予想外な涼ノ宮兄弟

高尾つばき

美しき兄弟の絆

 世の中には、対極の存在がある。

 

 北極に対し南極があるように、資本主義には共産主義、正には負、もしくは悪、と数え上げればキリがない。

 

 もちろん永久に変わらない対極だけではない。

 一夜にしてコロリと変わる対極もある。

 愛情が一線を踏み越え、憎悪に変貌する。

 男性が、打って変わって女性になる。

 資産家が見事に破産して貧乏におちいる、といった具合だ。

 

 ~~◆◆~~


 涼ノ宮すずのみや兄弟は、兄の愛一郎あいいちろうが高校三年生、弟の誠介せいすけが小学四年生の時に両親が事故で突然他界して、二人っきりになってしまった。

 それまで幸福を絵に描いたような家庭であったのが、一転したのだ。

  

 狡猾こうかつな親戚連中は葬式が終わるやいなや、少なからずあった涼ノ宮家の資産を、むしろ心地よいくらいの勢いで奪い去り、成人前の兄弟二人は住む家さえ無くなってしまったのであった。

 

 捨てる神あれば拾う神(あっ、これも対極?)ありで、近所のまったく赤の他人であるおばあさんが、経営しているアパートの一室を二人に提供してくれたのだ。

 六畳一間であったが。

 家賃は出世払いでいいからと、まさしく女神のごときありがたいほどこしを兄弟に与えてくれたのである。

 

 愛一郎は高校を全日制から夜間部に切り替え、新聞店で朝夕の配達の仕事をしながら誠介を育てることにした。

 亡くなった両親に代わって、自分が弟の面倒をみるのだと十八歳の少年はコブシを固く握りしめたのだ。

 

 弟の誠介は頭が良い。

 すこぶる賢い。

 だから何としてでも大学まで進学させてあげたい。

 愛一郎は自分のことは置いといて、両親以上の愛情を持って誠介を育てる決心をする。

 

 涙なしには語れない兄弟愛を描く純文学のつもりが、どこをどう間違えたのか予想外な物語になってしまったことに、後から気づく。

 

 愛一郎は新聞配達の仕事をしながらも、せめて高校卒業の資格くらいは持ちたいと勉強も頑張った。

 そのため心身共に疲労困憊ひろうこんぱいであったのだが、唯一の趣味だけには時間を捻出し打ちこんでいた。

 言いかえれば、この趣味があったからこそ勉学も新聞配達も両立できたのかもしれない。

 それは、漫画を描くことであった。

 

 ただし一般ピープル向けの漫画ではなかった。

 早い話が、きわめてマニア向けの、であったのだ。

 ただ誤解のないように付け加えれば、成人指定のアダルト仕立てでは決してない。

 とにかくカワイイ女の子を描いた漫画で、むしろ少女マンガに近かった。

 だがロリコンマニアが感涙にむせび泣くほどの画風であったため、愛一郎本人もロリコン漫画のカテゴリーに入れられてしまうことは重々承知していた。

 

 どのジャンルに組み入れられようと問題ではない。

 肝心なのは涼ノ宮愛一郎しか描けない、オンリーワンの漫画を描き続けるという一点のみ。

 

 愛一郎は幼い頃より絵を描くこと、特に超絶カワイイ萌える女子を、鬼気迫る勢いでケント紙に描くことが大好きであったのだ。

 

 執筆中の愛一郎はまるで悪霊が憑依したかのごとく変貌し、死ぬほどコワいその形相はもはや人類ではない。

 百戦錬磨のイタコや霊媒師でさえ、キューンと幽体離脱して逃げ出すほどなのだ。

 

 両目はひっくり返り、むき出される白目。

 口元は耳まで裂けたように大きく開かれる。

 上下の歯がガチガチガチガチと鳴ったり、強烈な歯ぎしりがコダマする。

 腰かけている椅子に両膝を立て、その間から上半身を突き出し頭を斜め四十五度に傾けて描く。

 時折全身が電撃を喰らったように痙攣けいれんする。

 病気でも憑依でもない。

 これが愛一郎の執筆スタイルであった。

 

