とある地獄の入り口
家葉 テイク
第1話
「あれなんでしたっけ、あれ」
親しげな声が聞こえた。
その女は、そんなことを言いながらテーブルの上に置かれたコーヒーカップの持ち手をゆっくりとなぞる。
ほっそりとした指先は、自身の記憶の糸を手繰るかのように頼りなく行ったり来たりしていた。
「…………なんだ、テメェ……?」
そんな女に対し、俺はぽつりと、心の底から不信の感情を乗せて呟いた。
俺にこんな知り合いはいねェ。
いや、それどころじゃなかった。俺はこんな洒落た喫茶店なんかにはいなかったし、そもそも座ってすらいなかったはずだ。
にも拘わらず、気付けば、白くて細っこい、相撲取りが座ればへし折れちまうんじゃねえかって感じの椅子に、自然体そのままって調子で腰掛けていた。テーブルの向かい側にはこの、不気味なほど『平凡』な雰囲気の、どこか見覚えのある女がいる状態で。
「なんだって、あれですよあれ」
女はあっけらかんと笑って、
「あの、生け花で花を留めるヤツ。なんてーんでしたっけー? 喉元まで出かかっているんですが」
「だから! そんなの! 俺が知るかっつってんだ!!」
答えは知ってる。だが、そんなのは今ここじゃあ重要じゃねえだろうが。バイクに乗って気持ちよく風を感じていたはずの俺が、いつの間にかこんなシケた喫茶店にいる。それだけで既に異常事態だ。
こんな女のクソみてぇな世間話に付き合ってる場合じゃねえ!
「おやおや、『クソみてぇな世間話』とはご挨拶ですねぇ。では何故座ったまま話を聞く姿勢なんです?」
そう女に言われて、俺はふと自分の行動を省みた。……そうだ。普通の、普段の俺ならこんな小洒落たテーブルなんか蹴倒して、女の胸倉を掴んで『此処はどこだ、教えねえとブッ殺す』なんて凄んでいたところのはずだ。
そうでなくとも、女のくだらねえ話なんぞ無視して、さっさと立ち上がってどこへなりとも行ってしまってただろう。
なのになんで、俺はこの状況で、当たり前のように呆けてコイツの話なんか聞いてたんだ……? なんで、この期に及んで立ち上がってこの場から立ち去ろうって気分になれねえんだ……?
「そう、この期に及んでも、先輩は私の話を聞くしかできない。目の前にライオンが迫ってきたら、逃げなくちゃいけないと思いつつも目を逸らすことができないのと同じように。恐怖があるからこそ――その恐怖から逃れられない」
恐、怖?
待て、恐怖だと? この俺が? 怖いものなんて何もねえ。親だろうとダチだろうとセンコーだろうと全員黙らせてきた、この俺が? こんな――簡単にへし折れそうなほどに頼りない輪郭のこの女に?
そんなはずねえ――――とは、俺には到底笑い飛ばせなかった。
だって、そうだ。そう――俺は確かに、怖かった。何故だかこの女が怖かった。本当なら今すぐ逃げ出したいのに、コイツから目を離した瞬間に起こるであろう『致命的な何か』がもっと恐ろしくて――だから、この女に話しかけられてから、俺はピクリとも動けていなかった。
「なん、なんだ、テメェ」
「そう。それが正解。今度はきちんと正しい感情を乗せて言えましたね、先輩」
女は、にっこりと笑って、そう言った。
正しい感情。
恐怖を以て迎えられるのが、自分に相対する上では最適だ、と。
「では自分の身の程を知ったところでもう一度クエスチョン。――――あれ、なんでしたっけ? 生け花に使う、針がたくさん立ってるあれ。喉元まで出て来てるんですけど、あとちょっとのところで思い出せなくって」
「そんっ、な…………」
場合じゃねえだろうが、こっちの質問に答えろ。
……なんて台詞が、続かない。生前ならきっと蹴りの一発と共に、中指を立てながら言っていたであろう言葉が。
「………………け、剣山、だろ」
「そう! そうです剣山! 正解! いやぁー不良のくせに博識ですねぇ先輩。これから自分が堕ちるところですからね、名前くらい知ってた方が健全です」
「は?」
女はにっこりと――――しかし引き裂くように嗜虐的な色を含んだ笑みを浮かべて、俺のことを見つめていた。
堕ちるところ、だと? 剣山に? それは……、
「おや、お心当たりがない? そりゃーないでしょう。剣山刀樹といえば地獄ですよ、地獄」
「な、にを……」
「針山地獄とも言います。こっちならインテリジェンスな話題に縁のない先輩でも聞き覚えありますかね?」
「何を!! 言ってやがるんだ!!」
俺は、思わず叫ぶように言っていた。
地獄? 地獄だと? この俺が地獄に堕ちるって? ふざけんなよ、こんな喫茶店から突然地獄に行くなんてあり得ねえし、そもそも俺はまだ死んでねえ!
