第4話 清貧なる聖布聖餐

「こんなにも穏やかだと?」カードで誤魔化していた眠気は吹き飛んだ。「この魔王城でこんなにも静かに魔法が行われていたなどと、笑わせてくれる」そして頬は引き攣っていた。これは脅威だ。


「阻止すべきだろうか」

「いやネベロ、アルメニの結界を易々無視をして行われる魔法に、不良悪魔が太刀打ちできると思うな」

「しかし何もしないというのは」

「ではとりあえず寝こけている馬鹿野郎を起こしてくれ」

 寝こけている馬鹿野郎クリネラ・クリムゾン・スプラウトは寝入って五分で起こされた。

「ほお、これはこれは」

 起きるなりクリネラは言い放つ

「勇者軍の侵攻かね」

「やめろ馬鹿。……何か、出る」


 ガゼルロッサは血色の短剣を構え、ネベロは固唾を飲み、クリネラは「何が出るかな」と歌った。転移魔法は純白の布を吐き出すと例によって静かに消え去ったのである。臆せずクリネラが異界より来る布をつまみ上げる。


「パンツだこれ」


「パンツか」「何だパンツか」ほぼ間違いなく幼女用の純白のパンツと肌着のセットだと分かると、ガゼルロッサはカードを配り始めた。


「意味が分かんねえよ!」

「おいおい、マリアちゃんが起きちゃうだろ」

「構うかよ!」


 良いノリツッコミだったね、と短足。

「なぜ危険を冒してまで幼女の着替えを転送する、何の意図があるのだ、これは」

「幼女に快適に過ごしてほしいから」「危険を冒しているつもりがないから」ネベロの回答はガゼルロッサの答えでもあった。「強大な力に弄ばれている」呟く顔はベルゼブブ御大が中年男性を噛み潰したようだ。


「きっと朝までには朝食の林檎が降ってくる。その前に、アルメニを今から叩き起こす」

「寝ているアルメニ殿を起こすだと」「無茶はよせガゼルロッサ」悪魔たちの制止も聞かずガゼルロッサは部屋を飛び出した。悪魔たちのここ百年ほどの伝統でそれは自殺を意味したのだ。




 魔王には枕が変わるとなかなか寝付けないというナイーブな一面もあった。微睡みの中では思考も冴えない。侵入者マリアの件を反芻していたが、記憶に何らかの不備がある。(歳か、認めたくはないものだが)遙か千年昔の記憶は鮮やかであるのに、ほんの数時間前はこうも朧気なものか。流石に魔王でも自嘲する。


 否、である。魔王は覚醒していた。もはや眠るどころではない。この靄がかった己の記憶こそ魔法の痕跡、記憶の改変――直感だったが確信していた。けして歳を認めたくない訳ではない。

 しかし、魔王に気付かれず魔王に魔法をかける、魔法において魔王よりも高位の何者かがいる、という事象を是とするのもまた認めがたい。魔王より高位の存在は勿論いるが、それは地の奥にお隠れになっている古の魔神であるとか、天の上にある仇敵、天使たちや神……。


「それだ」


 魔王は何を忘れていたか思い出し、長衣を羽織った。――丁度その時だった、西の塔から威勢のいい爆発音が轟いたのは。




 勿論、アルメニ・アートス・ウルティナスの火炎の魔法がガゼルロッサ向けて炸裂した音である。幸いにもガゼルロッサはこの特大の火球を避けることができた、伊達に魔王の側近はやっていない。


「何時だと思ってんの」

「急を要する」


 睨み合いが続いた。

 アルメニは火球を放ち、ガゼルロッサは血の霧となり避けた。「あの幼女だが」「あ?」「転移魔法が続いている」「あたしが結界張ってんだぞ」「だから急を要するって」火球ドッヂボールの合間に何とか会話を試みるガゼルロッサ。


「パンツ来た」「ナメてんな」「そうだろ」「お前だよ」「嘘じゃねえ」「何をやれって?」「朝までに絶対にまた起こる。見れば分かるだろ、アルメニ様なら」「買いかぶりすぎ」


 そしてガゼルロッサとアルメニが落ち着いて会話を始めた頃に、魔王は焼け焦げた廊下を見て舌打ちしていた。




 アルメニや魔王はガゼルロッサの簡素な部屋に初めて入った訳ではなかったが、それでも何かひとこと言わずにおれない雰囲気があるらしい。「テレビでも置いたら」「天界の懲罰房がこんな感じだな」


