足無きの道

雨藤フラシ

足無きの道

◆01-------------------------------------------------------


 常識、そして科学や歴史、人類が積み重ねてきた知識とその光が、自分たちに牙を剥いて長い。すれ違う人々が、佐和子さわこには押し寄せる研磨機に見えた。

 社会や世間の隙間でひっそりと息を殺しながら、世界そのものに心身を削られる日々。自分たちは確実に摩耗してきている。

 佐和子は普段、在宅ワークと通販を利用した引きこもり生活をしているので、滅多に外出などしない。

 今も肩をすくめ、出来るだけ頭を低くして、視線を避けるように歩いていた。私は透明人間、誰も自分のことなんて見ないし気に留めない、堂々としていればいい。家を出る前そう復唱したはずだが、結局は指名手配犯に倣う格好になってしまった。

 頭を下げて歩けば、自然と周りの人々の足元が目に入る。スニーカー、ハイヒール、ブーツ、革靴、ラバーサンダル、様々な靴の下、健気に付き従う影が踊っていた。佐和子はその事実を噛みしめる。

 古来、絵に起こされた幽霊は足が無かったが、あれは真実だったのだ。自分たちには足が、足の下にあるはずの影が無い。ただ見た目を誤魔化しているだけ。


――「実際のところ、我々〝ニング〟は幽霊のようなものだからね」


 タイヤ腹の研究員は、かつて佐和子にそう言った。

 ニンゲンに少し足りないから、ニング。

 最初に私たちをそう称したのは誰だったのだろう。佐和子には分からないが、自分が人間ではない何かになった事実が哀しかった。四六時中怯え、どうかどうか見つかりませんように、私は化け物じゃありません、だから気づいてもそっとしておいてください、そう祈りながら過ごす日々はなんて惨めなのだろう。


――「あるいは、コンピュータ上に発生したバグ。不可分なはずの一群のデータが壊れてしまったのに、削除されずに残り続けている状態というか……」


 その後は、アマ始元量がどうの、カタカムナがどうのと宗教講義に話がシフトし、佐和子の記憶からはスコンと抜け落ちている。

 話の要点はわずかだ、まず、これを手に入れること。

 影を失った自分が、きちんと影を持って生きているように見せかけられるのも、あれがあってこそのことだ。手持ちのオルタスはまだ残量があったが、佐和子には心許なかった。今年度の配給上限にはまだ達していないから、きちんとお願いして、手続きを踏めば、追加を支給されるはずだった。


◆02-------------------------------------------------------


「あー、最近多いんだよね、追加をくれって人。例の噂のせいかな」


 応対した研究員は、この間のタイヤ腹の男性だった。まだ二十代だろうに、丸々とした肥満体で、忘れようのない姿。


「でも駄目だよ、あなたに余分なオルタスを都合すると、緊急に必要って人に行き渡らなくなる」


 そんな、と佐和子は唇を噛んでうつむく。手ぶらで帰っては、何のために電車を乗り継ぎ、歩いて歩いてここまで来たのか。

『見つかるかもしれない』そう怯え、深い穴のふちを辿るような道行きを、ようやく乗り越えてきたのに。だが研究員は、麻薬を求める中毒者に対するように、佐和子を一瞥した。少なくとも彼女にはそう見えた。


「健診結果を見る限り、あなたの影は衰弱傾向にないんですよね。まだまだ元気いっぱい、週一の補充でバッチリ保つよ。だから安心して外を歩いたらいい。余計な不安を持つ方が、影に良くない」

「だから、不安を抑えるために、私はオルタスが欲しいんです!」

「じゃ、今日の所は再健診の手続きにする? それで衰亡傾向が出ているなら処方できるから」

「……今日もらえないの!?」


 その後は押し問答になり、タイヤ腹の男は無理やり受付を閉め切ったので、佐和子は諦めるしかなかった。失意のうちに、しらみね団地を去る。ここの一棟を、〝同窓会アラーム〟が貸し切って、事務所や会議所や研究所に使っているのだ。敷地を出る前、佐和子はカバンからスマートフォンを取り出した。

 彼女と同じ境遇の者が見れば、それがスマートフォンではなく、オルタスだと気づいただろう。

 佐和子はカメラを起動させると、レンズを自分の目に押し当て、シャッターボタンを切った。これがカメラならば、真っ黒な写真が撮れるだけだろう。だがこれはオルタス、オルタナティブなシャドウ、略してオルタ・S。佐和子はシャッターを切った瞬間、自分の中に何かが満ちるような感覚を覚えた。熱のような、液体のような、電気のような、砂糖のような。