 だがその漫画は一コマ一コマが洗練されたイラストのように美しく、見るヒトが見ると、鼻血を吹き上げながら脱糞するくらいの萌えが散りばめられていた。

 

 両親が健在の時にはあくまでも趣味で、隠れるようにして描いていた。

 そのため両親は、我が子が悪魔のような姿に変貌してロリコン漫画を描いているなんて思いもしなかった。

 知らないまま鬼籍に入れたのは、仏さまのご慈悲に違いない。

 

 狭い一間のアパート。

 時間は深夜。

 すでに布団にくるまっている誠介は、むろん兄の戦慄する執筆姿を知らない。

 書き上げた原稿を物は試しにと、あるマニア向けの出版社に送ってみようかと考える愛一郎。

 もしかすると採用されて、お小遣い程度にでも原稿料がもらえたら嬉しいな、くらいの軽い気持ちであった。

 もし原稿料が入ったら、誠介といつもの定食屋へ行って夢のA定食を食べよう、愛一郎は考えていた。

 A定食は焼肉にエビフライとカニクリームコロッケが付き、かつ豚汁なのだ。

 今の生活ではとても手を出せる代物ではない。

 せいぜいE定食が限度だ。

 それも給料日翌日、月に一度だけの楽しみである。

 平素の食事は時代が二百年もさかのぼったかのような、つつましやかで質素であったから。

 

 愛一郎の送った原稿は多忙な編集者が、開封もせずに丸めてゴミ箱へ捨ててしまっていた。

 どうせクソつまらない漫画だろうと勝手に判断してしまったからだ。

 

 編集部にはそれこそ毎日段ボール箱単位で素人が原稿を送ってくるのだから、これも仕方のないことである。

 

 ところが原稿をゴミ箱から拾って読んだのが、編集長その人であった。

 これは編集長が、人の目を盗んではゴミ箱を漁るという一風変わった趣味、というよりもビョーキの持ち主であったからに他ならない。

 

 編集長は愛一郎の原稿を見るなり、鼻血を吹き上げ失禁して卒倒した。

 異変に気づいた男性編集部員が駆け寄り、編集長の手に握られた原稿に目を通すなり、これまた鼻血を吹き出し、ご丁寧にお約束の脱糞までして昏倒する。

 余談であるが、それ以来「ダップンさん」と朝の連続ドラマのヒロインを彷彿とさせる陰口を言われていることを、本人は知らない。

 

 涼ノ宮兄弟の住むアパートへ、大金をつかませたハイヤーに法定速度をぶっちぎらせ、パトカーをも振り切らせて編集長自ら躍り込んだのは、その日の夜半であった。

 あいにく愛一郎は高校の夜間部へ出かけており、誠介が応対に合板の玄関を開けたのだが、編集長は誠介を一目見るなり、あの超強烈な萌え漫画を描いた作者だと勝手に判断してしまった。

 編集長の勘違いは、「ああ、それは間違えても仕方ないですねえ」と誰もが納得する理由であるのだが、理由はもったいぶって後にまわす。

 

 こうしてロリコン漫画家、愛一郎は華やかにデビューすることになった。

 

 結果は、売れるは、売れる!

 これほど売れてもいいのだろうかという疑念さえ吹き飛ばすように、売れたのだ。

 

 愛一郎のデビュー漫画が掲載された雑誌は、売り切れ店が続出した。といっても、元々特殊なマニア向けの漫画雑誌であるため、取り扱っている本屋自体が少なかったのだが。

 発売直後からネットで話題になり、強力なウイルスがみるみる感染していくようにロリコン愛好家を中心に拡大していく。

 後に「ロリコン漫画界のパンデミック」と伝説になる。

 

 愛一郎と独占契約した出版社は、死なばもろともと思い切って販路を拡大していった。

 それにネットによる通販も、編集長が酔った勢いで手掛けることになった。

 そして、この判断が吉と出る。

 大吉を鼻で笑う超吉だ。

 

