第14話 とうとうあの子の初陣です。武運を祈ってくださいね
夜十一時をまわった。
タダヒトは自室で横になっていた。夕食のあとは風呂に入り、しばらくテレビなどを見て、だいたい十時から十一時くらいには自室に引き上げるのが彼の生活サイクルだった。
自室に戻ってもすぐに寝るわけではなく、雑誌を読んだり、スマホをいじったり、たまには机に向かったり、眠くなるまであれこれやることはあるのだが、
「うーん」
と唸ってタダヒトは漫画を伏せた。ちっとも頭に入らない。
やむを得ないところだ。今日はいろいろありすぎた。ハルカの激昂。吠える白虎。サトミ先生の正体。妖狐の話。女子の制服。ミチザネさん──どれもこれも、はたして本当のことだったのか、こうしているとわからなくなる。
タダヒトは起き上がって窓辺に行き、窓ガラスに映る自分の顔を眺めてみた。認めるのは不本意だが、さして整っているわけでもなく、さほど不細工というわけでもない、ごく普通の男子がそこにいた。
「があっ」
歯をむき出して凄んでみた。男子が変な顔をしているだけだった。
「うりゃ」
指で目を吊り上げてみた。やっぱり変な顔をしている男子だった。
「あばばばば」
舌を出して白目を剥き、激しく首を振ってみた。
「──なにやってんだろ」
バケモノじみた顔をしてみても、本物の狐のバケモノに憑かれている状況が、いまひとつピンとこなかった。たまに記憶が飛ぶこと以外に、自覚症状は一切ない。
タダヒトがカーテンをひいて、また横になろうとしたとき、スマホが鳴りだした。知らない番号だった。
『夜分に申し訳ございません』
落ち着きのある女性の声だ。
『サトミの部下で犬坂と申します。お休みのところ恐れ入りますが、加茂タダヒト様に至急のお願いがあり、連絡させて頂きました』
「はあ」
今日はもうすでに色々あった。
が、まだ終わってくれないようだ。
「あの、相談って何でしょうか」
『電話では失礼かと思いますので、できれば直接お会いしてご説明したく存じますが、お許し頂けますでしょうか』
「もう近くにいるんですか」
『外をご覧ください』
カーテンの隙間から外を見ると、停車した車の傍らで、スーツ姿の女性が携帯電話を耳にあて、タダヒトのいる五階を見上げていた。
『押しかけるかたちになり申し訳ありません。なにぶん緊急のことでございますので、ご容赦くださいませ』
「どうしますか。ちょっと外に出ましょうか?五分くらいのところにファミレスが──」
『重ねて恐縮ですが、なにぶん急いでおります。よろしければ窓を開けて、少しさがってくださいますか』
「?」
タダヒトが従うと次の瞬間、ぶわっ、と舞い込む突風とともに、女性が窓から飛び込んで、派手にカーテンを揺らしていた。
「え?」
あたりまえだが、仰天した。
「ええっ!」
「不作法をお詫びいたします」
「えええええ!」
「あらためまして、犬坂と申します」
「っていうか、ここ五階なんですけど!」
慌てふためくタダヒトを前にして、その女性──確か犬坂と名のった──は表情も変えずにたたずんでいた。
揃えた手にパンプスがぶらさがっている。飛び上がってくる直前か途中かで、律儀にも脱いできたらしい。
「サトミと同じく三課に所属しております。以後、お見知りおきの程、よろしくお願い致します」
犬坂が丁寧に頭をさげた。
切れ長の目に長い睫毛。線の細い輪郭にショートカット。すらりとした長身をスーツに包んで、隙のない物腰をみせる彼女は、ハルカやサトミとはまた違った、つつましい感じのする美人だった。
人によっては何かと賑やかな二人より、こういうクールな美女が好みという男性もいるだろう。
ただし、マンションの五階に飛びあがったりしてこなければ。
「で──その、相談って、何でしょうか」
どぎまぎしながらタダヒトは尋ねた。
態度がぎこちなくなってしまうのが、相手が美人だからなのか、それとも五階までジャンプしてきたからなのか自分でもよくわからない──たぶん、どっちもだろう。
犬坂はあくまで慇懃に、
「なにとぞ、ご加勢いただきたく、お願いにあがりました」
「加勢? なんのことですか」
「姫さ──サトミが拉致されました」
「え?」
「これより救出に向かうにあたり、どうかご助力を賜りたく」
「サトミ先生が? え? 拉致って? だって、ついさっきまで俺と──」
「つい先ほど、帰宅直後のことです」
犬坂は事情をかいつまんで説明した。自宅から何者かによってサトミが拉致されたこと。例の連続誘拐の続きだと思われること。こういう場合に備えて、あらかじめサトミから指示を受けていたこと。
「状況を踏まえ検討した結果、サトミの指示を実行に移すべきと判断致しました」
「指示はいいんですけど、助力って、なんで俺なんかに?」
「サトミ本人の要望です。なにかあったら、タダヒト様とハルカ様のご助力をあおぐように、と」