 充足と安心、だが確実に目減りしていく安全保障。いつまでこんな生活を続ければいいのだろう、先行きが見えないまま、佐和子は帰路に就いた。


 補充を断られて一ヶ月。佐和子は限界だった、今度こそオルタスを受け取らなくては、絶対に帰らないと心に決めて、久方ぶりの外出に臨んでる。

 少しずつ、自分たちニングのことは噂になっている。

 鏡に写らない人間、カメラに写らない人間。吸血鬼、幽霊、宇宙人、様々な憶測が、ネットの海でひそひそと囁かれていた。そして、囁く者たちの中には、自分たちを探し出そうとする連中がいる。見つけてどうするつもりか、おそらく当人たちも何も考えてはいないだろうが、迷惑極まりない。

 佐和子も十年前までは、普通の人間だった。生まれた時からこうだった訳ではない、ただ昔、故郷を襲った災害のせいで、存在の一部が消し飛ばされてしまったのだ。影がない、鏡に写らない、あるいは透けて写る。

 それだけなら、精神衛生上よろしくないだけに思えた。肖像障害しょうぞうしょうがいと名付けられ、互助組織を結成し、研究を進めたが、オルタスの発明以外大した進捗はない。

 年月の流れる中で、佐和子は人間の好奇心がかくも残酷だと知った。知りたい、興味がある、ただそれだけで何も要求しない、そんなお為ごかしを免罪符に、人の生活をかき乱す。従姉妹はそんな連中に追い掛けられて、引っ越しを余儀なくされた。友人は視線恐怖症から立ち直れなくなって、今も入院生活を送っている。

 とにかく平穏無事に、しらみね団地まで辿り着ければいいのだが。彼女がそう思った矢先、背後から声をかけられた。


「ねえ、おねーさん」


 びくつきながら佐和子は振り返る。見知らぬ若い男、茶色く染めた髪とピアス。自分とは別世界の住人と思った。その肩の向こう、ニヤニヤと彼女を見る若い男たち、五、六人ほどのグループ。声をかけてきた男は、無遠慮に肩を叩いた。


「あれ、ちゃんとさわれるじゃん」


 と、笑う。まさか、と冷たい予感が佐和子の胸に突き刺さった。

 シャッター音が鳴る。グループの一人がこちらに近づいて、スマートフォンを掲げていた。続いて二人目、三人目。画面を見てうひょー! と歓声を上げているのを見て、佐和子は走り出した。


「待てよ」


 最初に声をかけた男に腕を掴まれ、別の一人が前へ回り込む。ふざけたような、あざけるような声音、だが逆らえばただではおかないと、暴力を予感させる口調だった。


「スッゲ、半透明になってんよ」


 男たちは、画面に写っているだろう佐和子の姿を見て、スゲースゲーと言い合っている。もう間違いようが無かった、自分は見つかってしまったのだ、ニングの異常性を知られてしまった。しかも、写真に、データにまで収められて――


(そうだ、逃げなくちゃ)


 肩を抜けるような痛みが襲い、背中を道路に打ち付ける。


「待てって!」


 そうだ、自分は男に腕を掴まれていたままだった。ひっくり返った佐和子を、周りの歩行者がちらちらと一瞥しては歩き去っていく。

 誰も助ける気はない、中には、事件を記録しようとカメラを掲げているものがいる。そいつはすぐに、彼女が半透明で写ることに気づくだろう、最悪だった。


「いっ……いやああああ! いや、いや、いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや助けて! 見ないで、撮らないで、助けて、助けてようっ!」


 恥も外聞も知るものか。佐和子は泣き叫び、メチャクチャに手足を振って、男の手が緩んだ瞬間、立ち上がって走り出した。


「あ、おい」


 仲間が手を伸ばし、佐和子は手にしていたバッグをフルスイング。手応えを感じながら、無我夢中で走った。警察、と誰かが叫ぶ声がする。

 一瞬自分の事かと身を固くしたが、状況的には、複数の男が往来で女性を襲ったようにしか見えなかったのだ、違うだろう。けれど、警察がニングを助けることなど出来ない、佐和子は逃げるしかないのだ。

 ボロボロと涙がこぼれる、風に髪が乱れる、自分が異常だと知れ渡ってしまえば、〝同窓会〟にも見捨てられるかもしれない。

 男たちが追い掛けてくるかもしれない、その恐怖から、佐和子はしらみね団地に逃げ込むことを諦め、ただいたずらに走り回った。


 幽霊になってまで、どうして自分は生きているのだろう。佐和子には良く分からない。ニングになった時、透明人間になってしまえば良かったのに、お腹は空くし他人に体は見える。ただ、足りないのは影だけ。

