【短編】詩人の竪琴

甲斐ミサキ

【短編】詩人の竪琴

 偉大なる獅子、三千年に及ぶ治世を施したるヴィヴェルニアン・クファンジャルヌ大帝の御許、花冠をかむった一人の紅顔を装う若き詩人がいた。純白のトーガを纏い、広場の真ん中に現われ、金無垢の竪琴を奏でながら詩句を紡いだ。

 わたしの愛するアムネジアよ、これよりあなたに詩を手向けます。

 あなたは黎明にしてわたしの黄昏、わたしの大切な心臓、わたしの夜露、わたしの虹、わたしの歓喜にしてわたしの悲哀、わたしの蘇り、わたしの聖櫃。わたしの快楽、わたしの熱情、わたしの庇護者、わたしの剣にしてわたしの鎖帷子、わたしの讃歌、わたしの天上への梯子、わたしの騎士、わたしの水晶、わたしの夢にしてわたしの慰撫、わたしの腕で眠る猫、わたしの忘却の河、わたしの没薬にしてわたしの薫香、わたしの妖術、わたしの蕃神、わたしの揺籃、わたしの裁き手、わたしの黄金の蜂蜜酒、わたしの荊の冠、わたしの指揮官、わたしの過去、わたしの幾何学の徒、わたしの尖塔、わたしの神殿、わたしの銀の鍵、わたしの破風の窓、わたしの猟犬、わたしの機械、わたしの智慧、わたしの錬金術、わたしの博物館、わたしの食屍鬼、わたしの宇宙、わたしの風切羽根、わたしの導き手、わたしの記憶喪失、わたしの信仰、わたしの臨終。ああ、ああ、わたしの愛おしいアムネジア、わたしの一切をあなたに捧げます。

 地を這う獣、舞い飛ぶ幾多の鳥、色鮮やかなる草木、ごつごつした岩までが恍惚に詩人の奏でる竪琴の音色に聞き惚れ、一切の何もかもが淫らな情欲めいた所作をあからさまに隠そうともせずその全身を詩人にしなだれかけていた。

 その情景を丘陵より眺めていたディノワン族の女どもが叫んだ。「ああごらん、あいつはハルピュイアだよ、あたしたちを侮辱している!」

 彼女らの持ち回りの物といえば、双丘を覆う汚らしくよこしまな毛皮と背に負った籠だけであった。

 彼女たちはあらぬ叫び声を個々に挙げながら駆け下りてくると、詩人に向かって籠の中に入っている熟れていない青く硬い果実を発止と投げつけた。しかし、果実は詩人の奏でる妙なる歌声と竪琴の調べにこうべを垂れるかのように、勢いを弱めて終には届かなかった。一人の女が広場に玉座している酒神の杖を抜き取って、胸を貫けとばかりにやおら投げつけたが、杖には葡萄の葉蔓が幾重にも巻きつけられていて、精々が詩人に軽い掠り傷を付けるに留まった。

 女どもの狂騒はいよいよ留まるところを知らず、徒に騒ぎ立て喚き散らした。

 騒ぎを聞きつけた官吏がやってきて、「お前は人心をいたずらに惑わす妖しげなる術を用いた」と言いおき、詩人を牢に繋ぐべく、広場の騒ぎをようやく収めた。

 かくして詩人は投獄されることになったが、その折、詩人は獄吏に告げる。

「わたしの竪琴は一時もこの身から離さぬよう言いつかっておりますれば」

 詩人はトーガの内より麻袋を取り出し、

「これなる袋より、あなたさまが満足いただけるだけの金子をお取りください。そうして竪琴をわたしにお返しくださいませぬか」目を腫らしそう懇願した。

 クファンジャルヌ大帝の御世、賄賂は一様に磔刑であったため、その旨、獄吏は言い撥ねつけると、麻袋を詩人に抛り返し、竪琴を取り上げた。

「ああ、ああ、このままではわたしは翌朝には冷たく死んでいることでしょう。憐れだとお思いなれば、せめてこの牢屋を石灰で一切塗り固めてしまってはいただけませぬか」

 詩人の言葉に獄吏曰く、「何ものにお前を殺せよう。ディノワン族の女どもが煩い故にお主を牢に繋ぐが、石灰でなくとも吾輩がお主の身を保証する」かかと笑って詩人の前より立ち去ってしまった。

 夕闇が迫る頃より、しくしくと黴臭い牢屋の中から身の程を嘆く詩人の泣き声が絶えぬことはなく、紅い月が天空に上る頃にはいよいよ、耳に馴染まぬ奇妙な、名状しがたい叫び声が轟き、酒で酔いつぶれたり、掏りで足を踏み外した若者や喧嘩沙汰で青痣をつけた投獄者どもの耳を劈き、狭い牢獄において唯一の楽しみである微睡を奪い、反感を買うばかりであった。投獄者の一人、脅えて曰く、夜半に降り注ぐ菫色の光を見んとす。

 あくる朝、獄吏が僅かばかりのパンとミルクを盆に載せ詩人の檻を見やると、

 この世の考えうるべき、ありとあらゆる苦悶に歪んだ表情で頭を抱えながら塩の彫像と化している詩人の姿を見つけた。髪の毛の一本から眼球、そこから垂れる涙滴、爪の先まで全きの塩である。

 獄吏、近づいて触れるがいなや、彫像は脆くも崩れ果ててしまった。中からはまだ幽かに脈打つ心臓が転がりいでたが、それもしばらくすると塩の結晶となってしまった。

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