星降る月夜のおはなし
「そろそろよい時間だろう」
近頃、妙にそわそわと落ち着きがなかった夫に、ほのり、手を引かれ、イーデルト・クローデリアは銀と瑠璃の色違いの瞳を瞬かせた。
「おいで。イーデルト・クローデリア」
「どうしたの、グラーチェ」
イーデルト・クローデリアが問いかける間にも、グラーチェは森に満ちた夜の空気を揺らめかせ、梢の影ごと羽を広げる。
イーデルト・クローデリアの足先が神殿の石床から離れ、浮遊感と共に彼女は夫の胸元へ抱き寄せられた。思わずしがみついた肩越しから見えた彼と同じ色をした空の中には、いくつもの星が賑やかに煌めいている。
「夜も随分美しくなったものだ」
愉快気に喉の奥を震わせたグラーチェが、イーデルト・クローデリアをふわりと背に押しあげる。
「それはあなたがいるからだわ、グラーチェ。夜はあなたの世界だもの」
イーデルト・クローデリアは後ろから夫の首にしがみついて、彼のこめかみに擦り寄った。
グラーチェの背に乗り、イーデルト・クローデリアは夜空の隙間を渡る。
夜の深淵が隅々まで裾野を広げていく様を、彼女は横目で見送った。
連なる陸地を越え、現れ出た黒々とした海原に、彼女は気まぐれに光の道を通した。
時折、海面すれすれを飛ぶグラーチェが、月に照らされた波の飛沫を指先で散らしていく。
「グラーチェ。もしかして行くのは、ビンビステ? ちょうどキーリの花が咲く頃だわ」
「気づいたか。仕込みの仕上げは今日だったはずだ」
「素敵。ずっと気になっていたの。お酒の中でキーリの花が咲くなんて、どんな瞬間かしらって」
「残念だが、イーデルト・クローデリア」
グラーチェはほひゅると息をつき、情けなさそうに彼女を諭した。
「酒の中で花咲く瞬間は見られぬよ。人の子がキーリの蕾を酒に浸すのは、彼らが起きている時間だ。花が開くのも昼の間だ」
だが、とグラーチェは、肩にそっと頬を寄せてきたイーデルト・クローデリアの方へ首を巡らせる。
「その日、開いた花の香が、ようやく酒に移るのはちょうど夜も更けた頃だ。神々に捧げられたキーリの花酒が
神々へ奉納するために蓋が開け放たれた酒甕の底は深く、覗き込んだイーデルト・クローデリアが指先で中を照らしても、うちに沈んだキーリの花は見えなかった。
馥郁たる香りを吸い込んでいると、今にも咲き綻びそうな蕾のキーリの花が一輪手向けられ暗がりの表面にしずと浮いた。
期待に固唾を飲んで見守る先で、黄色のその花は蕾のまま酒のうちに沈んで消える。
「やはりだめか」
グラーチェの気配に気づいたイーデルト・クローデリアがうち笑って夫の胸に背を預けると、蕾を降らせた張本人は妻よりよほど残念そうにほひゅると溜息を漏らした。
「急にいなくなったと思ったら、キーリを探しに行ってたの?」
「すまない。やり方は知らなくてな」
「いいえ、ちっとも。蕾もきれいだったわ」
慰めるように髪を撫でられたイーデルト・クローデリアは慈しみを込め、ささめいた。腹にまわされたグラーチェの腕を抱きしめ返す。
はじめてのキーリの花酒は、イーデルト・クローデリアにはまだ苦かった。
同じ花だから考えればすぐ思い当たりそうだったが、二日酔いに効くキーリの茶もそういえばいくらか苦かったと思い出す。
柄杓にくんでもらったキーリの花酒をこくりと一息に飲み干すと、鼻を抜けた花の香りに、胸の奥からあたたかくなった。
口にするたびほこほこと、陽気な気分になってくる。
「グラーチェ!」
代わる代わるにキーリの花酒を楽しんだあと、ふわふわした酔いに任せ、イーデルト・クローデリアはグラーチェの両手をとった。
手を引いて酒蔵の扉を駆け抜け、するり夜空へ舞い上がる。
イーデルト・クローデリアはグラーチェの手をとったまま、彼を軸にくるくるとまわった。広がった金の髪に宿るほのかな光が、まわるたびに夜風に紛れて闇に溶けていく。
夜の淵で二人は手を取り踊った。
あがる息にまかせてまわる。イーデルト・クローデリアの踵が踏み抜いた夜空から、ぱっと星が散った。
彼女がゆらめき踊るたび、足元から星が爆ぜ、星のかけらが次々地上へ降り注ぐ。
「ねぇ。今年のできはどうだったの?」
「悪くない。昨年のものには少し及ばないが、よいできだろう」
「悪くはないのね? よかったのね?」
「お前は気に入ったようだな、イーデルト・クローデリア」
「ええ。とっても楽しかったわ、グラーチェ」
「はじめてなのに飲みすぎたのではないか」
「そんなことないわ。私、あなたが思うよりも、もっとうまく踊れているみたい」
ほら、とイーデルト・クローデリアはよろめきながら流星を散らす。
ちぐはぐな答えを返し上機嫌に踊るイーデルト・クローデリアに、グラーチェは困り果てながら、手を取られるまま慣れない踊りに付き合ってやった。
踊り疲れて帰ってきたいつもの神殿で、束の間の眠りについたイーデルト•クローデリアは、グラーチェの予想通り、二日酔いの頭痛に苛まれながら目を覚ました。
背を支える夫に素直に身を寄せ、彼女は低く呻く。
「……ううぅ。頭がいたい」
「加減もまだわからぬのに、次々飲むからそうなる」
「あんまり痛いのね。あの時のあなたもこうだったのかと知れたのは嬉しいけれど」
「……頼むから、それはもう、思い出してくれるな、イーデルト・クローデリア」
痛む頭に手をかざしたイーデルト・クローデリアの視界の先で、ぞろりと蠢いたより深い闇が、湯気たつ器を用意する。
差し出されるまま両手で受け取ったキーリ茶に口をつけたイーデルト・クローデリアは、湯面で揺れた懐かしい黄色の花びらに目を細めた。
「“キーリの花は人を酔わせ、同じその花で酔いの患いを和らげる”」
「そうだったな」
「ええ」
「これを飲んだら、もう少しおやすみ、イーデルト・クローデリア」
はい、と頷いて、イーデルト・クローデリアはふと自分を見下ろす暗がりを見あげた。
「グラーチェ」
「どうした」
「置いていかないでいてくれる?」
「いきはしない」
何を言っているんだ、と言いたげな不機嫌そうな響きに、イーデルト・クローデリアは微笑んだ。
夫の頬に掌を寄せ、覗き込んできた顔に、よかったと口付ける。
そうしていつの頃からか、キーリの花酒のできは、仕上げの時期に巡ってくる流星群の星の数に大きく比例すると——ある土地では、まことしやかに囁かれるようになる。
イーデルト・クローデリアと夜のおはなし いうら ゆう @ihuraruhi
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