トンビになった老人

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第1話

「おい、クソじじい! お前なんかさっさと死んじまえ!」

「少年よ。その言葉、一意見として受け取っておこう」






 俺がじじいに出会ったのは高校二年の夏だった。汗をにじませながら俺は自転車を漕いでいるといきなり水をかけられたんだ。驚いて自転車を止めてその方向を見る。そこにはヨボヨボの老人が水の入ったバケツと柄杓を手に持って突っ立ていた。古臭い白シャツに半ズボンとでさらにヨボヨボ感が増している。


「おい、じじい! なにしくれてんだよ! 服がビショビショじゃないか!」


 これが怖そうな兄ちゃんだったなら俺は文句なんか言わなかっただろう。「あ、全然大丈夫ですよ! 気にしないでください。では、失礼します~」などと適当に言ってその場からそさくさと立ち去っただろう。いや、怖そうな人だけというわけでなく若い女の人なんかであっても同じ反応をして立ち去ったはずだ。なぜかって? 女の人と話すなんて緊張するだろう! 

 よって俺がこんな言葉使いをできるのなんてこんなヨボヨボの老人くらいだ。あ、あと子供もか。少しでもケンカになりそうなことには首をつっこまないに限る。ケンカは売らない、買わない、関わらない。少し強気にでるのは自分より弱いと判断した存在にのみ。それが俺が今まで生きてきた中で身につけた世の中を生き抜く術だ!


「おお、少年よ! すまない、すまない。花に水をあげていたところだったんだ。しかしわしもわざとやったわけではない。若き寛大な心で許してはくれぬか? この通り反省はしておる」


 な、な、なんだこのじじい!? 予想していた反応と全然違うぞ! 俺が予想してたのは


「ああ、どうもすいませんでした……。なんていうことをしてしまったんだ。どうかお詫びをさせてください…………」 

「クソッ! 運悪いぜ、まったく。気を付けろよな! 人がこの道を通るかもしれないなんて予想できるだろ。いや、そんなことも頭が回らなくなってきてるのか。次やったら許さねーからな!」


 こんな皮肉混じりのセリフを吐いて颯爽と立ち去る予定だったのに…………。見た目はヨボヨボなのになんでこんなに言動はしっかりしてるんだよ! 

 俺は戸惑ってしまった。そして戸惑いを隠せるほどの演技力もなかった。その結果俺の口から出た言葉は


「ゆ、許すわけねーだろ! お、お前みたいな迷惑かけるじじいはさっさと死んじまえ!」


 こんな思ってもないことを口走ってしまった。俺だってそこまで怒っていたわけではない。しかし冷静さを失ってしまって、酷い言葉をあびせてしまったのだ。この炎天下に少し水をかけられた程度、気分がいい時ならラッキーとすら思うかもしれない。


「なるほど。死んでしまえ、か。その言葉は一意見として受け取っておこう。しかし少年よ。そこまで気分を害してしまったとは思わなんだ。お詫びにわしの家にあがって休んでいけ。服も乾かしてやろう」


 じじいはこんなことを真面目な顔をして言ってきた。よく見ると恰好はヨボヨボのじじいだが、顔にはいまだ覇気があり、意思の強そうな目をしていた。それは俺と同年代にはないような重みのあるもので……。


「い、いーよ別に! 家に帰ったらすぐ着替えるから…………」

「いやいや、そんなわけにはいかん。わしが迷惑をかけてしまったのは事実である。この暑さなら服はすぐ乾くだろうとも思ったが、もしも風邪などひいてしまったら一大事だ。夏風邪という言葉もあるくらいだからな」

「い、いやほんとに大丈夫だから…………」

「まあまあ、そう言うな。ほれほれ」


 そう言ってこのじじいは俺を無理やり自転車から降ろし、家へと連れ込もうとする。


「お、おい、やめろって……」


俺の言葉は全くじじいには届いていない様だった。植木がちらほら埋められている決して大きくはない、しかし良く手入れがされている庭を横切り玄関までぐいぐいと手を引かれていく。靴をぬいでいる間も手を引っ張られるので乱暴に靴を脱ぎ去り、ギシギシと音がなる短い廊下を歩くと居間についた。