 以来重要な会議では編集部員は浴びるように酒をくらい、吐きながらのたうちまわって激論する社風になっていく。

 余談であるが、現在大手出版社となった同社の入社試験の一次面接は、どれくらい酒が飲めるのか、その一点に絞られている。

 現役先輩編集部員と、明け方までサシで飲めた者だけが最終面接へ進むことができる。

 

 愛一郎は新聞配達を辞め、日中はひたすら原稿を描き夜は高校へ通う毎日が続く。

 睡眠時間は三時間。

 一日で、ではない。

 一週間でだ。

 愛一郎は若く、また漫画を描くのが三度の食事よりも大好きだっため、体調はむしろ絶好調であった。

 

 描けば描いただけ売れ、その分の原稿料や印税がどんどん銀行へ振り込まれる。

 しかもパチンコ台メーカーが、愛一郎の描く漫画のキャラクターを使用したいと契約を申し入れてきたのだ。

 この著作権使用料は、立ちくらみに襲われるほどの額であった。

 とにかく半端ない「0」の連続。

 

 さすがに映画化やアニメ化にはならなかった。

 やはり若干放送倫理規定に引っかかる部分もあったからである。

 ビョーキ持ちだが頭の切れる編集長は、音楽業界とタッグを組んだ。

 愛一郎の漫画をモチーフとし、新人ガールズバンドに楽曲を作らせてCD化したのだ。

 いわずもがな、無茶苦茶売れた。

 オリコンチャートで一気にトップに躍り出る。

 これも、大きな銭を生み出した。

 

 雑誌が、単行本が、CDが売れ、著作権使用料が入り、愛一郎の銀行預金残高はもはや個人レベルの範疇を越えていた。

 そこいらの企業よりも右肩上がりに残高が増加していったのもうなずける。

 A定食どころの騒ぎではない。

 定食屋を百軒丸ごと買占めても、預金残高はビクともしないくらい貯まっているのだ。

 おそるべし、ヒットする漫画家。

 ロリコンこそ正義、なのだ。

 

 兄弟は滞納していた家賃をにしておばあさんに支払い(この時おばあさんは驚きのあまり、危うくアッチの世界へ行きかけた)、駅前の超高層マンションの最上階にある四LDKの一室をキャッシュで購入した。

 億ションであるが、それでも預金残高の変動はほとんど無かった。

 使った分以上に、また入金されてくるのだ、印税が。

 現代の打ち出の小槌、それが愛一郎のロリコン漫画であった。

 

  ~~◆◆~~


 誠介は愛一郎の期待に応えるべく、全国でもトップクラスの地元国立大学理学部に現役合格する。

 そのころ愛一郎は、以前ほどがむしゃらに漫画を描く必要は無かった。

 なにしろ葉書サイズのイラスト原画一枚でも何十万円、場合によってはオークションで最高級の国産車がポンと買えるくらいの値で取引されているのだ。

 

 二十歳代前半にしてセレブの仲間入りをし、悠々自適な暮らしを送っていた。

 それでも最初に見出してくれた出版社以外とは契約をしない律義さがあり、週刊誌ではなく月刊誌に移って漫画を描き続けていた。

 やはり漫画を描くのが大好きだったから。

 カワイイ萌える女の子を描くのがこのうえなく大好きだったから。

 

 超多忙のころはアシスタントも雇っていた。

 ところが愛一郎がペンを握った途端に変貌する、その狂気をまとった姿を目の当たりにし、全員が翌日から音信不通となってしまうのが常であった。

 編集部では、半ばだますようにしてアシスタントを日雇いせねばならなかった。

 そんなこともあり、愛一郎はすべての作業を己ひとりでこなすようになっていた。

 

