第7話 果実は結ばれ、林檎乙女は帰還す

 暗くもあり明るくもある場所だった。灰色の闇の中で魔王フィーザは目を覚ます。


「始祖様、御身はいずこにあらせられるか」


 声を放ったか思考したのみか、それさえ曖昧であったが、ともかくも空間に声が拡がった。


「いずこにも。最も愛する我が奴隷よ、もはや汝の居るいずこにも、余は偏在しておるのだ」


 低く、雷が轟くような声が響く。白に輝く靄として彼は視覚に現れる。


「我が君、お聞きいただきたい」

「天界が遣わした小娘のことであろ」

「いかにも。やはり御存知か」

「彼奴らが考えそうなことよ、子供の悪戯には甘いのだ」

 靄が愉快そうに揺らめき、魔王自身は天地もない場所に些か不快感を覚えた。


「それは、天界にとって門を繋げることは児戯にも等しいと言われるか」

「否いな、あれの扱いは存外難しい。思うままには通さない門ゆえ。繋げることはまったく簡単なこと、後は門が通すか否かよ、お分かりか」

 かぶりを振る魔王。振る頭はないが、その意図するところは音より早く伝わるのである。


「ふふ、勉強不足よな。宇宙を隔てる膜のことは話したか」

「並行に存在する世界を渡るには、空間を移動する術ではなく次元を操作する術だというそれか」

「当面はそれでよかろ、そなたの領域においては十分。真に知りたくばその閉じた同一性を手放さねば」


 意味は分からないが、おそらく気が狂わんばかりの何かを要求しているのであろう。魔王の精神はそこまで高尚にはできていない、宇宙など一つもあれば十分だ。


「門は何を通すのか」

「定めし運命よ」

「我が君、願わくば少し会話の程度を落として頂きたく。わたしの理解が追い付かないばかりにテンポが著しく損なわれておるのです」

「おお、我が最も愛する奴隷よ、この程度で音を上げるとは情けない」


 情けなくて結構。思考と表象の垣根も曖昧な此処のこと、制御する術を持たない奴隷は取り繕うこともできず、しようともせず。付き合おうにも魔王の精神はこの状況に最適化されていないために五分も居れば精神崩壊、そして死である。


「何ものであれば門を通り得るのか、天界も知らないということなのか」

「余も知らぬのだから彼奴らも知るまい」

「では門を通るものは何者か試すためか」

「否、偶々であろ。そなたが知らぬだけで門は常に開き得るのだ」

。では何の計らいもなく、偶々開いた異世界への門が偶々年端もいかぬ娘と彼女の林檎を通していると」


 食事。着替え。偶然と言うならそれはもはや門が計らっているのではあるまいか。天界であれ門であれ、何らかの意思の働きが彼の魔界を脅かしている状況に変わりはないのではないだろうか。


「少なくとも、余には、彼女は魔界で為すべき何をかを成すためやってきたとみえる。(余の領域であれば、あれを護る聖者の祝福も気休め程度のまじないだ)天界でも門でもなく彼女の願いによって此処へ辿り着いたのだな」


 馬鹿な、と思うや否や、魔王の視覚に映像が喚び出される。百聞は一見に如かず、それが彼女が辿り着くべき場所であるなら腑に落ちた。彼女の居る場所、その目前に生えたる若木、何の木か魔王も知っていた。魔界においてありふれた木などではない。


 (取り急ぎ御報告申し上げたく、陛下、かの知恵の実、林檎の木の植樹に成功いたしましたのです。褒めて!)


 金髪碧眼短足の悪魔が嬉々として玉座の間で述べたのはつい半年前であっただろうか、「わきまえろ」と近衛兵が窘めるほど跳ね回っていたものだ。魔王はどうも礼節が足りない馬鹿を多目に見てしまうきらいがある。




 マリアはひとり林檎の木に語りかけていた。



「げんきにしてる?」

 木は微かな風を受けて、さらさらと葉ずれの音を立てる。

「ここはたのしい? イイコだね。よかったね」

 微笑を浮かべて話す彼女はどこか大人びて、神秘的ですらあった。五歳の人間とは思えない表情、しかしそれは一瞬のこと。

「またね、バイバイ」




 エリーネ・ド・シェゴール伯爵令嬢の駿足ぶりときたら、水の上を滑るかのようであった。それも木々の立ち並ぶ森の中を、危険な植物も生えていない魔界一安全な森とはいえ驚くほど快適な走りだ。魚臭さが鼻につかなければ側近も完璧と評しただろう。