「少し待っておれ」


じじいはそう言ってペシャンコになった座布団に俺を座らせると、きびきびした動作で台所へと向かっていった。するとすぐに氷の入ったコップに麦茶が入れて戻ってきた。

 うーむ、おかしい。なぜこんなことになった。なぜ俺は見ず知らずの老人の家で麦茶を飲んでいるのだ……。


「ゆっくりしていけ。客が来るなんぞ久しぶりだ」


 いつから俺は客になったんだ……。じじいは家へ入るとすぐに濡れてしまった俺の上着を脱がし、乾かしてくれた。というわけで俺は今上半身裸である。タオルも持ってきてくれたが、もうほとんど乾いているから必要はなかった。やはりおかしい。上半身裸で、麦茶飲んでて、老人と二人きりのこの状況。

 は! ま、まさかこのじじい、そっち系の人!?


「待ってろ、今スイカを切ってきてやるから」


  …………まあ、そんなことないわな。いたって普通のお節介じじいだ。


「いらねーよ、スイカなんて」

「なんだ? スイカは嫌いか?」

「そーいう訳じゃねーけど……」

「だったら遠慮なんかしないで食っていけぃ」

「…………」


 終始じじいのペースである。じじいはいそいそとよく冷えたスイカを切って持ってきた。意地になって食べないのは勿体ない。そう思って食べ始めたスイカは、とても甘くて、美味しかった。


「では、改めて詫びるとしよう。不注意に水をかけてしまってすまなかった」


 じじいは俺に向かって頭を下げてきた。こ、こんなにも年上の人に丁寧に謝られたことなどなかったのでとぎまぎする。


「いや、俺も言い過ぎたよ。もう怒ってないし……」

「うん? 言い過ぎただと? ああ、死んでしまえとわしに言ったことか。いやいや、気にすることはない。一意見として受け取っておこう、と言ったではないか」

「は?」


 なにを言ってるんだこのじじいは……


「いや、だからだな。お前の言葉でなぜか踏ん切りがついたのだ。わしは一か月程後に死ぬことにした」


「…………へ?」


もう一度言おう、何を言っているだこのじじいは……


「いやいや、意味分かんねー」

「わしが死ぬと言っているだけだ」

「それが意味分かんないんだよ! 何バカなことほざいてんだ!」

「何もおかしくはないぞ? ただ、わしが死ぬだけだ」

「あー、もう! 分かった、分かった! 勝手にしろ。お前みたいなクソじじいはさっさと死んじまえ!」

「うむうむ。少年よ、その言葉、一意見として受け取っておこう」


 なぜか機嫌良さそうにじじいは答えた。そしてこのやり取りが俺とじじいが会うときのお決まりとなった。


 じじいはこうも続けて言ったきた。


「少年よ、こうして会ったのも何かの縁だ。よかったらまた遊びに来い。わしの話相手になってくれ。なーに、そんなに面倒なことではない。一か月のうちに何回か来てくれるだけでいい」

「…………」


 こうして俺とじじいの奇妙な付き合いが始まった。


 俺としてはじじいの言葉に従わなくてもよかった。相手は俺の家や名前すら知らないのだから。しかし、一人寂しく暮らしているであろう老人を放っておくことは俺にはできなかった。

 じじいと出会ったのは夏休みの終わった頃。まだまだ暑さが抜けない日々が続いている。別に行きたくもない学校が始まってしまったのだが、じじいの家に行くのは面倒ではなくなった。どうせここは学校の帰り道だからな。俺は部活にも入っていないことだし、様子を見に来るくらいなんでもないだろう。そう思って俺はそれから毎日のようにじじいに家を訪れた。

 じじいとする話は結構面白かった。学校で友人達とくだらない会話をするのも楽しくはあるが、自分の祖父母以外にここまで年配の人と話す機会などなかったので、じじいとの会話はとても新鮮に感じた。