 そのため、愛一郎のサイン会は一切行われなかった。

 一度デビューしたてのころ、小さな本屋でサイン会を行ったことがある。

 色紙にマジックペンで萌えキャラを描く段で、愛一郎が当然のように悪鬼に変貌する。

 先頭に並んでいた小太りの若いオタクは、その姿を目の前で見てしまい、泡を吹き上げ気絶してしまった。

 サイン会は即刻中止とあいなった。

 余談であるが、その若いオタクはきっぱりとオタクの世界と縁を切り、出家した。

 


 誠介は夕暮れ時に大学から自宅マンションにもどると、三十畳はあるリビングのソファに腰を下ろし、なにやら深刻気なため息をついた。

 このマンションに越してからはお手伝いさんを雇い、食事や家事はすべて任せている。

 たみさんと呼ぶ六十歳後半の家政婦さんが毎日お昼の間に来て、夕飯まで作っていってくれるのだ。

 誠介が大学から帰るころには、もういない。

 リビングの大きなガラス窓右手から、オレンジ色の光が差し込む。夕陽だ。

 

 リビング横の部屋のドアが開けられ、「ふうっ」と息を吐きながら愛一郎が出てきた。首にはスポーツタオルが巻かれている。

 その部屋はトレーニングルームとして、主に愛一郎が活用しているのだ。十畳の室内には最新のトレーニングマシンが設置されている。


「おや、お帰り。

 今日もしっかり学問を修めてきたかな、僕の愛する誠介よ」


「ただいま、お兄ちゃん」


「うむ? 

 なにやら黄昏たそがれているように見えるのは、夕陽のせいかな。

 それともこの兄に一刻も早く会いたくて、泣きべそをかきながら走って帰ってきたのかい?」


「い、いや、お兄ちゃん。

 僕ももう大学生だよ。さすがに泣きはしないよ」


「ふふっ、相変わらず強がりを言いおって。

 どら、兄がハグしてあげよう」


「ハグは嬉しいけど、せめてパンツを履いてからにしてよ。

 素っ裸のお兄ちゃんに抱きしめられても」


「ハーッハッハッハーッ!

 何を恥ずかしがっている、誠介。

 血を分け合った兄弟ではないか。

 それにトレーニングする時には何も着用しないほうが、身体中の筋肉状態を常に確認できるから好都合なのだよ」


 愛一郎は腰に手を当て、全裸のまま愉快そうに笑った。

 誠介はお愛想程度に笑みを浮かべる。

 その表情に、敏感な愛一郎は異変を読み取った。


「待てよ、待て待て。

 この兄はおまえのことは手に取るようにわかる。

 その憂いを帯びた顔つきから想像するに。

 ははーん、さてはまたどこかの婦女子に恋心をいだいたのだな。

 どうだ、図星だろう。

 なんといっても僕は世界で、誰よりも一番誠介を愛しているのだからな。些細な変化さえ気づくのだよ」


 愛一郎は腰を曲げ、ソファに座る誠介の顔をのぞき込んだ。

 フリチンで、である。


「さすがはお兄ちゃんだね。

 何も隠し事はできないや。

 でも隠す部位は早く隠してね。

 今日さ、教室へ向かう時に階段から足を滑らせて、三階から一階まで転がり落ちたんだよ。

 それは見事な転がり具合でさ。

 スタントマンさながらだったんだ」


「な、なにぃ! 

 それで身体は大丈夫なのか! 

 すぐに救急車を呼んで総合病院へ緊急入院だ!

 徹底的に精密検査をしてもらわねば!

 金に糸目はつけぬ!

 必要なら病院を丸ごと買い取るぞ!」

 

 愛一郎はきびすを返すと、棚の上にある電話器を素早く持ち上げた。


「ああ、お兄ちゃん、大丈夫だから! 