「魔王さまはどうしてまたお出でになったのですか」

「なに、己としたことが呪いに嵌められておったわ」


 ええ、何それこわい、と下っ端の悪魔たち。魔王はむしろ呪いの根源であろうに。

「ふ、魔王様を呪えるのは始祖様以外におりませぬ」

 いずれは私、とアルメニは臆面もなく言うが。

「では祝福と言い換えることにしよう。この娘が聖なるものから受けた加護、己を敵意から隠す祝福よ」

 魔王は言い切ったが、つまり、

「つまり魔王さま、正体は分からないってことですね」

「物分りが良いな」


 だが、看破したことに意味はある。正体はけして分からぬのに探ろうとすれば、判断を誤らせ歪んだ記憶を掴まされる。もう探らなければよいのである。

「でもそれじゃやられっぱなしですわ」

「転移魔法に集中しろ」


 折しも側近の期待通りに空気が揺らいでいた。あるいは何等かの意思が魔王たちを見下ろしているためかもしれない。

 アルメニを起こしたのは良い判断だ、と魔王は思っていた。もう少し静かに起こしていたら、ガゼルロッサにそう告げるところだったほどに。アルメニは特別な娘である。なにしろ特Aランクを遥かに超える弩級の魂を悪魔に転生させた、魔界開闢の戦争以来となる魔界の誇り、彼女は始祖ルシファーやベルゼブブ御大の系譜に連なる生粋の堕天使。無論、もはや魔神である彼らとは比べるべくもないが、魔の穢れの中から生まれた魂とは一味違う。


 何の躊躇いも驕りもない静かな揺らめきの向こうから林檎が、

「これは、魔法ではありません、魔王様、『奇跡』です」


 堕天使アルメニは震える指で揺れる虚空を指した。


「天界の門」


 じゃあ俺が齧ったのは知恵の実か、とガゼルロッサは独りごちた。魔族には今更意味のない代物だ。その神聖な朝ごはんが幼女の体の上に優しく置かれる。


 空が仄白く光っていた。日の光差さぬ魔界の朝である。

 魔界の朝は遅い。暗がりで活動する者が多いからである。さらに言えば、朝から活動が始まるという概念も薄い。そして多くの魔族は一日眠らずとも平気であった。アルメニが眠るのは趣味である。魔王が眠るのは竜だから。

 幼女の体内時計はよほどしっかりしていたとみえ、この陰鬱な朝日とともに目を覚ましたのだ。


「おはよう!」


 起きるなり囲まれているので元気に挨拶をする、模範的な幼女である。

「魔王様こいつ、魔族言語喋ってる、中央語で喋ってる」

「アルメニ、やっぱりお前、知らなかったんだな」

 取り乱す堕天使様の様子に、ガゼルロッサは確信する。


「魔王さまはお気づきではなかったのですか、ちなみに俺は全然気にしてませんでした」

「そこから異常だ、アルメニもガゼルロッサもらしくないぞ、貴様ら何故取り立てられたと思っているのだ」

「『何者だ』と問われたときには、魔王さまは不審に思われていたのですね。そしてあろうことか、そう思ったことさえ忘れておられたと」

「どうにもそうらしい」


 この時に至ってもその事実は忘れたままであった。しかしそれは魔王の超常的な力に対する並外れた耐性であってさえも、ということであって(むしろ思い出せない記憶の違和感があるだけ命拾いだったのかもしれぬ)、他の妖魔たちは疑問に思うことすらなく意識を歪められていた。アルメニにしろガゼルロッサにしろ若くて経験が浅いなどという言い訳は通らない、魔王の側近なのに、である。


「魔王様、マリアちゃん、どうするんですか」

 クリネラが幼女のパンツ(新品)を被ろうとしながら言う。ネベロが「おい馬鹿やめろ」と必死の形相で止めていた。

 さて、と魔王、さすがにいい案は浮かんでいなかった。『適当に安全な場所に送り返す』可能だがそれでは状況を解明できない、何者が何の意図で幼女を魔王城に送り込んだのかが分かるまで安息はない。同様に『亡きものにする』のは全くありえないし、おそらく出来もすまい。無意識のうちに彼女を傷つけぬよう思考が操作されるはずだ。こうして彼女の処遇を思案しているうちにも確実に影響しているだろう。


 翻って今まで起こったことを挙げれば、最高のセキュリティ付きの幼女が現れたということ、幼女のための物品が運ばれたということ、幼女自身は寝て食って遊んでいるだけ(驚くほど聞き分けが良い)ということ、大いなる意思の目的が何やら皆目見当もつきそうにない。こういう窮地にあるとき、魔王の母竜は幼い息子によく言い聞かせていたものである。「フィーザちゃん、気持ちで負けちゃ、メ☆」ウインク付き。


