第5話 上へ下へ
確かに類型の無い問題だろう。妖魔の大人が人間の女児(五歳)と遊ぶ。彼女は要注意人物だが、具体的に何を注意すればよいのか分からない。幼女のお守りに任ぜられた妖魔としては一体何をすべきなのか、その妖魔、魔王の側近ガゼルロッサはもちろん、任じた魔王本人さえ判然としていなかったのである。いくらマリアが聖なる何者かから絶大なる加護を受けていたとて、まさか煮えたぎる溶岩の水路や鉄の棘が生えた床の階層で遊ばせるわけにはいかないが、彼女を「泳がせる」という目的がある以上は自由に行動してもらわないと困る。
だが側近がまず行ったのは、食堂へ向かい幼女に栄養バランスの良い食事をさせることであった。
広々とした食堂の壁一面には大きな窓が配され、極々僅かな陽光を取り込んではいたがどうにも仄暗かった。規則的に並べられた円卓には妖魔が疎らに座り、己の食卓の上に自ら明かりを灯している者が多い。節電である。まるで暗い舞台の上にスポットライトが当たったかのように、皿の上の料理が照らされ暗がりに浮き上がる。極彩色の鳥が丸ごと蒸された大皿、灰色の汁の中に身を横たえる青色の魚、見るからに生肉……一番多いのは赤色の蛇煮込み料理と根菜サラダのセット、今日の日替わりだ。
「単純に、カロリーが必要だ。糖質とタンパク質は摂らせねば。昨晩から林檎しか摂っていないのだから、消化に良いものでないと。そして魔族特有の個性的な食材と味付けも避けなければ腹を壊す、ごくごく単純で基本的で無難で人間風がベスト」
淡々と注文をつける側近に料理鬼は渋い顔をしたが、普段から渋い顔なのでなかなか気づかれない。多種多様の魔族が棲む魔王城であるため、どんな時間、どんな注文であれ一応は聞く。その通り提供できるかはまた別だが、幸い料理鬼たちは人間用の料理も心得ていた。王国の姫を攫ってみたり、戯れに勇者一行をもてなしてみたり、頻繁に起こるイベントではないがいつ何時でも求めに応じる用意はある。
「パン粥はどうだ」
魔界の土地で育った小麦や魔界のイースト菌、魔界の牛から採られた牛乳、それらは人間の体に害を為さないものかは甚だ疑問ではあるが、それを言っては始まらない。とにかく強力に守られた幼女が食べるには最適解のように側近にも思えた。一つだけ確認はしておく、
「『牛』の乳だろうな」
「比喩でなく、誓って魔ルスタイン種の牛の乳だ」
牛ではない乳、人間界なら山羊の乳もよく利用されているだろうが、魔界では実に様々な生物の乳が飲用されており、時には白いだけで乳ではないこともある。魔ルスタインとはいえ何とか牛の乳であればさほど問題はあるまい。無愛想な料理鬼だが提案はプロ、と側近は感心する。――乳か、魔王さまの髪も流れる乳酪を思わせる白色で、星の河が煌めく色の白で、陰性を帯びた不気味で柔らかで恐ろしいけれども慕わしい地母神めいた髪なのである。そして良いシャンプーを使われているのですこぶる麗しい薫りがし、それと魔王さまの頭皮の、枕カバーの、芳しい。
「地母神なんて言ったら多方面に不謹慎かうふふ」
「おらよ、鬼肌程度に冷ましてやったが熱いかもしれん、気をつけろよ」
鬼であるにも関わらず何と細やかな配慮だろうか。その優しい見た目、香り、間違いなく人間の食べられそうなパン粥。潰したバナナ(比喩ではない)が甘味を加える隠し味。完璧だ。プラスチック容器に注がれている点まで含めて完璧な仕事だ。
「あっしはただの料理鬼、料理を鬼の如く作るのみ」
「素晴らしい、正に魔王の料理鬼に相応しい……」
「いただきまーす」
マリアは自らプラスチックの匙でひと掬いし、ふう、と息を吹きかけ軽く冷ましてから口に運ぶ。ほとんど息は出ておらず「ふう」と言っただけになっているのはご愛嬌だ。
「はふ」
やはり少し熱かったのかもしれない。幼女は口を開けたまま、しばらく深呼吸。やがて満面の笑みで、
「おいしい!」
料理鬼は満足げに頷いた。
「側近殿は何か食わんのかね」
「ミックスフライ定食、ライス大盛り」