 大学の医務室で診てもらったけど、かすり傷ひとつなかったし」


 誠介の言葉に、愛一郎はホッと大きく息を吐く。


「そうか、ならよいが。

 だが万が一ってこともある。

 やはり救急車を」


「いや、もう本当に大丈夫だから」


「誠介は昔から我慢強い子だったからな。

 中学時代にイジメれた時にも僕には黙っていたし。

 まあ、あの時は敏感に僕が気づいて対処したがな。

 この兄にはどんなことでも遠慮なんてするなよ」


 愛一郎は素っ裸のまま、誠介の頭をなでる。


「うん、そうだったね。

 その時ボクをイジメていた同級生たちを、お兄ちゃんは全員に見事な報復をしてくれたんだっけ。

 ある子には家に忍び込んで、家族も含めて靴という靴の全部の底を剥ぎ取ってくれたり、別の子には、深夜自宅の外側から鍵という鍵、ドアというドアすべてを瞬間接着剤と溶接で固めてくれたり。

 そういえばさ、ひとりで買い物に出た子がスーパーへ入った後をつけて、その子のポケットへお刺身パックやらレトルトカレーをこっそり忍ばせて万引きの汚名をきせたりしてくれたんだっけ」


「いや、まだあったぞ。

 主犯格の奴には極め付けだ。

 父親には美人局つつもたせに誘わせて多額の借金をさせ、母親には新興宗教へのめり込ませて、一家離散の目に合わせてさしあげた。

 あれは爽快だったな、ウワッハッハ!」


「お兄ちゃんの気持ちはありがたかったけど。

 もうそれは完璧に犯罪だよ、お兄ちゃん」


「大丈夫だ。

 すべて事実は闇の中。

 僕の愛する弟をイジメた天罰さ」


 愛一郎は両腕を組み、誠介にウインクする。


「そうだ。それで誠介が階段から落ちたのと、婦女子との関連はナニなのだ?」


 誠介は下を向きながら、恥ずかしげに言う。


「一階でようやく回転が止まった時にね、たまたまそこに居合わせた女子が、親身になってくれて医務室まで連れて行ってくれたんだよ」


「つまり、一目ぼれってやつだな。

 甘い恋心から、相手のすべてを求める性的欲求が膨らんだ、そういうことだな。

 うむ、なかなかいいぞ」


「い、いや、そこまでじゃないけど。別れ際までずっと心配そうに声を掛けてくれていたんだ。

 優しくて気の利く女子だった。

 でも」


「でも、どうしたんだい?」


 誠介は顔を上げて、愛一郎の顔を見た。

 

 愛一郎はサラサラの肩まで伸ばした髪を真ん中からわけている。

 週に一回、年間契約している美容師がマンションまで来てカットをしてくれるのだ。

 キューティクルがツヤツヤに輝いている。

 彫りの深いやや面長の顔には、クルリとカールしたまつ毛に二重の大きな目、スーッと通った鼻梁、ほとんどひげのないシャープなあご、つまりは端正な顔だちなのである。

 しかも百八十五センチの長身にくわえ、日々鍛錬しているボディは引き締まっている。

 筋肉が見事な肉体美を演出しているのだ。

 漫画家は体力勝負であるとの信念から、鍛錬を怠らないストイックな男である。

 とても売れっ子のロリコン漫画家には見えない。


 同業者のパーティへ顔を出したりすると、他の漫画家から憤怒の形相でにらまれるため、この頃は滅多に顔を出さない。

 売れている漫画家は熱心に仕事をする。

 それはすなわちボテ腹、たるんだ顎、腰痛を、銭と名誉と共にセットでもたらす。

 愛一郎は特別なのであった。

 パーティコンパニオンたちが中年まっしぐら体型の漫画家よりも、スマートで見目麗しい愛一郎の傍から離れたくないのは自明の理である。

 だが愛一郎の漫画を描く時の姿を目に焼き付けている女性編集者たちは、一定の距離を置き、誰ひとりとして近づくことはなかった。

 

 一方、誠介である。

 