「遊ばせておけ」

 魔王らしい不敵な笑みを添えて。

 それだけで「魔王さまも変だしやばいやつだこれやばいやつだ」と不安げに呟いていたガゼルロッサが落ち着いたのだから、親は大事に思っておくものである。魔族としては置いておく。


「いいんですか、それで」

 林檎をウサギに切りながらクリネラ。

「いいだろう、遊ばせるなり、罠を仕掛けさせるなり、我が首を狙わせるなり、いかに護られていようと幼女ひとりが簡単に魔王は落とせんぞ。手ぶらで帰すよりは余程良い」

「彼女が本当に幼女ひとりなのかも分からんのですよ」

「さすがに放っておくつもりはないぞ」

 魔王は心底厭そうな顔をした。心底厭だったのだ。


「この際、始祖様のご助力を仰ごう」


 悪魔一同の驚きを伝えるために人間流に訳せば、二十三世紀に「もう地球の資源が底を尽きつつあるんだけどガンジーを再現したAIに戦争がどうやったら無くなるか聞いてみよう」くらいの感じだ。「始祖さまと接触するだけでリスクです」と側近も苦々しい。


「天界とやりあった魔族は現役を退いておられる、ややもすれば二度目の戦争なのだから、それに、まあ、悪い御方ではない」

「いや、御方でしょう」

意味で」

 ガゼルロッサはやっぱり少し不安だった。


「まおう!クいネラがリンゴうさぎさんにしてくれたよ!」

 まだ舌っ足らずの幼女は果たして恐れるほどの怪物なのか、恐れる以上の脅威か。


「のうマリア」

「はーい」

 魔王の城まで辿り着いた勇なる人間をもてなすときの口調で、

「今日一緒に遊ぶのに、こっちの目つきの悪いお姉さんと、こっちの顔色の悪いお兄さん、どちらがいいかね」

「うーん」

 マリアならずも迷うところである。彼女から見ればこの場にいる大体の者は目つきが悪いし顔色も悪い。


「ガゼル!」

 御指名を賜った側近は悪い顔色を更に悪くし「俺じゃ見張りの意味なかったじゃないですか!」と魔王に抗議するも、幼女の意思を尊重させることはもう決定していた。さもなければ選ばせることはない。

「そういえばお前、この件にはアルメニよりも冴えているし」

「え、そうですか」

「おお、我が不調を見て取り警戒を怠らず、アルメニを呼んできたのも良い判断だ」

「えへ、お言葉ありがたく頂戴いたします」


 魔王は、ちょろいな、と思った。引き合いに出されたアルメニが言う。「あんたもう少し魔王(様)に警戒したら」

 とんでもないことである。ガゼルロッサが欲しいのは玉座ではなく魔王なのだから。


「ほらマリアちゃん、お着替えお着替え」

 ところで甲斐甲斐しく転移魔法で幼女の世話を焼く見知らぬ大いなる何者か、幼女の着替えを悪魔が手伝っていることはどう考えているのだろうか。何もかも謎である。あまりの不気味さに魔王の側近も震えるほどだ。不審な点は他にもある。

「食事が林檎だけって栄養バランス考えてないだろ」

「よくお前は健康を気にするな」

「実家の連中は酷かったのです!」


 側近の妙なトラウマを掘り当てたことに魔王は不安になった。


「朝から晩まで、血、血、血の滴る肉、血の色のワイン、鮮血のトマトジュース」

「なぜかトマトジュースで健康的に感じるが」

「俺は、トマトジュース嫌いです」

 ありがちである。

「ああもう、生臭いのばっか、マグロの漬けとか。ケルピーの馬肉ユッケと魚肉ユッケ対決とか。俺、炭水化物と揚げ物が食べたい」

「若いな」

 栄養バランスの話からずれているが、元々の話題が話題なので微笑ましさを感想で述べるに留めた魔王である。ケルピーの肉はどちらの方が旨かったのか訊いてみたいところではある。


「リンゴおいしいよ」

「林檎だけじゃダメだろ」

「炭水化物と揚げ物思想も危険っしょ側近殿」

 クリネラがたまらず突っ込みを入れた。

「皆さん、そろそろ仕事にかかった方がよろしいのでは」

 ネベロがたまらず状況に突っ込みを入れると、魔王とアルメニは始祖の呼び出しへ、ガゼルロッサは幼女と遊びに、悪魔ふたりは「マリアちゃんと遊ばせてくんねえかなあ」と言いながら持ち場へと赴くのだった。魔界の就業規則は粗雑なのだ。

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