第20話 イチゴ大福

 カルメンとの離婚調停から十数年の月日が経った。私は、相変わらず独り身のまま『寿司BAR・カルメン』で働いている。カルメンは、新しい恋人が出来たり別れたりを繰り返している。新しい仕事を始めたり、辞めたりも繰り返している。そして、時々、『寿司BAR・カルメン』でバイトをさせてくれ、と頼みに来る。私も人が足らない時にはカルメンに助っ人に来てもらったりしている。十数年のうちに変わった事は色々あるが、変わらない事はそれ以上に多い気がする。法律上、我々2人はいまだに夫婦のままであった。


 ある日の朝、ニキビ面のハジメが『寿司BAR・CARMEN』にひょっこりと顔をだした。彼が店に入ってきた時、私はひどいしかめっ面をしていたと思う。仕込みに追われてイライラしていたのだ。ハジメはそんな私の顔を見て驚いた様子であった。が、すぐに目をそらし、大またでずんずんと店の中に入って来た。これはいけない、と私は気持ちを入れ替えた。


 「おや!ずいぶんと珍しい人が来たな。こんなにうれしい訪問者ならいつでも大歓迎だよ!」


 と声をかけると、ハジメはうっすらと頬を赤くした。


 「でも、どうしてこんな時間に?学校は?」


 「今日は土曜日だよ、パパ」


 中学生になったばかりだが、父親に向かって無知な子供をなだめるようなしゃべり方をする。肩辺りは相変わらず華奢だけれども、しばらく見ないうちに鼻の下にうっすらとひげが生えていた。新緑の葉を覆う産毛のような柔らかいひげであった。

 

 「小さい頃、ココアを飲むと君は口の両脇にひげができたものだけれども、今でもココアを飲んでいるのか?」


 「うん。飲んでいるよ」


 ハジメは何でそんな事を聞いてくるのか、という顔つきである。


 「あれは大人の飲むものじゃないよ。だって、大人がひげの先っぽにココアの滴がついていたら子供みたいでかっこ悪いだろう? 」


 と言うと、ハジメは手で口の周りを拭った。


 「でも、ココアはうまいからパパもたまに飲みたくなる。だからパパはひげを生やさないんだ」

 

 そんなくだらない話をしているうちに、ハジメの肩の力が徐々に抜けてくるのがわかった。家族三人で暮らしていた時のような笑い声を聞く事もできた。ところが、ママのことを話題にしたとたん、そんな穏やかな雰囲気はたちまち吹き飛んでしまった。


 「ママは元気かい?」

 

 「僕は家出してきたんだ」

 

 「何だって?また家出か!」


 「今度は本気だよ」

 

 「この前もそんなことを言っていたじゃないか」


 「でも、今度こそもう家には帰らないつもりだ」


 ハジメが家出の決意を固めた原因は、カルメンの新しい恋人との喧嘩であった。そいつはえらそうな口を聞く体臭のきついデブで、ハジメは一目見たときから嫌いだった。家の中では殆ど口も聞かず、家にいるときは部屋の中に閉じこもってばかりいたが、ある日その男が自分の部屋に勝手に入っていたことを知り大喧嘩になった。

 喧嘩の仲裁に入ったカルメンに男はこう詰め寄った。

 

 「俺はもう我慢できない。このガキを家からつまみ出さないのなら俺が出て行く」

 

 そこで母親が取った言動は、ハジメを大きく失望させたのだった。

 

 「落ち着いてよ。お願いだから少し冷静になって」

 

 あんな男を引き止めておくつもりなら、僕が家を出て行く。そう決心した、とハジメは瞳を濡らしながら訴えた。

 

 「ママは悪趣味なんだ。嫌な男ばかり連れてくるんだもの」

 

 ママの選んだ悪趣味な男の中にパパも入っているのだろうか?と聞くとハジメは少しだけ笑顔を見せてくれた。


 店のスタッフが出勤してくる時間になった。スタッフの中で一番の古株はコロンビア出身のモデスタである。ハジメは、そんな彼女によくなついていた。今日は何を仕込むのか、とハジメは質問した。


 「そうね、野菜を切って、焼き鳥を用意して、でも、まずはお店の掃除ね」


 「イチゴ大福は?今日は大福を作らないの?」


 「なんだ、ハジメはイチゴ大福はを作りたいのか?じゃあ、魚を下した後、一緒に作ろうか?パパが手伝ってやるよ」

 