「歩きやすそうな道を辿っているのですけれど、外れですわね」

「敢えて獣道を歩きたがる年頃だろうな。遠くへは行けないだろう、一旦戻って脇道を」

「お安い御用ですわ」


 こうしてひた走ること数分。幼女は思いの外容易く見つかった。

「何事もなさそうだな」

「わたくしもひと安心ですわ」

 やはり笑顔でてくてくと、森の草木の間を無軌道に歩き回るマリア。側近は背後から彼女を抱え上げた。


「ほうら、ひとりは危ないぞ」

「そうかなあ」

「運が良かったな、小娘。背後から襲ってきたのが弱った吸血鬼で」


 自分がいれば大抵の魔物は御せるだろうと見込んでいたが、変わり者の側近も、魔族の貴種たる驕りがあったのだろう。こと日光の下では吸血鬼の自負など足枷のようなものだ。「遊び場を移すとしよう」いいな、と確認すると頷いて同意を得られた。


「では。わたくしはこの庭園でしばらく散歩でもさせていただこうかしら。我ながら巧くじいやを撒いて来たものですから、もう少しひとりを満喫いたします」

「エリーネ様、助けていただいてばかりで申し訳ない。必ずや恩に報いりましょう。まず手始め、人目につかぬルート取りなんぞ提供できましょう」

「あら、素敵」

 側近は庭園付近攻略ルートを伝え、「御機嫌よう」と令嬢と別れた。連絡先の交換などもした。


「面白い人だったな」

「ひとなの」

「それは確かに微妙な問題だ」


 そして側近は幼女を肩車して小道を歩いた。上に乗るマリアが日傘を持つ。

「どこに行こうか」

「わたしねえ、そろそろかえろうかな」


 帰る。言葉に詰まってしまう、彼女もやはり家に帰りたかったのか、彼女の家に帰せるのか。つい昨日まで適当な場所に送ってしまおうと思っていた側近も、彼女がいるべき場所へ帰したいと思っていたのである。また、これも幼女の持つ魔力なのだろうか、別れがたい。


「もう少し、遊んでから帰ろうか」

「でもエレがまってるよ。ぜったいおこってるよ」

「怒ってないよ」

「そうかなあ」

「それじゃあ、やっぱり、帰らないといけないな」


 側近は苦笑いし、魔王城のどこへ向かおうかと思案を始めた。携帯が震える、バイブ機能、ディスプレイには魔王からの着信。


「はい、ガゼルロッサ」「子守りご苦労。玉座の間へ来い」「マリアを連れていきますか」「無論」


 通話は数秒で終わった。始祖さまから良い方策を授けてもらえたのだろうか、タイミングの良さにやや複雑な心境の側近だった。




 あらゆる魔王城内最短距離を把握していると言っても過言ではない側近ガゼルロッサ、玉座の間となればどこからでも確実に十分以内で到着できる自信がある。宝箱の奥に仕込んでいたスイッチを押すと階段が動く仕掛けにはマリアも大喜びであった。エレベーターを使用してもよい、というかそれが普通なのだが、最上階付近の玉座の間までの各階で乗り降りが発生するとかなりのロスタイムになる。動く階段の上を更に走れば(筋肉痛と引き換えに)より早く辿りつくことができる。お呼びが掛かれば一分一秒でも早く魔王の側へ馳せ参じようというのがガゼルロッサをして側近と呼ばしめるポイントだ。


「魔王さま! ガゼルロッサ・バーントシェンナ参上つかまつりました!」

「相変わらずお前は瞬間移動だな」

 魔王が呆れたように(実際呆れている)労った。


 普段であればおそらく玉座の前に立って待ち構えていたであろう魔王だが、珍しく座り心地の最悪な玉座に申し訳程度の敷物を乗せ深々と腰を下ろしていた。始祖との交感が疲弊させていたのだった。おそらく、腰かけていても尻が痛くなってくるであろう。


「近くに寄れ。始祖様に会ってきたが、天界からの侵攻は考えられないとの御見解であったのだ」

「そのようなものは無いに越したことはありません」

「まったくだ」

 肯んじる魔王。手を擡げてだるそうに頭を抱える。


「果たしてどこまで信用できるか、理解の及ばぬ話も多かった。まったく信じがたいのはそこのマリアが自らの意志で此処へ来たという説だな」

 魔王の金の竜眼が幼女を刺す。マリアはきょとんとしていた。


「でも、迷子でしょう」

「ここのことはしらなかったよ」

「左様、これも恐ろしい祝福が認識を捻じ曲げた類いだと思うが。これ以上は我が身にも術が降りかかるだろうから(何しろ常より疲弊している)敢えて探りたくはないところだ。マリアよ」


