第八話 木下誕生

 仁平三(1153)年の夏は、いつにもまして暑い夏であった。齢五十を迎えた頼政の体には、これまでにも増して、暑さが堪えるようになってきた。灼熱地獄のようになった都を避け、久々に自邸のある摂津国渡辺荘に戻った頼政は、からかい気味に早太に声をかける。

「おい、早太よ!『鵺』の様子はどうじゃな?」

 しかし、早太から帰ってきた答えは意外なものだった。

「殿、このところすっかりわしに懐いております!どうやらわしのこと、親代わりと思っておるようで……」

 早太はかいがいしく、餌と水を与えている。ケガもすっかり癒えて、毛艶も良くなり前よりもずいぶん肥えた様に見える。


「おお!早太でかしたぞ!以前とは大違いではないか!」

 ひところはひっかき傷だらけだった早太の顔も、元通りに戻っている。

「このところは綱太(頼政の孫、後の源宗綱)様にもよく懐くようになりましてな。あの『鵺』に勝手に名前などつけて、すっかり子分にしてしまわれましてな……」

 早太が目を細めながら話しているそばから、綱太が駆けよってくる。

木下このしたー!木下はどこじゃー!!」


 武家の棟梁たる頼政も、孫の前では一人の祖父に戻る。愛する孫を抱きあげようとするが、綱太はバタバタと手足を振り回して、頼政の腕を振りほどいて走り去ってしまった。

「元気じゃのう綱太は!ところで……『このした』というのは何じゃ?」

 頼政は首をかしげるが、すぐにその答えは彼の目に入ってきた。綱太があの「鵺」を「木下」と呼び、仲良くじゃれ合っているではないか。

「あやつを殿と私が木の下で捕えたとお話しましたら、綱太様が『それでは木下じゃな!』と言われ……あれから邸の者どもも皆『木下』と呼ぶようになりました」

 

「木下……良き名じゃな」

 歌人ともしても知られる頼政であったが、思わずわが孫の名づけに、一族に流れる「歌人の血」のようなものを感じていると、「木下」とじゃれ合う綱太の声が聞こえてくる。勝手に遠くへ行かないようにと頼政と早太がそれとなく見守りつつ、綱太の遊びに付き合っているうち、いつの間にか陽は傾きかけ、嫡子の仲綱の声が聞こえてくる。

「おお!父上探しましたぞ!早くお戻りくださいませ!一族郎党皆待ちかねておりますぞ!」

 頼政自身はすっかり孫に夢中で忘れてしまっていたが、彼がこの日都から自邸へと戻ってきたのは、久々に一族郎党うち揃って、皆で語らい、酒を酌み交わすためでもあった。

 邸へ戻った頼政は、嫡子の仲綱、次男の頼兼らの一族、渡辺競ら郎党たちに出迎えられて、頼政の妻たちが腕によりをかけて作った料理と、この日のために用意した酒に舌つづみをうった。


「しかし父上には敵いませぬわ!帝や公家どもが『鵺』と呼んで恐れた化物を連れ帰って、わが子綱太の遊び相手になさるとは……」

 仲綱もさすがに始めは、鵺を邸で育てることに反対だった。元々帝の命で退治することになっていた化物である。もしそれを密かに養っていることが露見したらどんな罰を受けるかわからないし、そもそも得体の知れない化物を飼うなど……とかなり強硬に頼政に詰め寄ったが、しかし頼政は聞かなかった。

 頼政はあきらめが悪い上に、頑固な男でもあるのだ。

「そなたが初めて木下を見たときの顔、忘れんぞ!一体どんな恐ろしい化物が来るかと身構えておったに、いざ姿を見たら呆気にとられて……」

 仲綱は父にからかわれてバツが悪そうだ。

「武士としては恥ずかしうござる……」

「いや、そなたのような慎重さも、武士には必要ぞ!わしはそなたほど慎重でない故、よくしくじるからな。ハハハ……」

 頼政は仲綱を慰める。頼政の言葉通り、仲綱ほど慎重でない頼政は、老境に差し掛かって後、大きく誤った方向に自ら舵をきることとなる。


 この仁平三(1153)年の夏が、頼政にとってはある意味最後の、気心の知れた人々との水入らずの日々だったのかもしれない。

 こののちの頼政の動きは、齢五十を越した老将とは思えない程激しくなっていく。この三年後に起こる保元の乱、続く平治の乱でも河内源氏の一族郎党を率いてうまく立ち回り、平氏政権に接近していく。

 その甲斐あってか、当時であれば隠居の身となってもおかしくない六十歳を過ぎてから、急激な昇進を見せることとなる。

 しかしその怒涛の出世の陰には、清盛ら平家一門がほしがるものを差し出し、彼らのために率先して汗を掻き、とにかく逆らわず、忠実な同盟者に徹することで、彼らの信頼を勝ち得ていった長い道のりがあったのである。

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源平鵺騒動 虎尾伴内 @torao_bannai

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