 同年代の女子平均よりも身長は低く百五十五センチ弱、水だけでも太る体質らしく顔も胴体も真ん丸であった。

 髪は針金のような剛毛のため、寝癖がつくと、いかな方法によってももどらない。

 ために小学生時代より短髪にしているのだが、大工の棟梁のような角刈りにしか見えない。

 体毛もすこぶる濃い。

 極太の眉毛に細い目。

 強度の近視のためにかけている眼鏡はレンズが無茶苦茶重い。

 あぐらをかいた、大きな団子っ鼻。

 極めつけは日に何度か剃らねばならないほど、髭が濃いときている。

 顎や口元は常に青々と色づいているのだ。

 

 小学六年生の時に、行きつけの床屋が臨時休業であったため、隣町の床屋へ自転車で散髪に行ったことがある。

 散髪を終え、代金を支払う段になり床屋の主人は当然のように大人料金を請求する。


「おじさん、ボクは正真正銘、隣町の小学生なんだよ!」


 汗をかきながら(汗は年中かくほどの多汗症であった)誠介は一生懸命主張する。

 汗でずり落ちる眼鏡を何度も指で持ち上げながら。


「冗談言っちゃあいけえねえよ、大将。

 どう見たって建築土木関係者じゃねえか。

 そんな面で小学生だぁなんて、よーく言えたもんだな。

 わっはっは」


 床屋の主人は大笑いしながらも、しっかりと大人の散髪代金を請求したほどだ。

 

 愛一郎と誠介は、紛れもなく血をわけた兄弟である。

 DNA鑑定してもその結果は間違いない。

 

 数年前に編集長がすっ飛んで来た時に、当時はまだ小学生であった誠介を見て漫画家志望の青年であると見誤ったのは、そんな理由であった。

 だから誠介は中学生の頃、「ドロボーヒゲ」、「おやっさん」、「怪人腕毛男」、「とっつぁん坊や」、「バツイチ子持ち」という不名誉なあだ名で呼ばれていたのである。

 だが神はそんな誠介にはとびっきり明晰なる頭脳を与えてくれた。

 と言うか、唯一の武器はそれのみであった。

 それでも誠介は愛一郎から注がれる愛情で、まっすぐ純真な性格に育っていた。


「ボクはお兄ちゃんみたいにカッコよくないし、お礼を言いに行ったらかえって不気味がられて逃げちゃうんじゃないか、と考えるとね。

 ちょっと辛くてさ」


「何を謙遜しているのだね、誠介。

 おまえには誰にも負けない優秀な頭脳があるではないか。

 このまま物理学者となり、いずれはあのノーベル賞を頂戴する偉大な科学者になるのではないか」


「でもね、お兄ちゃん。

 やはり見てくれは大事だよ」


「それは確かに、口が裂けても決してハンサムとは言えないけどなあ。

 しいて言うなら、ブサカワイイってか」


「あからさまに肉親から言われると、かなり落ち込むよ、お兄ちゃん」


 悲しげな目が分厚いレンズを通して愛一郎を見る。

 眠っているように見えるが、もちろん起きている。

 愛一郎はそんな弟をジッとうかがいながら、おもむろに大きく首を縦に振った。


「よーし、あいわかった!