 じじいの家に通い始めて二日がたった頃、俺はじじいの名前を聞いてみることにした。俺とじじいの会話はお決まりの


「おい、クソじじい! お前なんかさっさと死んじまえ!」

「少年よ。その言葉、一意見として受け取っておこう」


 このやり取りから始まる。


「まあ、少年よ。今日もゆっくりしていけ。今飲み物を持って来てやる」

「ああ、サンキュー。のど渇いてたところだったんだ」


 するとじじいは俺が好きなサイダーとお菓子を持ってきてくれた。


「おお! なんでこんなものがあるんだよ! じじいもこんなもの飲むのかよ?」

「いや、わしは飲まないが、若い者が来るのに麦茶だけだすのも悪いと思って買っておいたのだ」


 じ、じじいめ……。ずいぶんと気が利くじゃないか……。そういえば昨日、俺が好きな飲み物やらお菓子なんかを聞いてきたな。嬉しいけどなんだか気恥ずかしかったので話題を変える。今日聞こうと思っていたことだ。


「そ、そうだ、じじい! じじの名前はなんていうんだよ? 教えてくれたらじじいって呼ばないであげてもいいぜ」

「わしの名前か? うーむ……」

「なんだよ? 自分の名前すら忘れたのか?」

「いや、そういう訳ではない。いいか、少年よ。わしとお前はどっちにしろ一か月たったら別れるのだ。わざわざ互いに名乗るまでもないだろう。わしのことはじじいでも何でもいい。勝手に呼んでくれ。そのかわりわしもお前のことは少年、と呼ばせてもらう」

「あー、はいはい。またそのことね。じゃあ俺も好きに呼ばせてもらうわ。クソじじいって呼んでも怒るなよ」


 この時は冗談交じりにこう返した。俺はまだ、じじいが本気で「死ぬ」と言っていることに気付かなかったんだ。





 じじいと高校生が一緒にいても何もすることはないのではないかと思う人もいるかもしれないが、そんなことはなかった。まあ、じじいの家でぐだぐだするだけのことも多かったが……。じじいと暇つぶしがてら始めたのは将棋だった。俺はルールが分かる程度であったのだが、俺がじじいの家に行くとじじいはよくテレビで将棋を見ていたので俺から誘ってみたのだ。


「おお、少年よ。将棋ができるのか。では、一局打ってみるか」


 じじいは嬉しそうに俺の誘いにのってきた。

 ほとんど将棋などしたことがない俺がじじいに勝てるはずもないので、ハンデをつけてもらったのだが……。


「王手じゃ」

「うぅ……」


 じいいはメッチャ強かった。


「フム、少年よ。飛車、角落としの老人に負けるとはまだまだだな」

「い、いや待て。ここに逃げれば……」

「こうじゃな」

「じゃ、じゃあこっちに逃げれば……」

「こう、じゃな」

「じゃあここに歩をおけば……」

「ここに銀をおく。諦めろ、少年よ。詰み、じゃ」


 俺の悪足掻きも徒労に終わった。


「まあ少年よ。まだまだ力不足ではあったが中々面白い手もあったぞ。悲観することはない」

「うーん、序盤は俺が有利だったのになー」

「将棋はよく考えないとできないからな。若いうちに頭は使っておくもんじゃ」

「こんだけ将棋が強けりゃじじいはボケることもなさそうだな」


 俺は皮肉混じりにこう言って続ける。


「俺は若くても頭を使うのは嫌だね! 将棋みたいのならまだいいけど、勉強なんかはつまんねーし」

「そのようなひねくれた考えをしおって。まるで桂馬のようじゃな。少年はもう少し香車のような真っ直ぐさを見に付けた方がよいぞ」


 じじいはこんなことを言ってきた。


「なんだよ、人を将棋の駒に例えやがって。じゃあじじいは自分のことを何の駒だと思ってるんだよ」


 俺がじじいに尋ねるとじじいは「そうじゃな……」と呟いて少しの間考え込んだ。別に考え込むこともないだろうに。じじいは古参な感じがするから銀とかかな、などと考えていると、将棋の盤の一つの駒を指して


