第6話 他人の恋路を邪魔する奴は半魚半馬に蹴られて死んでしまう
食堂から屋上庭園へ向かうだけでもそれなりに長い道程だ。魔王城は迷宮としての完成度が高く、政治拠点施設としては面倒な造り、四代の魔王たちが増築に増築を重ね、余計に事態は混沌を極めている。魔界なので混沌は良いことである。そしてガゼルロッサは、彼の部屋を見れば分かる通り混沌が嫌いだった。混沌より整頓といったところだ。
彼は魔王城内での効率的な移動に努めることで、この現状に彼なりの整理をつけている。食堂から東側空中庭園までの最短ルートも『CrI』を呼び出すまでもない。ポイントは隠し通路の先にある宝物庫、ここの窓から五階のベランダに落ちることができ、ベランダから8階への転移魔法陣が設置されている骸骨兵詰所に入ることができる。「八番隊長殿、調子はどうだ」「カタカタカタ」「それは重畳。引き続きがんばってくれ、では」骸骨の言葉はよく分からないが雰囲気で。
側近のルート取りはかように特殊な道程であったので、幼女ときたら隠し通路の石壁が動けばはしゃぎ、隠し宝物庫の宝箱を開け、窓から落ちれば(言うまでもなく側近が抱えている)喜び、骸骨兵に「こんにちは!」という調子。楽しそうで何よりである。
「飛ぶのが一等早いんだが」
側近も飛べはしたが、吸血鬼の秘術、蝙蝠変化は何でもない移動に気安く使えるものではない。特に最近は良質な血を摂れていないのもあって不要な術の使用は避けている。
「魔王さまの血ぺろぺろしたい」
「『ち』をぺろぺろするの?おいしいの?」
五歳児は余計なことにも突っ込みを入れてしまいがちだ。
「俺には美味しい。と思うんだが、実際のところ魔王さまの血なんて吸わせてもらえる訳がない。すっごい濃ゆそう、飲んだら死ぬかも」
それで死ぬなら喜んでと言うのがガゼルロッサであった。
「ガゼルは『ち』がすきなんだ、へんなの。わたしはね、リンゴがすき」
「知ってる」
最後は梯子を昇れば、魔界には本来在り得ぬ強烈で温かな光差し込む緑の庭園があった。
吸血鬼は日光に弱い。広く人口に膾炙された弱点ではあるが、疑似太陽に灼かれた吸血鬼ガゼルロッサは「あちぃ」と呟いて顔を顰めるのみであった。『不死者の王』吸血鬼に致命的な弱点などあってないようなもの、日傘をさっと取り出して凶悪な日差しを無効化した。魔王の側近たる者、準備は怠らない。
幼女は「おおー」と感嘆し、「たんけんたーい」と駆け出す。「あ、おい、危ないぞ!」出遅れた側近、日傘を差しながら走る分ロスタイムが生じてしまったのだ。木々が茂る方へ、木漏れ日の中へ消えていこうとする幼女、蠢く木陰、近付く木々。
「待て、トレントだ!」
マリアは不思議そうに立ち止まるが一足遅く、彼女の目の前には灰色の木が、その枝からなる腕を伸ばしていた。
「人間――の子供――か? 何故に――」
「そこなトレント! 手出しは無用、その人間は魔王の命で俺が預かっている!」
「――聞こえぬ」
ガゼルロッサは舌打ちした。血も涙もない一般的な飢えた魔族のトレントである。力に訴えるのが早いが、疑似であれ日光の下では吸血鬼の身体能力は著しく低下する。もうすぐにトレントの枝はマリアの身体を絡め取ってしまうだろう、誰をも無傷でその場を収める自信はない。
いつもスマートにやれるものなら苦労はないか――ガゼルロッサが血の剣を取り出したときだった。一陣の疾風のように颯爽とその陰は現れ、瞬く間もなく幼女をトレントの腕から取り上げるとガゼルロッサの目前に彼女をそっと降ろしたのである。あまりの早さに何者かを把握することもできなかった側近、ひとまず馬上の人物に礼をせねばと顔を上げて凍りついた。
救い主はドレスを身に纏った半魚半馬の令嬢だったのである。
人魚を象った噴水がある広場はよく手入れがされており、ピクシーなどの小さな妖魔たちが暢気に戯れている。魔族の多くは暗がりを好むために、力の弱い者はこの東側空中庭園を好む傾向にあった。ここも魔王の城であるからには、木を茂らせた深くの方では気性の荒いトレントが棲みつきもしていたが、彼らもあまり動くことが得意ではなく近づきさえしなければ『安全』な場所と言えるだろう。
マリアはピクシーに髪を引っ張られたり頬を突かれたりして遊ばれている。礼もそこそこに先の森の中から逃げ出し、この噴水広場でようやく一息ついたガゼルロッサは改めて半魚半馬の令嬢に声をかけた。この魔界にあっても一際異彩を放つこの御令嬢、間違いなく昨日の舞踏会にいた招待客である。寡聞にして名は知らないが、相応に高い身分であるはずだ。