「ハルカも」
「はい」
犬坂は頷いたが、彼女自身がどう思っているか、表情からは読み取れなかった。
「だって、どうすればいいか──というか俺、なにもできませんよ」
「救出作戦はこちらで立案いたします。お二人はご同行いただければ結構です」
「一緒にいくだけ?」
「そのように聞いております」
「ハルカはともかく──」
タダヒトはハルカが召還した白虎を思い出しながら、
「俺に何をしろって言うんですかね」
「具体的なことは存じておりません。推察は可能ですが、予断は差し控えたく思います。なお本人より伝言がございますので、これよりお伝えいたします」
犬坂はそう言うと、事務的だった表情に僅かな当惑をのぞかせて、
「伝言は一字一句たがえず復唱いたしますが、あくまでサトミ自身の言葉である点をあらかじめ、お含みいただきたく思います──それでは」
と、抑揚のない声でサトミのメッセージを復唱しはじめた。
「これを聞いてるってことは、あたし拉致られちゃったってことだね。いやー、ゴメン! 悪い! この通り! 大変だけどハルカちゃんと一緒に助けにきてくれる? あたしの部下をつけるし、ミチザネさんも協力してくれると思う。お礼は──中間考査で加点サービスしてあげたいとこだけど、教育倫理上よろしくないから、そこにいる犬坂の胸を小一時間ほど揉み放題ってのはどうかな? スリムに見えるけど、実は結構、あるとかないとか。あはは、冗談だけど、もしタイプだったら、いっとけいっとけ、先生は許す! もちろんハルカちゃんに黙っとくよ。それじゃ、シ・ク・ヨ・ロ!」
ほぼ表情を変えずにメッセージを言いきった犬坂は、コホンとひとつ咳をして、
「重ねて申し上げますが、あくまで当人の言葉であることを、ご承知おきくださいませ」
「犬阪さん、でしたよね」
「はい」
「苦労してますねえ──」
犬坂は少し顔を赤くしたが、何も言わなかった。
「けど、なんか今ので信憑性、高まりました。サトミ先生、本当に誘拐されちゃったんですね」
「ご同行いただけますでしょうか」
「いきます」
タダヒトは立ち上がった。
「けど、犯人ってわかってるんですか」
「詳しくは、わかりかねます」
「じゃあ、サトミ先生がどこに監禁されているかも、わからないんじゃ」
「そちらは、概ね把握できております」
不思議そうな顔をするタダヒトに、
「私どもは《イヌ》でございますから」
「犬?」
「ええ。そしてイヌは主人の匂いを、どこまでも辿れるものなのです」
「はあ」
いまひとつ意味がわからなかったが、よく考えたら今日の出来事はどれもこれも、わからないことだらけだ。
(まあ、今さら──)
わからないことがひとつ増えたところで、いちいち悩んでいられないというか、正直、きりがない。
「俺自身はなにもできませんけど、たぶん、俺に憑いてるキツネってのに、なにか期待するところがあるんでしょうね。すいません、着替えますんで、しばらくあっち向いててくれると助かるんですが」
犬坂はじっとタダヒトを見つめていた。
「あの。犬坂さん?」
「も、申し訳ありません。動じておられない、と感心して、つい」
「え? 変ですか?」
「私どもの見てきた例で申し上げますと、憑依されていることを知らされた方は、概ね激しく否定されたのち、恐慌状態(パニック)に陥られます。」
「はあ──まあ、俺の場合は、ときどき記憶が飛ぶっていう、心当たりがありましたから」
「サトミは必ずご協力いただけると確信していたようですが、失礼ながら私は半信半疑でございました」
「そんなもんですか。なんか照れますね」
「サトミは、よくタダヒト様のことを『強い』と申します」
「強い? まさか」
「私にも、その意味が理解できたような気がします」
そう言って犬坂は背を向けた。
* * * * *
「タダヒト、まだ起きてるの?」
母親がタダヒトの部屋をノックした。
返事はなかった。そっとドアを開ける。タダヒトの姿はなく、開いたままの窓から風が吹き込んで、カーテンが揺れていた。
驚いてはいなかった。無言のまま、おそらく息子が出て行ったであろう窓を見つめていた。
しばらくして母親がつぶやいた。
「いったのね、タダヒト」
窓の向こうには夜景が広がっている。
国道を走る車の音。クラクション。高架を渡っていく電車。人々の靴音。囁くような話し声。くしゃみ。しわぶき。木々のざわめき。
風にのって流れてくる街の音に聞き入りながら、母親はじっとたたずんでいた。
「あなた。とうとう、あの子の初陣です」
ぽつりと言った。
「武運を祈ってくださいね」
キツネ様が憑いてる。 あしき わろし @chan-yama
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