「わしはこの歩兵じゃな。戦いが始まってから目立った活躍もせずに生き長らえてしまった一歩兵じゃ」


 こんなことを言った。ずいぶん謙虚なじじいだ。


「なんだよ、歩かよ。でもその歩は俺の歩を一個とったじゃねーか。たしかにそれからなんもしてねーけど」

「ああ、なにもすることができなくなったんじゃな。しかし、この歩兵は相手の歩兵を打ち取ったがゆえの苦しみを感じながら生き続けた」


 じじいの例えは俺にはよく分からなかった。




 じじいが唐突に自分のことを語り始めたのは出会ってから約二週間がすぎ、夏の暑さもようやく和らいできた時だった。


「少年よ、一つ私が若かった頃の話でも聞いてはくれんかのう」

「なんだよ、何か面白い話でもあんのか?」


 じじいはそこら辺にいる老人に比べ、あまり自分のことを話さない方だったので、珍しいと思い俺は聞いた。


「少年は大東亜戦争について知っておるかのう?学校の授業なんかでも習うと思うんじゃが」


 大東亜戦争と言われてもはじめはピンとこなかったが、すぐに太平洋戦争のことを指していると気付く。


「ああ、知っているよ。1941年に日本の真珠湾攻撃からはじまって、1945年8月15日に終わったんだよな」


 「うむ」とじじいは頷いてから、決して大きくはないが聞き取りやすい声で話しはじめた。


「大東亜戦争はミッドウェー海戦の敗北を期に日本の形勢が悪くなって言ってのう。当時はそのことすら隠されておったのだがな。わし自身もついに戦場に行くことになったのだ」


 じじいは夏の終わりが近いとはいえ、まだまだ暑いこの時期に湯呑にはいった温かいお茶をずずっと一口飲んでから続ける。


「わしが向かった先は太平洋の南にあるとある島だった。日本軍は戦争初期から南侵していってな、太平洋の島々を侵略していった。日本兵はどの島でも餓えておってな。しかし、わしはまだましな方だったのかもしれん。ガダルカナル島では人肉を食べるまで日本兵は追い込まれていたと聞く。少なくともわしの島では、わしの見た限りではそんなことはなかったからな」


 俺は太平洋戦争について知っている。授業で習ったからだ。戦争がはじまり、日本が負けて戦争が終わった。


「わしはそこで様々な経験をした。でもな、少年よ。この年になっても思い出すのは自分が餓えて苦しいとか、上官に殴られて痛かったことではなくてな、ある日わしらの隊が移動している時に鉢合わせ、そしてわしが殺した一人の米兵のことだ」


 じじいはまたお茶を一口飲んだ。


「こちらは6人で相手側は2人だった。どちらからともつかず、銃を構えた。いきなり相手と鉢合わせてしまうと弾が飛び交う乱戦となってな、自分の弾がどこに飛んだかなんては普通わからないものだ。でもな、なぜかその時はわかった。わしの撃った弾が敵兵の1人の眉間に命中したことがな。すぐにその戦闘は終わった。こちら側は軽症をおったものがいただけですんだが、敵兵の二人は死んでいた。わしは自分が殺した米兵のもとに駆け寄った。その時は相手が自分の手によって死んだことが信じられず、なんとか生きていてほしいと思っていたのかもしれんな。しかしその敵兵はやはり眉間を撃ち抜かれて死んでいた。考えてみればおかしな話だ。わしが原因で死んだのはその一人だけではないかもしれんのにな。直接人を殺したと認識できたのはその時の乱戦だけだったとはいえ、その他の乱戦でも自分が殺した時があったかもしれない。わしが撃った弾が当たったことによる怪我でその後命を落とした敵もいたかもしれない。上官の命令でわしがしかけた地雷に誰かがひっかかったかもしれない。でも、でもな少年、今思い出すのはわしが撃った弾が相手の眉間に当たるその瞬間なんじゃ」


