踊る阿呆と見る阿呆は坩堝の底で何を見たか

理性の狡知

踊る阿呆と見る阿呆は坩堝の底で何を見たか


 『阿波おどり』。それは徳島県民にとって年に一度のビッグイベントである。人通りのまばらな徳島の街を、この時ばかりは群衆が埋め尽くす。この人間たちは一体今までどこに隠れていたのか。その光景を見る度、僕は思う。

 大鳴門橋と明石海峡大橋の開通によって近畿圏との繋がりが増した結果、ストロー効果で人口はめっきり減ってしまった。飲んだ所で大して美味くなかろうに。おのれ都会。そんなに若者が美味しいか。お陰でこちとら母校の小学校が消えそうなんだぞ。

 さて、そんな崖っぷちの阿波徳島であるが、阿波おどり期間中は往年の賑わいを見せる。侮るなかれ。これでも藍が特産だった頃は日本全国人口ランキングトップ10に入っていたのだぞ。どうだ。凋落著しいだろう。笑えよ都会人。

 何時もは人っ子一人いない商店街を人々が通り過ぎる。老いも若いも家族連れも。様々な人間が前を通り過ぎる。人混みに慣れていない生粋の現代阿波っ子の僕には、この光景はなかなかこたえる。人間の匂い。屋台が出すフランクフルトの匂い。遠くで響くかねの声。腹に響く太鼓の音。いやはや、まったく慣れない。

 うだるような暑さの中、夜の街を煌々と照らす電球で浮かび上がるのは踊る阿呆である。ドンドン、カンカン。独特のリズムが場を支配する。祭り囃子がアスファルトに乱反射して空気が震える。踊る阿呆は必死に踊る。紅潮した肌に浮かぶ汗が照り輝く。激しい踊りにあわせて紙吹雪のごとく汗が辺りに飛び散る。まったく。踊りに踊ってなにが楽しいのか。自称『冷めた人間』の僕はそう思う。憂さ晴らしか、それとも鎮魂か。祭りの本質とはなんであるか。民俗学者の誰かが「れ」とか「」とか言って答えていたと思うが、いや、この場でそのような理性的な話は似合わないだろう。

 ――踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら踊りゃにゃ損損。ハハハ。全く、こうやって自称『冷めた人間』の僕すら巻き込もうというのか、阿波おどりは。場の全てを巻き込もうとするそのふてぶてしさ。厚顔無恥。阿波おどりが現代に至ってもこうやって盛大に催されるのは、まさにそういった厚顔無恥から来るのだろうか。心に打ち震える何か。理性的ではない、本能的な何か。太鼓の音と本能が共鳴する。高揚する精神。恍惚が広がる。

 目の前を踊り子の一団が通り過ぎる。頭にはねじり紐、身体には法被、そして足には足袋。阿波おどりの正装。一般的には伝統の姿とされる。しかし、阿波おどりの正史を紐解くと、その歴史は明確には不明なのだ。形成された伝統。その伝統を虚構と人は言うかもしれない。かくいう僕もその疑念は否定できない。

 商業化された伝統と人は嗤うだろうか。それは穿った見方か。厭らしい見方か。答えはきっと人それぞれだろう。思うに、商業主義に毒されていない伝統など昨今存在しない。民藝運動の推進者達は民衆の中に息づく伝統を『伝統』と呼んだ。伝統と認識されない『伝統』。それこそが彼らにとっての『伝統』だった。普段何気なく編む竹籠こそが彼らにとって『本当の意味での伝統』だった。そしてその『伝統』が美しいとされた。ところが、現代では伝統と自覚される(自称する)ものが伝統となる。阿波おどりとてご多分漏れずその一つだ。忍び寄る商業主義、そしてそれに屈する伝統。果たして、この日本に『伝統』は残っているのだろうか。

 祭り囃子がペースを早める。それに合わせて踊り子達のステップが早くなる。跳ぶ跳ぶ、止まって、また跳ぶ。廻って、ひっくり返って、そしてまた跳ぶ。複雑な動きが組み合わされ、それが調和をもって眼前に現れる。指先の僅かな動きまで細心の注意が払われているにも関わらず、豪気さを失わないその踊り。突き詰められ、洗練された踊り。完成された踊りである。もう、これ以上望むべくもない程の踊りである。これが僕と一緒の一般市民が踊っているのだから驚きだ。

 そう、がこれを踊っている……

 そうだ。そうだった。こんな簡単なこと、何故気づかなかったのか。確かに阿波おどりは近代(正しく言えば戦後)以降形成されたという意味で虚構の伝統だ。しかし、その虚構の伝統が一般市民によって担われればどうなるか。虚構のその先は。

 民藝運動の推進者達は無名の民衆芸術家に焦点をあてた。しかし、商業主義に屈服しているけれども、無名の一般民衆によって担われる伝統は如何に評価するだろうか。現代の伝統を如何に評価するだろう。きっと、彼らも『伝統』と認めたに相違ない。

 ――踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊りゃにゃ損損。彼らはお金がもらえるから踊るわけではない。ましてや、伝統だからといって踊るわけではない。

 ただ、阿呆なのだ。純真無垢な阿呆なのだ。阿波おどりが虚構の伝統だろうが、なんだろうがそんな瑣末なことはどうでも良い!!ただ楽しいから踊る。ただ踊りたいから踊る。それ以上の感情を彼らは持っていない。そして、彼らを見ている僕も阿呆なのだ。的はずれなことを考えすぎた。この狂騒で何を莫迦なことをしていたのだろう。

 ――ヤットサーヤットサー、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊りゃにゃ損損。

 誰も彼もが、踊り出す。あらゆる人びとが踊りだす。太鼓とかねの音に合わせて足を出す。手を動かす。夜の街を燦々さんさんと輝く電灯が照らす。汗が吹き出し、シャツが濡れる。眼鏡がずり落ち、息が上がる。唐揚げの匂いと、焼きそばの匂いが鼻につく。かねの音が僕達を追い立て、太鼓のリズムが血をたぎらせる。なにもかもが混ざってここは坩堝の底。

 さて、踊る阿呆と見る阿呆は坩堝の底で何を見たか。

 その答えは。そりゃ、阿呆に決まっておるでしょう。

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