暴食もまた魔のものの嗜み。徹夜明けの一食目であろうとも、揚げ物と炭水化物が食べたくなるのは仕方のないガゼルロッサの個性であった。「吸血鬼だから血液っておかしい。あれは飲み物だろ。腹に溜まらない」基礎代謝が落ちてからが問題だ。
幼女が皿の中をゆっくりと空にし、側近もミックスフライ定食ライス大盛りを十分で食べ終われば話は振り出し、幼女を魔王の城で自由にしかし決して危険に晒さずなるべく健全に好奇心のまま遊ばせる方法はまだない。
「では魔王さまに倣って遊ばせてやることにするか」
「どういうこと」
「好きなところに行っていいってこと」
思考努力の放棄であった。
「なにがあるの」
当然そうなるだろう、側近は水晶製の小型端末――Crystal Interface搭載最新モデル――を懐から取り出し食卓の上に置くと、「クリ、地図出して」と呪文を唱える。端末からの光が卓上に立体映像の地図を映し出した。事前に魔力を充填していれば簡易な操作で遠隔会話や記録保存・再現といった魔法が使える携帯型魔法補助水晶通称携帯、人間が小型機械を使い『電話』しているのを見て「あれいいな」ということで真似をして作られた。魔法を扱えない者も利用できるとあって瞬く間に魔界中に広まり、今日びでは重たい水晶球で遠隔会話を行うことも少なくなった。高度に発達した魔法は科学と見分けがつかない。
「すごーい、かっこいーい」
「今いる食堂が、ここ」
指差すと色を変えて場所が示された。
「これが、書庫。これは武器庫、あ、隠し宝物庫。この辺りは研究室。後はまあ、動く石像製作所とか動く鎧大回廊とか、これは名物癒しの泉風の毒沼罠」
指差して説明しながら「やっぱ五歳児向けじゃねえな」と呟く側近。幼女は相変わらず楽しげな様子で、「ここは」と一際広い区画を指差す。
「お、空中庭園」
またの名を屋上緑化、夏場はビアガーデンになる憩いの迷宮だ。
「花とか噴水とか普通に小綺麗だからいいかもしれない、東側庭園は」
西側庭園は酸の噴水とか鋼鉄の茨とかで趣きが全く異なる。参考までに。
「くうちゅうていえん」
「屋上に木を植えて庭を作ってるんだ、疑似太陽壱号が設置されてて人間界を模した研究実験場でもある。多分、魔王城で最も人間向きな空間」
「おにわなんだ、なにがあるの? マリアね、バラのおにわはいっぱいいったことあるし、ユリのおにわもあるし、はすのおにわもあるよ。はすのはっぱにのってカエルくんとがまくんとおしゃべりしたよ」
「かたつむりくんも居たんだろ」
「へー、よくしってるねえ」
魔王の庭にはドリアードやトレントが彷徨いているが、側近がついていれば心配ないだろう。
「行ってみようか」
「うん」
側近と幼女が屋上へ向かう一方、魔王は堕天使アルメニを伴って地下へと螺旋階段を降りていた。始祖、初代魔王との交信が行える祭壇へ繋がっている。
「何故お前を連れてきているか分かるか」
「さあ、あんまり階段が長過ぎて退屈だからですかね」
魔王は鷹揚に笑い、
「それもだな、だが肝要なのはまだ先、祭壇に着いてからよ」
石組みの階段の先は暗く闇に沈み、先が全く見えない。先導する魔法の炎が数歩先を照らす。
「中には我ひとりしか入れぬが、ひとりであれば入り口に控えさせるのを許されている。何事かあれば引き返し貴族院に報告せよ」
「私はそんなに信用されていますか」
「こうしてふたりでも、お前は妙な気は起こさないであろう。まだ時は満ちておらぬから」
「左様にございます。こんな他愛もないことで御身に大事があっては困りますわ」
唇を尖らせ眉根を寄せる堕天使、わざとらしい仕草に魔王も鼻で笑って返す。
「私でなければガゼルロッサでしたか」
「左様」
「若い者ばかり側に置くのは何故。陛下が魔王の座を得るより前からお仕えしている忠臣もいるではありませんか、あたしの師匠とか」
忠臣と呼ぶには躊躇われる男なのだが、何しろ弟子が魔王の首を狙って憚らない娘である。
「あれはもう引退したとか言って聞かんのだよ。確かに頼りにはなるが」