 じじいは網戸ごしに見える庭をみながら話していた。そこに見える木々の緑はよく手入れされていることもあって、夏の強い日差しをこれでもかと反射させ輝いていた。じじいは眩しそうに眼を細めて窓越しに見える庭をみつめていた。いつもじじいは俺と話すとき力強い眼差しで俺を見つめてきていた。しかし、今日じじいが戦争の話をしてからは一度も目が合っておらず俺そのことにひどく違和感を覚えた。

 じじいは大きく溜息をついて


「今日はこれくらいにしておこう。少年には少し退屈な話だったかのう」


 と少し申し訳なさそうにいった。


「そんなことない」


 俺はそう一言だけ答えた。その後じじいと一局だけ将棋をうってから帰った。その時もやはり俺は勝つことができなかったが、じじいの駒の一つにひどく寂しそうに孤立している歩があった。



 俺はじじいの話の続きが気になっていた。それは好きな漫画やアニメの続きがきになるというようなものと同じではなく、知らなければならない、知る義務があると感じさせるものだった。またじじいが自分から話してくれるまで待とうと思っていたが、一週間たっても口を開こうとしないのでとうとう俺から聞いてみることにした。


「おい、じじい。この前の話の続きを聞かせてくれよ。その話を聞き終わるまではくたばっちまえとは言わないでおいてやる」


 じじいはニヤリと笑いながら答える


「ほう、少年は優しいのう。では少しまたわしが若かりしき頃の話でもさせてもらうとするか。といってももうあまりする話というものもないのだがな」

「いやいや、いっぱいあるだろ! 前話してくれた島での戦いが終わったあとじじいはどうなったんだよ」


 じじいは「生き延びたよ」と呟くように言った。その表情はどこか悲しげに見えた。


「ただ、生き延びただけじゃ。その後わしは敵との戦闘中に銃弾があたって怪我をしてな。もう生きて本国に戻るのは無理だと思っていた。しかしその後奇跡的に本隊に合流し、負傷兵が集められて本国に送還されることになった。潜水艦で帰還したはずだがその時のことはよく覚えておらん。今考えるとよく敵艦隊の索敵にひっかからなかったと不思議に思っておる」

「じゃあ、じじいはそれからずっと日本にいれたわけだ」


 俺は当然そうなるだろうと思っていたが、実際には違うようだった。


「いや、日本について少ししたら満州に送られることになった。満州国というのは当時の中国に……」

「いいよ、知ってる」


 「そうか」とじじいは頷き続ける。


「満州でも人手は不足していてな。結局わしは満州で終戦を迎えることになる。終戦を迎えるといっても現在終戦記念日と定められている1945年8月15日を迎えるということじゃ。戦争がそんなに簡単に終われるわけがない。ある日を境にピタリと終われたらもっと早く終わっている。終戦間際にソ連が満州に侵攻してきたのは少年も知っている思う。わしもソ連軍と戦うことになったのだが、戦力の差は歴然としていてすぐに投稿して捕虜となった。それから約2年間はソ連軍の捕虜として過ごしてな、日本に戻れたのは終戦から3年弱が過ぎた頃じゃった」


 戦争はそんなに簡単に終わるものじゃない。その言葉は俺には衝撃的だった。事実、じじいは戦争が終わっても三年近く日本に帰れなかった。でもきっとじじいだって戦争が終わってよかったはずだ。そんな願いをこめて俺は聞いた。