 魔王は幼女に問うた。

「探していたものは此処にあったかね」


「うん」


 探しもの、と聞き側近は困惑した。幼女が何か探している素振りはなかったからである。それは一体何物か、と気になって仕様がないが、魔王は返答に満足したようでそれ以上には深く訊ねることはなかった。


「ならば、魔界までやってきた甲斐があったというものだな。我が君の曰く、門は常に開くことができるという。お前の意思ひとつで驚くべき魔法が実現されるのだよ。」

「魔王さま、五歳児に対して難しすぎます」

「玉座に座るうちは、これ以上に言葉を砕くのも難しいものだぞ」


 魔王はキャラ崩壊を恐れていた。「分かります。魔王的イメージを頑なに崩さず、常に君臨する者としての誇り高さと気品を漲らせていらっしゃる魔王さまが俺は好きです」「それは今どうでもよい」側近は魔王への好意を定期的に表明せずにはいられない性分だった。魔王は嘆息し、骨ばった白い手で幼女の金髪を軽く撫でる。


「お前は帰りたいときに帰ることができるはずなのだよ」

「どうすればいいの」

「わたしが今から言うことを信じるかね。わたしの言う通りにすれば帰れると言うならば、信じるかね」

 蜜のように甘い囁き声はさながら、世界の半分をくれてやろうと言う闇の罠であった。力と力による恐怖の支配、そればかりではヒトを堕落させる魔性とは呼べぬ。魔王の腕にかかれば幼女の柔らかな肉など綿のように引きちぎれることであろうが、その腕であやすように丸い頭を撫でていた。魔王とは魅入られるべき闇でなければならない、すでにあられもなく魅入っている側近はうっとりと「そういうところが好き」と言う。


「しんじるよ。フィーザ、おしえて。どうするの」

 端から疑うことを思いもしない、屈託のない調子だ。よし、よしと魔王は微笑み、幼女の手に緋色の結晶を握らせた。小さな掌に納まるほどの大きさで歪だが、焔のように色がちらちらと変わる美しい結晶である。

「これをしっかりと握っておれ。そして扉をくぐるのだよ。どのような扉でも構わぬ、この奥の扉でも一向に構わぬ。きちんと帰りたいと思っているのが大事なのだ、よいか」

「はーい」


 マリアは右手に結晶を握りしめると、玉座の後ろ、魔王の自室へ通じる扉へ向かった。

「マリア、帰るのか」

 側近が駆け寄る。「うん」とマリアは頷いて、

「ガゼル、ありがと。またね」


「うん、またな」

 また、で良いのかは悩むところだったが、それよりも訊きたいことがあった。

「なあ、マリア、探してたのって何のことだ」

「リンゴだよ」

「林檎を? ここで見つけたのか」

「うん!」


 魔界に林檎は自生していないはず、と側近は腑に落ちなかった。(もちろん後でクリネラ・クリムゾン・スプラウトが自慢げに語り彼にも明らかにはなることだが、空中庭園に植わる木々を把握できるほど魔王の側近は暇ではない)


「まおう、ありがと、ばいばーい」


 魔王の玉座に、そして側近に「ばいばい」左手を振り、彼女が扉を開くとクリーム色の光が零れ出た。そのような温かな色彩の光が、眩いばかりに放たれるはずがなかった、魔界であれば。「マジかよ」と思わず側近、日光に目を灼くのは覚悟で扉の向こうを覗き込んだ。見慣れた黒い階段ではない、青々とした緑と空色の空、優しい花の匂いがした。


「やったあ、リンゴ畑だ! ガゼル、またあそぼうね」

 笑顔で言うと、マリアは何の躊躇いもなく扉の奥へ踏み込みそして、扉が閉じた。


 側近がすぐさま扉を開く。見慣れた黒い階段だ。黒い上に暗いのでよく踏み外しそうになる馴染み深い魔王の自室へ続く階段だ。


「驚きました、こともなげにあのような術が実現するなんて」

「わたしもだ」

 玉座に腰かけたまま魔王、

「ああも上手くいくとは。またわが君に借りができた。返す返すも馬鹿馬鹿しい借りばかりなのが悔やまれる」

 心労が絶えない様子だ。


「あの石は何の魔法石でしょう」

「あれはな、ただのソーダ石灰ガラスというものだ」


 魔王は喉からくっくっと笑った。側近が唖然とする。

「ではあれ、ただの資源ゴミではないですか」

「彼女の意思ひとつで帰れると言ったろう。力の使い方が分からぬと言うなら、適当に型をでっち上げればよいと吹き込まれてきたのだよ。詐欺にでも遭ったかのような気分だ」

「それはこちらの科白です、魔王さま」


 そしてやはり恐るべき術者は幼女自身だったのではないか。結局大したことも分からないまま帰してしまった訳であるし、昨晩からのあれこれは徒労でしかないように思えた。側近はまだ手を付けていない仕事を思い出し、どっと疲れを感じた。黒色大理石の石ベンチ(玉座)から動かない魔王の骨じみた顔色を窺って、ガゼルロッサは声をかける。