どこの隠居老人が戯れにホムンクルスの一個師団を作って「そういえば貴様の即位百五十年だから記念にやる」などと言い出すか。「いきなりそんなもんはいらん」と丁重に断ったはずだが、何だかんだで使ってしまっている。ちなみに全員女性型なのが特にありがた迷惑。
「竜の寿命は長いものでな。まだしばらくはあの座り心地の悪い玉座を降りる気はなし、お前の師匠がくたばった後も魔法馬鹿が居なくては困るのだ」
堕天使は少しだけ尋ねたことを後悔した。
「ところでガゼルロッサの奴はどういう役回りで」
「今のところは只の馬鹿だ」
枕の件はまだ尾を引いている。
「何を見込んでアホロッサくんを重用してるのかってところ、いたく気になっておりますわ。吸血鬼一族のコネですか?それとも懇ろですかしら?」
「あまり調子に乗るな」
強い調子ではなかったが、逆らいがたい語気にアルメニは押し黙った。魔王と会話をして何ら気後れしない方が難しい。
アルメニはいつもの『魔王切り崩し作戦』を考えることにした。まず押さえるべきは吸血鬼スカーレット家当主。吸血鬼どもは王位簒奪者の即位を全く認めようとせず二十年ちょっとばかりゴネにゴネて結局『実力行使』で白竜が押し切った。勝因と敗因、吸血鬼は一族意識が高過ぎて、他種族は取り入って便宜を図ってもらえる可能性がある新魔王(希少竜種)に乗ることにした、つまり前魔王の首を獲った時点で確実に流れは来ていたということ。どう足掻いても希少竜種だけでポストは埋まらないしね。それで最近落ち目の吸血鬼、と言っても貴族院の席は据え置きで分家の三男坊が魔王の側近なのだから魔界における存在感は十分だろう。魔王に反乱するならこいつらしかいない。ガゼルロッサにもう少し上昇志向があれば、というか変な趣味がなければいい手駒にできたものを、側近間バランスの取り方がアクロバティックに過ぎる。もう一つ行けそうなのは森狼、荒れ地狼との勢力争いに敗れて随分弱まっているけれど。いやいや狼なんてまだ良い方、魔女谷は大魔女ワシリーサが隠れてから統率がとれなくなり、貴族院の席を火種に不穏な空気が燻っている……
アルメニは危うく転ぶところであった。底に着いたのである。彼女の予想に反し、つるりとした滑らかで黒い石材で覆われた空間は空調も良好なようである。
「祭壇というから原始的な感じだと思ってました」
「インターフェイスに空間の制限があるところは原始的な趣を感じないか」
「いいえ、懐古趣味なら徹底してほしいですね」
とはいえ神の反逆第一人者がつまらぬ物質界のしがらみに囚われている訳もなく、ただ単に何時でも何処でもコンタクトをとってやるほど暇ではないという当たり前の話である。
「魔王様、入り口というかここが行き止まりのようなのですが、私はどちらに居ればよろしいのでしょうか」
「床に魔法陣が刻まれているだろう、陣の外へ出ていろ。陣を動かせば我は精神界に引き上げられるから、五分経っても意識の方が戻らないようであったら上に戻れ」
「五分も仮死してる魔王様を見たら寝首を掻いてしまいそう」
しかし魔王を斃した者が魔王になれるとも限らない、むしろ現状だと大戦国時代の幕開けでしかないために、アルメニは己が態勢を整えるまでもう少し四代魔王には頑張ってもらいたかった。アルメニは存外巨大な魔法陣の終わりを探し(結局のところ降りてきた階段の際まで陣は広がっていた)、階段の適当な段に腰を下ろした。
魔王は陣の上で地に伏せた、意識が飛ぶので立ったままでは危ないのだ。魔法陣は複雑な呪文の詠唱を必要としない。緻密に魔法が構成された巨大魔法陣であるこのマインド・エミュレート・プログラム・メイン・ポーターは起動に大量の魔力を流す必要のあるほかは蛙がひしゃげた様な音が発音できれば簡単に演算を始め、刻み文字に紅い光を走らせ存在が上位世界に招かれたことを知らせる。
ようこそマインド・エミュレート・プログラムへ。
「魔王様丸くなって寝るタイプなんだ」
ガゼルロッサが喜びそうな情報を手に入れたアルメニであった。
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