満ちた顔でほほ笑む。


「そろそろ眠らせてください。私は……、大好きな高知で眠るために、ここにいるんです」


 




 田中さんと海を眺めた日から、僕はときどき高知を旅している。 


 抜群の透明度を誇る仁淀川によどがわ上流で、【仁淀ブルー】と呼ばれる奇跡の清流に出会った。

 安居渓谷やすいけいこくにある水晶淵では、川底の石も、沈んでしまった落ち葉の色もハッキリとみえる。

 季節や時間帯によって、その姿を変える青い水は、僕を魅了した。


 北川村【モネの庭】マルモッタン にも足を運んだ。

 印象派を代表するフランスの画家、クロード・モネが愛した庭を、高知の自然の中で忠実に再現した場所らしい。

 モネのことはよく知らないし、絵心もないけど、「世界にふたつしかない」と聞いて、興味を持った。


 そして、年間日照時間が二千時間を超える高知は、今日もよく晴れている。

 僕はまた窪内看護師の車に乗り、静かな土佐湾を眺めていた。


「あっ」


「ひゃっ、急に大きな声を出さないでください。ビックリするじゃないですか」


「いま、海の中に白い鳥が――。あ、すみません。窓を開けてもいいですか?」


「どうぞ」


 サラッとした海風が車の中に入りこむと、潮の匂いと共に、僕は田中さんのことを思い出す。

 終の棲家を高知に決めた、田中さんの気持ちが今ならよくわかる。


 海なのか、空なのかわからない青色の中を、白い鳥が自由に羽ばたいていた。




   (完)


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