「でも、じじいも日本に帰ってこれてよかったんだろ? 家族にもう一度会えたとか……」

「ああ、そりゃよかった。母親や兄弟達にもう一度会えた時はそれは嬉しかった。同時に父親や何人かの兄弟が死んだと知って悲しかったがのう。それとなぁ」


 じじいは少し間をとってから話を続ける。


「妻や子供にも会うことができなかった」

「え! じじいって結婚してたのかよ!」


 思わず叫んでしまった。こんなところに、この年で一人で暮らしているんだからてっきり独身だと思っていた。じじいは少し苦笑い気味に答える。


「そんなに驚くこともなかろう。戦争が始まる少し前に結婚してな、子供も授かることができたのだ」

「じゃ、じゃあ何で戦争終わっても会えなかったんだよ? ……亡くなってたのか?」


 聞きづらかったが、聞かずにはいられなかった。じじいは特に不快に思っていないようですぐに答えてくれた。


「いや、そういう訳ではない。ちゃんと生き延びてくれていたよ。でもわしが帰国した時には他の人と再婚しておってなぁ。会いにいくことはできなかったのだ」

「そ、それって!」


 酷い女じゃないか! じじいは必死に戦争を生き残ったっていうのに! 自分は他の男を見つけて幸せに暮らしているなんて……


「少年よ、わしが戦争が終わって日本帰ってこれたのは3年たってからだ。妻はわしが生きているとも確信が持てなかっただろう。戦後間もない厳しい環境で若い女が子供を一人と生き抜くのは並大抵のことではない。 わしはこれでよかったと思っておるよ」

「で、でも……」


 俺は納得いかなかったが、じじいは晴れ晴れとした笑顔をしていた。


「これでよかったのじゃ」


 じじいは俺に言い聞かせるようにもう一度言った。戦争の話をしている時にじじいが笑ったのはこれが初めてだった。


「お、外が暗くなってきおった。少年はそろそろ帰ったほういい。暗くなるのも早くなってきたなぁ」


 確かに外は夕焼け色に染まり、東の空はもう夜の訪れを示していた。夏の暑さはもうほぼなくなり、秋が訪れようとしていた。


「少年よ、こんな老いぼれの話を聞いてくれて感謝しておるよ。またいつでも来てくれ」

「ああ、じゃあな」


 おれはそっけなくあいさつを済ませ、玄関へと向かう。玄関の扉を開いたところでもう一度振り返る。見送りにきたじじいがそこに立っていた。俺は何か胸騒ぎがした。


「じじい!」


 「死ぬなよ」と思わず言いそうになった。すんでのところでその言葉を飲み込む。


「お、なんじゃ?」


 じじいは少し驚いたように訪ねてきた。


「……なんでもねぇ。じゃあな」


 そういってじじいの返事も待たずに扉を閉め、外へ出た。家への帰り道自転車を漕ぎながら、じじいは本当に死ぬといっているんじゃないかと考えた。いや、冗談に決まっている。そう自分に言い聞かせてその思考を追い払った。考え事をしながら自転車をゆっくり漕いだせいか、家に着いたのはもうすっかり暗くなってからだった。



 それからは学校帰り、毎日のようにじじいの家に寄った。特に何をするとも決まっていないが、おれはじじいと過ごす時間がとても好きになっていた。

 ある日、俺が帰ろうとし玄関の扉を開けようとしたところでじじいが俺を呼び止めた。


「少年よ」


 振り返ると笑顔のじじいが立っていた。


「ありがとうな」


 急にそんなことを言ってきた。


「なんだよ急に。じゃあ、また、な」


 じじいは俺の返事には答えず、笑顔のまま手を振っていた。俺は以前感じた胸騒ぎが大きくなり、夜もなかなか寝付くことができなかった。



 幸い翌日は休日で学校はなかった。普段は午前中からじじいの家に行くことなどなかったのだが、その日は朝起きてすぐにじじいの家に向かった。朝早い時間のせいか涼しく、風が吹くと少し寒いくらいであった。しかし、自転車を飛ばしてきたせいでじじいの家に着く頃には少し額に汗がにじんでいた。