「先ほどは危ないところお助けいただき、感謝いたします。私は魔王の臣下ガゼルロッサ・バーントシェンナ」
令嬢はその胸鰭で自らの携帯を操作し(手に相当するようである)、翻訳魔法を起動させた。
「いいえ、構わなくてよ。わたくしはシェゴール石灰海伯が次女エリーネ・ド・シェゴール」
シェゴール伯爵令嬢はその頭部の魚顔を一切動かすことなく、鈴のような声で応じた。彼女の目は真横に付いているために、側近はどこを見て返事をすべきか迷ったが、とりあえず頭部を漠然と眺めながら「レディ・シェゴール、賓客である貴女に助けられたとあっては礼をせぬ訳にはいきませぬ」
「あら、そうですの」と令嬢は小首を傾げるような仕草をし、
「では、わたくしのお話を聞いてくださるかしら。少々退屈していたところですのよ……わたくしのことはエリーネと呼んで」
「エリーネ様、それでは礼にもなりませんよ、勿論喜んでお聞きします」
ピクシーたちはマリアのいい遊び相手をしてくれているようだ。側近は横目で彼女の様子を確認すると、エリーネの貴族令嬢らしい願いを聞き入れることにした。多少生臭いがこの程度で済むなら安いものだ。
「ガゼルロッサ様、貴方様も昨日の宴にいらしておりましたわね。魔王様のお側についてらした」
「はい、エリーネ様にはご挨拶せぬまま中座を、大変失礼をいたしました」
「よくってよ、実はわたくし、社交界にはあまり興味が持てないものだから。叔父になるオンゾル伯が熱心に魔王様にわたくしを紹介して――わたくしもさすがに逃げ出したいと思ってしまいました」
ホホホ、と上品に笑う。魔王も同じ気持ちであったことだろうと、側近も微笑み返した。
「そうですわ、ねぇ、魔王様にはあまり本気にされないようにお話しいただけないかしら。それをお願いにしますわ。叔父の手前言い出せなかったのだけれど、わたくし、その、将来を誓いあった方がいるものだから」
側近は心配ないとかぶりを振った。
「魔王さまは同じ竜種の方でなければ后に迎えるつもりはないと言っておられた。愛人を囲っているということも――ないようだし、相手のある若いご婦人に執着するような方ではありませぬ。ですがそれとなくお耳に入れるようにいたしましょう」
「ありがとう、安心しましたわ。とはいえわたくしの恋路も道ならぬ道、身分違いと種族違いの困難な道」
長い話になりそうだな、とガゼルロッサは思った。
「シェゴール伯爵もご存知ないのですね」
「そうですの。わたくしの相手というのは一介の半魚人の庭師に過ぎません。名をアンドリュースというのですけれど」
「半魚人、上が人で下が魚の半魚人ですか」
「おっしゃる通り」
上が魚で下が馬の令嬢が言った。
「種族が違うといっても、魔王さまよりも似合いのように思います」何しろ半分は同じだ。
「ええ、それでも彼は庭師でわたくしは伯爵令嬢」
エリーネは儚げに微笑んだ、ような雰囲気を放った。
「アンドリュースはとても優しくて、真っ直ぐな心根の青年なのです。でもそれだけではお父様がお許しになるはずもなくて」
「それでも諦めるわけにはいかないのですね」
「そうよ。本当に愛し合っているのですから、諦めるなんて選択肢はありえませんのよ」
魔族令嬢らしく堂々とエリーネは言い切る。
「アンドリュースは遠くの海にふたりで逃げようと。逃げるのは好きではありません、でも、手段を選んでいては……後悔しては遅いのです。わたくしはやり通すつもりでいますの。貴方、聞かせてしまいましたが、邪魔立てはしないでね」
「勿論です」邪魔立てするメリットもない。
「貴方、どう」
「ええと、何か」
エリーネは悪戯っぽい目っぽい感じでガゼルロッサを見つめた。
「恋とかされてるかしら」
「ええと、さあ、どうでしょう」
「魔王の側近殿、ガゼルロッサ様、ときたら。魔王様のご寵愛厚くいらっしゃるとか」
「えええ……」
己の名前がまさか東の果ての海辺を領地とするシェゴール伯爵の御令嬢にまでそんな意味で知られていたとは。
「その辺りは、その、魔王さまの名誉にかけて申しますが、そういうタイプの寵愛は頂いておりません」
「まあ。片想いでいらっしゃるの」
「そうです……」
何を言わされているのやら。
「おっしゃる通り魔王さまに恋慕の情も抱いておりますけれども、否定はいたしませんけれども」