 あとはすべて、この兄に任せろ。

 ささ、すぐにその婦女子の個人情報を、知る限りすべて教えてくれ」


 股間をさらけだしたまま愛一郎は自室へ入り、しばらくクローゼットをまさぐる音がリビングに聞こえた。

 数分後、やはり素っ裸のまま、愛一郎はリュックサックを背負って現れた。

 パンツを履きに行ったのではなかったようだ。


「お、お兄ちゃん、まさか、!」


 誠介は驚いてソファから立ち上がる。

 愛一郎は不敵な笑みを口元に浮かべ、フローリングの床にむき出したままの尻をつき、リュックサックに入れられた品々を取り出した。


「えーっと、これはクロロホルムの薬瓶とそれを含ませるガーゼと。

 これはスタンガン。

 拘束用のロープに、万が一暴れたらまずいのでハンマーと。

 それから目隠し用のアイマスクに手錠か。

 あとはなにか必要な物はなかったっけかな。

 ああ、猿ぐつわも持って行こうかな。

 婦女子の甲高い声は、耳に痛いからなあ」


「お兄ちゃん、お兄ちゃんってば! ?」


「はっはっは。大丈夫だ、誠介よ。

 この兄に任せるのだ。

 おまえが惚れたというその婦女子、誰にも気づかれぬようにこのマンションに招待してさしあげよう」


「や、やめてよう。

 以前もそれで、あやうく全国指名手配になるところだったんだよ」


「今回はうまくやるさ。

 テレビの『ケーサツ最前線、凶悪な犯罪者を捕まえろ!』を軽く百回は観て研究したからな。

 なぁに、ちょろいもんさ」


「いやいや、実の兄を犯罪者にしてまであの子にお礼を言いたいわけじゃないよう!

 ノーベル賞を取る前に、前科者の実弟だって烙印を押されてしまうよ」


 愛一郎は必死に反論してくる誠介の肩を、ガシッとつかむ。


「誠介よ、僕はおまえが幸せになるのなら、この身がどうなろうと構やしないさ。

 それにおまえもそろそろいいお年頃だ。

 結婚したいと突然言われても、この兄は驚かぬように心の準備だけはしているぞ。

 披露宴はテーコクホテルを全館貸し切りで、二泊三日で盛大にドンチャン騒ぎして祝おう!  

 十億円ばかりあれば、飲み放題もセットにできるぞ、うむ」


「ボクよりも、順番でいけばお兄ちゃんが先に結婚してくれないと」


「なにを言う!

 僕は誠介が良き伴侶を得るまでは、独身を貫く覚悟だ。

 亡くなった両親の代わりとして、僕はすべての愛情をおまえに注ぐ決心をしたんだ、あの時に」


「いや、でも、無理やり誘拐した女の子と、結婚はできないよ。

 それって良き伴侶の意味合いを遥かに超えてるよ」

 

 誠介の言葉に、愛一郎は片膝ついて立ち上がろうとした姿勢のまま、考え込む。

 そして、ポンと手を打った。


「そうか。

 おまえがそう言うなら仕方ない。

 おお、そうだ! 

 その代わりに、お兄ちゃんが等身大で萌える女の子を、抱き枕に描いてあげよう。

 誠介もご存じのように、僕が描く女の子はすこぶるカワイイ。

 超絶キュートだ。

 自分で言うのもナンだが、僕が描いた絵で、何百万人もの愛好者が眠れぬ夜の慰めとしておるのだ。

 寂しい時には、その抱き枕を抱えるがいいぞ!

 うむっ、なぜ今まで気づかなかった、僕。

 では早速準備をせねばな。

 さあ、愛する弟のために渾身の絵をば!」


「お兄ちゃん、お兄ちゃん、ちょっと待って。

 どうしてボクがお兄ちゃんの描いた直筆ロリコンキャラの抱き枕を持って寝なきゃあいけないの?

 それはもう変態の粋を軽く超越しちゃうよ。

 ボクはさ、まったくロリコンには興味ないんだ、悪いけど」


 兄は歯を食いしばりながら宙を見上げた。

 その大きな目からは一筋の涙がこぼれ落ちる。


「そうか、そこまで生身の婦女子に、尋常ならざる異様な関心を寄せていたとはっ!

 くっくっく、僕の育てかたに、どこか大きな問題があったのかぁ!」


「いやいや、なんでそうなるのさ、お兄ちゃん。

 生身の女の子に関心を示すのが普通でしょ?  

 二次元の女の子をさ、ニタニタ笑いながらしかも深夜にこっそりと、目だけ異様にギラつかせて見つめているほうが余程コワいよ。

 ボクは見てくれじゃなくて、ボクの心を好きになってくれる女の子を探すから。

 大丈夫だよ、お兄ちゃん」


 誠介は口元を引き締め、窓ガラスから注ぐオレンジ色に、決して寝ているのではない細い目を向けるのであった。


              了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

予想外な涼ノ宮兄弟 高尾つばき @tulip416

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