「ひょっとして今日はもうお休みですか」

「馬鹿を言え、昨晩から碌々執務室の椅子に座っておらぬのだぞ……」

 気持ちは似たようなものであるようだ。しかし、魔鳥ウコケーの羽毛をふんだんに使った執務室の椅子に座ったら最後意識の闇へ墜ちていきそうな魔王である。


 ガゼルロッサは周囲に人影がないのに気がついた。衛兵のひとりもいないのは珍しい。玉座の間の前には常のように見張りの衛兵が居たのだが、広く陰鬱で絢爛な広間には今、魔王と側近のほかには誰もいないらしい。

 これが好機なのではなかろうか、とガゼルロッサは思った。つい先ほどエリーネ嬢に発破をかけられたことを思い出す。タイミングといい、運命があるなら今であろう。玉座の横に立ち、魔王の顔を覗き込むようにして話しかけた。


「魔王さま。俺、魔王さまのこと好きなんですけど」

「ああ、大方そうであろうと思っておったわ」

 皮肉っぽく魔王は答える。(玉座の間に呼んでから三回目の表明であった)


「魔王さまは俺のこと、好きであらせられますかね」


「なに」意表を突かれたようだ。

「お前、そんなことを気にするようになったか」


 そして何と答えたものか、考えあぐねた具合で顎をさする。側近の言う「好き」がどういう性質のものかはさすがに分かっていたが、今までそれについて魔王の考えを求められたこともないし、魔王がどう考えているにせよ彼の志向が曲がるはずもないのだと勝手に思っていた。

 いや、おそらくどう返答したところで簡単に曲がらないのは間違いないだろうが、現状で満足するような男ではなかったということなのである。だからいっそのこと、偽りなく答えてやってもよいだろうと口を開きかけたのだが、真実ガゼルロッサをどう考えているのかを纏める方が都合のいい答えを偽るよりもよほど難しかったのだ。魔王は目を閉じた。この世に半魚半馬の令嬢と吸血鬼の青年しかいなかったとして。


 「答えたくないのでしたら俺もこれ以上は請いませんが、もちろん。畏れ多くももうひとつお尋ねしたいのです。魔王さまは暗に、俺が不敬にもあなた様にある種の劣情を抱いていることを許されてらっしゃる、と理解したいのですが、それはなにゆえでしょう」


「不敬だとは思うておらぬ……親不孝も大概だというくらいだ」

「『孝』だなんて、魔族らしからぬことを。親であることが彼らに何を計らう理由になりましょうか、好きなものは好き、厭なものは厭」

「お前の言うそれが理由だ。お前のそれは魔族の美徳であるから、わたしが許すだのという問題ではない」


「魔王さまも厭なものは厭とおっしゃるべきということになりましょう」

 整理がつかない。厭と言うつもりは毛頭なかった。『一般的にできた部下としてお前のこと好きだけど』と言うのも容易かったが、それはまったく真実ではない。意味のない偽りだ。


「お前を側に置いているのは」と考えを纏めず魔王は話し出した。「お前が特段優れているからではない」

「えええ」側近の身に予想していなかった方面からの衝撃が走った。

「努力しているのは分かるが、卒爾というか手落ちが多いというか、粗忽というか。賢くもあるが魔王の臣下とみれば凡庸の域だし、武芸も吸血鬼並みを越えぬし、吸血鬼並みで訳の分からぬ弱みが多すぎるし、優遇することが政治的に有利な訳でもない。」


 ダンテの神曲では、地獄の第七圏第三の環は神と自然に対する暴力をふるった者が責苦を受けている。すなわち神および自然のわざを蔑んだ男色者には火の雨がふりかかるという。(当時のキリスト教では罪であると考えられていたが、今や不当な扱いに他ならないと強調しておく)その古い地獄の様相が端的に再現されていた。ちなみに吸血鬼の訳の分からぬ弱みの中には、炎に弱いというものがある。大概の生き物は炎に弱いのだから、ある意味では強さを示すようでもあるがどうでもよい弱点である。