「死んでない? あー、そういう。先輩ってば可哀想ですねぇ。っていうか、おかしいと思わないんですかね、先輩」
とんとんと、女の指先がカップを叩く音だけが聞こえる。――他の音は聞こえない。車道に面した喫茶店の席で、車の音も、同じように利用している客の声も聞こえない。
「たとえばほら、先輩バイクに乗ってたんですよね? 次の瞬間には私とトーキング。おかしくないですこれ?」
「――――、」
とんとん、という音が途切れた。
――何のことはない。女の指が、カップをすり抜けた。それだけのことだった。そんな出来事がそれだけのことと言えてしまうほど、世界が狂っていた。
「あとそーですね。一見ただの小娘っぽい私に対して恐怖を抱いてしまってるところとか? 何故か席を立とうと思えなくなってるところとか――――ああそうそう、一番デカいところでいえば、さっきからちょこちょこ先輩の心を読んでることとか、ですね」
――――そこまで言われて、俺はようやっと、口に出していない自分の考えにまで答えられていたことに気付いた。
陶器製のカップがべりべりとめくれあがり、蓮の花のような形に変わっていく。
「いやはや先輩ってばお茶目ーっ☆ いやまぁ、必死に忘れよう忘れようとしてるわけですから、そこまで頭が回らなくても当然っちゃー当然かもしれませんがね。そして、心を読んでるからこそ指摘できる最後にして最大の先輩の矛盾ー」
女の唇の動きが、妙にゆっくりに感じられた。
コマ送りのような速さで、蓮の花が無数に広がって行く。
「やっ、やめてく、」
「先輩さっき、生前とか言っちゃってましたよね?」
「――――――――――――ぁ?」
だ、めだ、それ以上聞いては、聞いては聞いては聞いては聞いては聞いては――!!
「先輩。貴方は、バイクの運転ミスって、女の子轢いた後に自分もすってんころりんぎゃりりりりーどぐしゃっ! って感じに死んじゃったんですよ」
。
。 、 !!
「いやー、悲惨ですねぇ悲惨ですねぇ。子供を庇って救った
「お、俺は……」
「しかし、理不尽ですよねぇ。この世の裁定はどうも表面的な部分しか見ていないような気がします。結果的に齎されるモノがプラスなら、内側に渦巻く感情がいくらどす黒かろうと聖人扱いとかー? 逆に過失であっても叩きだした結果がマイナスもマイナスなら即地獄行きとか。お蔭で今私はここにいるんですけどねー」
「……死んだのか…………?」
「だからそう言ってるでしょう、相っ変わらず会話が周回遅れですねー先輩。そして見事聖人殺しを達成した先輩には剣山刀樹の針山地獄をご案内。でもご安心を。剣山刀樹と言っても、刀の葉の樹を登らせたり剣の山を登らせたりするようなことはいたしませんから」
とん、と女が言う。
それだけで無数の蓮の花の花弁が落ちて、後には――――剣山だけが残る。
「それは、在り方の問題。何かを為す為に傷つかずにはいられず、先に進むだけで苦しみ、でもやめることができない。貴方には、そういう在り方で生きてもらう。――この裁定が、閻魔となった私の初仕事ですっ☆」
女は笑いながら、剣山を摘み上げてそう言う。
俺は、ただ茫然と女の顔を見ている。
ああ、そうか。
どうして初対面のはずのこの女の顔が、どこか見覚えがあるのか気になってたが――――そうか。
「さて、それでは地獄では嫌と言う程体験する死亡体験」
女はそう言うと、剣山の底を持って、まるで棘の生えた掌底を繰り出すような形にして身を乗り出す。
「まず一回目。行ってみよう★」
この顔、最期に俺が轢いたあの女に、
ぐしゃっ。
とある地獄の入り口 家葉 テイク @afp
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