 オルタスで補充し続けなければ、残った影もやがて衰えて、人の目から見ても透けるようになってしまうのだ。そして、いつかは本当に消えてしまうだろう。

 それが消滅と死を意味するのか、ただ透明人間になるだけなのかは、まだ誰にも分からない。

 どうにか自宅に辿り着いた佐和子は、疲れ切って布団を出す気力も無かった。部屋の隅へ行き、壁にもたれる。すると、背がと泥のように沈んだ。

 佐和子はびくりと身を震わせたが、ふとあることに気づき、そのままずるずると壁に身を飲み込ませていく。生ぬるい、泥と言うよりももっと液体に近い感触のそれに、上半身がすぽりと埋まり、反対側へ突き抜けた。

 自宅前の道路と、向いの家が一瞬見えて、彼女は慌てて頭を引っ込ませた。ニングは、影の衰弱と共に存在が希薄になっていく。幽霊に近くなっていく。だから、時として壁抜けが出来る者がいると聞いたことがあった。つまり、自分もその域に達してしまったのだ。佐和子の口元が、ゆるゆると開いた。


「あは……」


 笑いが漏れる。そのまま二度と止まらなくなりそうな、だらしのない笑いが。


「なんだ……こんな簡単なことだったんだあ……」


 自分がニングならば、人間の道では無く、ニングの道を通れば良かったのだ。壁の中は、ぬめる泥水のようで、外の様子は暗くぼやけて見えたが、佐和子はニングになってから初めて、自由になれた気がした。

 アスファルトの海を泳いで行けば、誰にも見つからない。研磨機のような雑踏に揉まれることも、残酷な好奇心のけだものに掴まることも、二度とない。

 起き上がり、フローリングの床を叩くと、手の平が水面をくぐるように沈み込んだ。トイレの壁を突き抜けて、扉を開け閉めせずに用を足した。冷蔵庫に頭を突っ込むと、暗くて中の物がよく分からなかった。電源を入れたパソコンに手を入れると、うっかり感電したので、そこは反省することにした。それら一連の作業を、佐和子は子どものように笑い転げながら何度も試す。


「生きていける、私、まだまだやってける」


 こんなに笑ったのは久しぶりだった、ずっと心に染みついていた惨めさが晴れ、手足に力が満ちて弾んでいる。翼が生えて、どこにでも飛んで行けそうな気分。体が軽く、目の前が明るく、佐和子は初めてオルタスを手にした時以来の安堵を覚えた。


◆03-------------------------------------------------------


 こんこん、こんこんとノックを繰り返す。タイヤのように突き出た腹をさすりながら、サンガは何度目かの呼びかけを試みた。


「もしもし、もしもし! 桜井佐和子さーん、聞こえますか? 同窓会のサンガです。そこから出てこれますか? 動けますか?」


 壁に当てた聴音器を通し、サンガはじっと中から聞こえる音に耳を澄ます。一分、二分、やがて彼は首を振った。


「そう、出てきたくないですか」


 肩を小さく落とし、サンガは路地裏の壁を前にぼやいた。周りには、白衣を羽織った職場の同僚と部下たち。やはり駄目だ。この世に確固として存在している物質に、情報の一部を欠損し、弱り切ったニングの体は耐えられない。桜井佐和子は、壁の中に溶けてしまったのだ。部下がいぶかしげに訊ねる。


「主任、聞こえたんですか?」

「いや、何となくそんな気配がしただけだよ」


 実際、彼には佐和子の声は聞こえなかった。ただ、ハッキリとした意志と気配と存在感が、彼女はそこにいる、そして、満足しているのだと示していた。

 壁抜けが出来るほど、存在が希釈されたニングはそれほど多くはない。普通はそうなる前に、オルタスで補充し続けるからだ。だが、何らかの強い不安や精神的ショックで、影が急速に弱ることがある。サンガが知る佐和子は、常にびくついているような女性だった。何か恐ろしい思いをして、それに目覚めてしまったのだろうか。


「我々はいつまで、ふわふわ生きてればいいのかねえ」


 嘆息しながら煙草をくわえ、サンガは撤収を宣言した。幽霊には足がない、それでも歩いてかなくてはならない。

 自分たち同窓会が出来るのは、ニング同士助け合い、ひっそりと生きていくことだけなのだ。足無きもののための車椅子、あるいは松葉杖、転ばぬ先の杖。だが歩きたくない者を追い立てることまでは、出来ないのだ。

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