「お前は此処でなんの成果も挙げられずとも構わない捨て駒としてやってきたのだ。一族から顧みられることはなかろう。わたしはお前の一族を大勢焼き殺した、不死者の一族を真の意味で死なせたのだ。一族の悲しみ、憎しみは深かろう。吸血鬼たちはすぐに新たな家族を迎え、新たな血族たちに怒りを伝え、復讐の牙を剥きだしにしている、それなのにお前ときたら。親も血も関係ないときた。惨忍で強かな者が黒い玉座の主となるのは当然だとのたまって、吸血鬼の牙が魔王を逐うより先に玉座が王を選ぶだろうと生意気な口を利いて軟禁されていた馬鹿な餓鬼。知ったのは偶然に過ぎぬし、拾ってやったのも気まぐれに過ぎぬが、強いて言えばバガルバドス・スカーレットが顔を真っ赤にして『このアホウめをお心にかけていただけるなど身に余る喜び』とか言っていたのが愉快であったな」

「それは俺も愉快でした。五年も棺桶に詰まっていた甲斐がありましたね」


 ふはは、と魔王は朗らかに笑い、側近も牙を見せて笑った。楽しい思い出である。


「それゆえ最初から期待などしていなかったが、そして実際お前は期待に応えるというほどでもなかったが」「さっきからフォローが入る気配もないのですが、魔王さまひょっとして俺のいいところ思いつかないのでは」「それは口に出さない方が良かったぞ」「ぐわあ」


 側近は悶絶した。


「それだというのにお前を側近と呼んで憚らぬのは、お前が、この黒い石の腰掛けではなく白竜フィーザに忠誠を誓っているのがひとつと」

 玉座にその気があるならば、ふたりとも嬲り殺しであろう。


「もうひとつは、隣りに立っているのがお前でなければ、退屈なうえこんな椅子には座っておれんわ」


 魔王は硬い玉座に座りなおした。ようやく好意的な言葉を賜った側近は安堵し手で覆っていた顔を上げる。

「それは好きということでよろしいのでしょうか」

「そう、最初の質問に答えてやろう。好いておるが、お前が知りたいのはそういう漠然としたことではあるまい」


 魔王がちらと側近の目を見る。答えによっては最後の審判並みの騒ぎであろう。魔王は、この漠然の先を今まで考えたことがなかった。目を閉じて、世界にアホウの吸血鬼しかいなかったら、や。


「で。これまでお前に劣情を感じたことははっきり言ってない。欠片もない。お前に限らず男全般にない。女にしても竜のほかに番う意味がないと思っておったのだぞ、男なんぞ端から考えもせぬ」

「でしょうね」

「そして今は別に子孫を殖やす気もない」

 そして側近は知る由もないが、魔王には番うのは子孫を殖やす為だろと思っていた頃に生した子が既にいるが、必要がないので言わなかった。余談である。


「考えたこともないから分からんのだ」

「はい?」

 や、が。魔王は尊大に気怠そうな顔を崩さず、


「おいでガゼル。接吻を許可する」


 側近は一秒間に十回瞬いた。

「はよう来ぬか」しかも眉間に皺を寄せられる。ガゼルロッサは慌てて玉座の前に、魔王の前に立つと、今更ながら躊躇われて、心の準備も不足していたために跪いて魔王の手をとりその甲に口吻けた。


「ばかもの、まぬけ、口だろうが」

「こんな怒られ方されるなんて夢にも思わなかった」


 魔王は身を起こして跪く側近に顔を寄せる。後は側近が顔を少し持ち上げるだけだった。煩いほどに心臓が早鐘を打っており、準備と言う準備が全くできていないけれども、ここはまだ通過点だった。ガゼルロッサは白い唇に自らの蒼白いそれを押しあてた。感触を味わうどころの話ではない。それで離れるつもりだった唇に、ざらついた舌が割り込まれた。驚いて結局顔を離したのであるが、


「初心か。話にならないぞ」


 魔王に鼻で笑われた。ガゼルロッサは吸血鬼らしい矜持を持ち直した。


「そんなに言うのでしたら、仕切り直しでやらせていただけるんでしょうね」

「まったく生意気な餓鬼め」


 魔王は答える。

だな」

 願ってもない最上の返答だった。けれども、ここはまだ通過点だった。天鵞絨の紅い舌さえも我がものに。まだ満足してよい訳がない。側近はやおらに立ち上がって、魔王の顎をとり上向けた。


「魔王さま、舌を入れるならばお気をつけあれ。噛み切り血を啜りとうなってしまいますゆえ」


 気取って言うと、吸血鬼流に噛み付くような口吻けを食らわせた。


 かくして側近はキスを許され、幼女は家に帰りついた。すべては始まりに過ぎないが、しばし幕を下ろすとしよう。

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天使どもの林檎墜つ 紫魚 @murasakisakanatsuki

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