キツネ様が憑いてる。
あしき わろし
第1話 高貴な供物として捧げられることは祝福された運命に他ならぬ
息を切らせて走るうち、いつしか周囲は見知った街並みではなくなっていた。暗がりに締め切ったシャッターが軒を並べる風景は、ほとんどゴーストタウンに近い。
かなり走ったので、ブラウスに汗ばんだ肌が透けていた。もっとも、どこをどう走ってきたのかは、よく憶えていなかった。
それどころか、何から逃げているのかさえ漠然として、はっきりしない。ただ、ある感情だけが彼女を突き動かしていた。
恐怖──。
静まり返った路地で、彼女はようやく足をとめ、息を弾ませながら振り向いた。乱れた制服のスカートをなおしながら、油断なく周囲に神経を張りめぐらす。
「どうにか、巻いた──かな」
巻いた? 誰を?
それは得体のしれない《影》だった。
シルエットは大柄な男性だが、どうしても人間とは思えない。人間にしては、まとう雰囲気があまりにも禍々しいのだ。そして漆黒の陰影に隠れた《影》は、間違いなくこちらを見つめている。
それだけではない。
闇のなかで、確かに《影》が笑っていると、彼女の直感は告げていた。
悠々と歩んでいるようで、いつの間にか目の前にたたずんでいる。振り切ったと思っても、逃げた先々で待っている。そして見えない微笑を静かにたたえ、じっとこちらを見下ろしている──。
その都度、彼女は得体のしれない恐怖にかられ、闇雲に走った。
何度となくそれを繰り返し、ようやく視界に不気味な《影》が見えなくなったかと、やや胸をなでおろした、その時──。
「ひっ!」
またしても、彼女は気配を感じて飛びのいた。
どこからどう近づいたのか。
息づかいを感じるほど近くに、闇夜に溶ける《影》の巨躯が、そびえるようにたたずんでいた。
彼女は飛びのきざま、懐から数枚の札を取り出して印を切り、
(こうなったら!)
と、悲壮な決意をかためた。
とても敵う相手とは思えない。しかし、せめて一矢を報いなくては。
「若いからって舐めないでね、これでも神祇院で特級除霊士やってんだから」
ところが──。
その時には、もう漆黒の《影》が視界いっぱいに広がっていた。距離をとろうとして、逆に詰められているのだ。
「くっ!」
「そろそろ遊戯はやめにしたまえ、お嬢さん」
闇のなかで微笑する《影》が、はじめて声を発した。
囁くような声音。しかしそこには人間が発するものとは思えない、地の底から涌くような響きがあった。
もう一矢を報いるどころではない。
恐怖のあまり錯乱して、遮二無二、腕を振り回すことしかできなかった。
「おやおや。淑女たるもの、品性に欠ける振舞いは慎むものだ」
「は、離して!」
「安心したまえ。女性の扱いは心得ている」
片腕で抱き寄せられた彼女は、初めて男の素顔を見た。
「ううっ」
まるで眼底に仄かな光源をもつかのように、双眸が怪しい色を放つと、まるで魅入られたように、視線を離すことができなくなっていた。
吸い込まれそうになる意識を感じながら、しかし、彼女は決死の抵抗に──。
「おや、それはよくない」
すぐに察知した男が、長い指で彼女の顎を押さえつけ、
「なかなか気丈なお嬢さんだが、自らを傷つけようとするのは感心せんね」
と、舌を噛もうとするのを阻止した。
「む、うぐ──」
「誇り高き高潔は賛美されるものだ。しかし高貴な供物として捧げられることも祝福された運命に他ならぬ。そうは思わんかね」
「あ、あんたなんかの思うままになって、たまるもんですか」
「ふむ」
男は一旦、目を瞑った。
「私“ごとき”に身を委ねるのが許せんかね。たかだか生を受けて十数年の小娘が」
再び両眼を見開いたとき、それは先程にもまして妖しく、邪悪な光彩を放っていた。
「六百余年の悠久を生きたこの私に、身を委ねるのが屈辱と? 否、それは栄誉とさえ言うべきものだ──さて、名前を聞かせて貰おうか、お嬢さん」
「い──
まるで魂を抜かれたように、彼女──伊吹まいは抵抗できなくなっていった。力を失った体をぐったりと《影》の腕に預けたまま、目だけはなおも忌まわしい光に魅入られている。
「年齢は?」
「──十七歳」
「所属は?」
「──神祇院」
「詳しく」
「──神社本庁神祇院──た、退魔局──」
意識は朦朧としているのに、公にされていない所属組織の情報まで、問われるがままに答えてしまう。その原因が《影》の両眼にあることに感づいてはいたが、すでに抗うことはできなかった。
「では《七人委員会》について話したまえ。構成メンバーは?」
「総理補佐官の黒田さん、官房副長官補の松方さん、公安調査庁の──」
「そのあたりはいい。君が話すべきなのは《七人目の委員》なのだ。知っているかね」
「し──知りません」
「ふむ。君もか」
それ以上の情報を引き出すことは不可能とみたのか《影》はそこで質問を打ち切った。かわりに双眼の光量をいっそう強めて、かすかに残った伊吹まいの意識を刈り取るべく、再びその顔を近づけたのだった。
「では、あらためて私の眼を覗くがよい。六百余年を見たこの双眼が、そなたの心を深淵まで覗きかえすとき、高貴な供物として捧げられる魂は、それが至上の喜びであると知るだろう」
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