「確かめられたことはなくって?」
「確かめられるまでもないというか、魔王さまは竜種の女性以外は娶るつもりはないということですから」
「娶られるつもりでしたの」
「娶れると思うの」
「殿方同士で娶るも娶られるもないですわよ」
正論には違いないが、この話題を振った当魚(馬)の言うことではなかった。
「俺は種族も違えば女でもなく、魔王さまもそういう事に興味を示されたことはありません。良いのです。心からお慕い申し上げていることが伝われば、それで能力を認めてお側においてくださるのですから、それで十分に報われているというものではないでしょうか」
「でも、それでは貴方、寂しいではありませんか」
そんなことはない。だって相手は魔王なのだ。我が一族あらかた焼き払ったという恐ろしく強大な魔王。この城に吸血鬼は自分のほかになく、故郷では散々仇敵と教え込まれてきた。それにも関わらずその頃からずっと、焦がれてきた。初めて出逢った彼は巨大な竜の姿で、白い鱗はぎらぎらと光を照り返し無数の白刃を纏っているかのよう、丸い瞳は爛々とふたつの月が輝き、口元からは紅い焔が零れだしていた。思った通りに力強く、思った以上に美しかった。「吸血鬼の子か」「ガゼルロッサ・バーントシェンナと申します」「ガゼルロッサ。貴様の父も強かな男であったな……存分に楽しませるがよいぞ」裂けたような大きな口から紅い天鵞絨の舌が覗いた、笑ったのである。その笑顔を見たとき、憧れが急速に手元に近づく予感がした。あの方の焔を間近く感じることができる、あの方の鱗を撫で上げることができる、あの深紅の舌さえいつか我がものにできよう。
「そんなことはありません」
相手は魔王なのだ。側近と呼ばれるまでにどれほど苦労したと、このお嬢さんは思われているのか。
「寂しいなんてそんなこと。ひどい屈辱、生殺しなのですよ。触れたいものが傍にあるというのに、手に入れたいものが手の届くうちにあるというのに、しかし今は、触れる夢が見られるのです。吸血鬼領では焼き滅ぼされるときに出逢うばかりと思っていた方と言葉を交わしている。毎日が触っては砕けそうな幻のように危うい日々なのです」
「ガゼルロッサ様。砕けてしまってからでは遅くってよ。今は夢幻ではないのですわよ、貴方が夢を夢のままになさっている、そうでなくて」
ガゼルロッサははっとエリーネの顔を見上げた。目が真横を向いた正面からは捉えどころのない顔、誇らしく伸びた背筋。毅然とした居住まいにガゼルロッサも姿勢を正す。
「エリーネ様」
「何か」
「貴女様御自身の恋路の果ては何と考えられる」
「この身の破滅、大方そのようなところですわね」
魚眼は恐ろしいほどに何の色も映さない。
「幸福な未来も信じております。ただ、万事上手く行くものではないと、弁えているつもりですわ。そのときも後悔はきっといたしません。アンドリュースを諦めれば、きっと死ぬよりつらいはず」
「エリーネ様。ガゼルロッサめも貴女様の幸福な未来を信じます。悲劇の恋は似合いませんよ」
ガゼルロッサはエリーネの胸鰭を手に取り、
「互いの幸福を祈りましょう、貴女様のお陰で臆病風に吹かれていたことに気が付きました。もう一度感謝を申し上げます」
エリーネはにこりと笑ったような気がする表情を浮かべた。
「よい心がけですわ。貴方の幸福も始祖様にお祈りします」
思いがけず誓ってしまったもの、とガゼルロッサも笑った。「はは、ではそろそろ、マリア、は」見渡すが広場には幼女の姿が見えない。
「しまった……おいピクシー、マリアはどこだ」
あっち、とピクシーたちは木の茂る中へ続く小道を指差す。
「懲りないやつ、くそ、急いで見つけないとまたトレントだかドリアードだかに襲われる」
「ガゼルロッサ様、よろしければわたくしにお乗りになって」
エリーネが申し出る。
「どうせ暇をしておりますのよ。わたくしもお話に夢中になってしまいましたもの、遠慮なさらないで」
「何と礼を言ったものか、かたじけない。お言葉甘えさせていただきましょう」
失礼、とガゼルロッサが跨る、何となく生臭い匂いが強く感じられた。
「ではしっかりとお掴まりあれ」
ガゼルロッサは悩んだ末腰に腕を回すと、御令嬢は風を切るように駆け出した。
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