 玄関の扉を乱暴に開け、大声でじじいを呼ぶ。


「じじい! こんな朝早くからきてやったぞ! 感謝しろ!」


 呼びかけに答える声はない。俺は家の中へと入っていく。


「じじい! いないのか?」


 居間に着いてもやはり人影がない。胸騒ぎがまたいっそう酷くなる。いや、きっとじじいはまた俺のためにお菓子やらジュースやらを買いに出かけているだけだ。だったら近くのスーパやコンビニに行けば会えるはずだ。そう思って俺は玄関を出て、自転車に飛び乗った。

 そうして近くのスーパーに行ってじじいを探す。


「すいません、ここでじじい……。いや、おじいさんを見ませんでしたか? 年の割に姿勢がよくて、多分服は少し古臭い白シャツなんですが……」

「いや、そんな人は今日は来てないですねぇ」

「そうですか、ありがとうございます……」


 こんなやり取りを町にあるほぼ全てのスーパー、コンビニに行って行う。しかし、じじいはそのどこにもいなかった。そんなことをしているともう午後になっていて昼飯も食わずに探していたことに気付く。きっとじじいはもう家に帰ってるんだ。どこかで入れ違いになっただけだ。そんな期待をしてまたじじいの家にもどる。


「おい! じじい! いるのか!?」


 そう叫んでもやはり答える声はない。居間まで来てもじじいの姿はなく、俺は途方に暮れた。ふとそこで机の上を見て見ると、午前中来たときには気付かなかったが、一枚の紙が置かれていた。震える手でそれを獲り、俺は読み始める。そこにはこう書かれていた。



 少年へ


 思えば奇妙な出会いであった。わしが誤って少年に水をかけてしまい、少年に「死んでしまえ」と言われたのだったな。その言葉、一意見として受け取っておこう。なぜか一目でわしは少年を気に入ったよ。そして、少年が言った「死んでしまえ」という言葉も心にすっと入ってきたのだ。思えば、わしはあの米兵を殺した時からずっと死にたかったのかもしれん。今までのうのうと生きておったが、やっとその願いを叶えることができる。わしが今になってこの決断ができたこと、それはわし自身への勝利だと思っておる。全て少年のおかげだ。少年がわしの話を真摯に聞いてくれた、それでもう思い残すこともなくなった。ありがとう。


 少年よ、輪廻転生という言葉は知っておるじゃろう? 死んだあとの魂が、この世に何度も生まれ変わってくることだ。輪廻を抜けることを解脱という。生前罪を犯したものは解脱することは叶わず、またその罪を償うために転生する。わしも罪を償わなければならない。きっとまた、この世に転生してしまうだろう。今度の生では罪を犯さず、自分の罪を償いたい。そしてもし、贅沢を聞いて貰えるのならわしはトンビになりたい。自然の法則に従って精一杯生き抜くことで罪を償いたい。空を飛び、地上を見渡したい。円を描くように空を飛ぶ姿はなんとも優雅で美しいと思わんか? きっと少年のことも空から見ることができる。


 少年のおかげでこの一か月はとても楽しかった。改めてお礼を言わせてもらおう。ありがとう。これから先の少年の人生がいいものになることをわしは願っている。そしてもしトンビが飛んでいるのを見る機会があれば変なじじいがいたな、と思い出してほしい。では、元気でな。


 



 読み終わると頭が真っ白になり、しばらくの間呆然としていた。泣きそうになったが、涙が零れることはなかった。じじいが俺に宛てた手紙を持ったまま座り込んでいると、外からピーヒョロロロロと音が聞こえてきて、我に返る。


「じじい……」


 そう呟いて、玄関から靴も履かずに外へ走り出る。上を見上げると透き通るような青空が広がっていた。もう季節はすっかり秋になり、頬をなでる風が涼しい。秋の空は夏のそれより高く見え、雲が点々と存在していた。

 視界に入ってきたのは空と雲だけではない。ちょうどじじいの家の真上に一匹のトンビが飛んでいた。上昇気流を利用して円を描くように滑空しながら地上を見下ろしている。きれいだと思った。トンビを見て、空を見て、そこに広がる世界を見て、そう思った。


 空に吸い込まれるような高い音でトンビが鳴いた。


 ピーヒョロロロロ

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