 と聞くと、ハジメは飛び上がって喜んだ。本当は大福のたくわえはまだたくさんあって、仕込みは当分必要ないのだけれど、せっかくハジメが来てくれたのだし、気まずい話をした後ろめたさもあったので二人で作る事にした。


 「僕が作ったイチゴ大福は、何人前か持っていっていい?」


 「別にいいけど、友達に食べさせるのかい?」


 「まぁね」


 調理場では他のスタッフの作業のじゃまになるので、私の持ち場である寿司カウンターで餃子を仕込むことにした。大福もちの仕込みは、2週間に一度ほどまとめて行っている。人気がある商品なので、仕込むときは大量に作ることにしているのだ。延々と餡を皮に包む作業は単調で、一人でやっていると時間が立つのがとても遅く感じられる。肩もこる。そのかわり誰かと一緒に仕込むと、不思議と話がはずんで楽しい時間になるのであった。

 

 ハジメも大福つくりを楽しんでいるようであった。きっと、大福を持っていく相手に「僕が作ったんだよ」と自慢するのだろう。何を聞かれても答えに困らないように、材料だの調味料の中身だのいろいろと質問を浴びせてきた。


 「大福は日本の食べ物なの?」


 「どうだろう?中国じゃないのかな?知らないけど」


 「日本って何でも真似するんだね。サン・ジョルディの日も真似してるし。日本で生まれた発明品なんてあるの?」

 

 「そりゃあるさ」


 シャープペンシル、カッターナイフ、インスタントコーヒー、インスタントラーメンなど世界中でヒットした商品は日本人の発明らしい。そのことをハジメに言ったら、一応「ふ~ん」と感心はしていた。だが、それだけでは物足りない様子であった。


 「だってさぁ、何か小さいものばっかりで地味じゃない?もっとこう、何ていうのかな、派手な発明はなかったの?それじゃあカタラン人をあっと言わせることができなそうだもの。なんたってこっちにはサグラダ・ファミリアがあるんだから」

 

 私たちは、日本生まれで世界に誇れるものをあれこれ言い合い、それらを批評しながら大福を作り続けた。ハジメの上げる日本生まれのものは、漫画の作者や映画監督が多かった。おもちゃや通信機器の中に組み込まれて、何代にも渡って地味に世界を支える乾電池などの地味な発明よりも、一代でパッと名をあげた有名人のほうがかっこいいと思う年頃なのかもしれない。

 

 初めのうちは餡をつめすぎて破れることが多かったハジメの大福も、次第に形が揃うようになってきた。自分が作ったイチゴ大福のうちで気に入った物を選って、ハジメは出かける準備をした。


 「そろそろ行かないと」


 「もうちょっと待ってくれ。ここを片付けたら、バイクで送っていくから」


 地下鉄で行くからいい、と私の申し出を断るハジメに無理やりヘルメットをかぶせて向かった先は、モンジュイックの丘であった。何でもオリンピックスタジアムで某アメリカ人歌手のコンサ-トがあるらしい。バイクの後部シ-トで私の背中にしがみついていたハジメは、私のしつこい問い詰めにしぶしぶと事情を説明してくれた。


 何人かの友達とそのコンサ-トに行く約束をしている彼は、ステージ前の良い席を確保するため(立ち席は自由席である)今夜は皆と徹夜で並ぶと言う。


 「でも、君達はまだ未成年だろう?」


 「そうだけど、皆僕より年上の18歳だよ」


 「一体誰だい?」


 「パパは知らない子だよ。コーラスで一緒なんだ」


 「もしも警察官が君たちの身分証明書の提出を求めたりしたら、君だけが追い返されちゃうじゃないか」


 「そのときはそのときさ」

 

 ハジメは不機嫌そうにそっぽを向いた。そしてバイクの後ろに乗った都合上、申し訳程度に私の腰に手を回してはいるが、首が痛くなるのではないかと心配になる位かたくなにそっぽを向き続けている。信号で止まっても、私の顔を見ようともしない。もうこれ以上会話を続けたくない、という彼の意思表示であった。


 一緒にコンサ-トに行くために待ち合わせていた相手というのは、沙羅という女の子であった。かつてハジメと同じ学校に通っていた女の子である。沙羅は、日本人の父親とスペイン人の母親に生まれた混血である。小さい頃は東洋人らしい目の細さと、ヨシダ(YO SIDA=私、エイズ)という苗字のおかげでよくからかわれたらしい。彼女の両親は、ずっと昔に離婚している。つまり、いろいろな意味でハジメの先輩なのだ。


 沙羅は、同級生らしき女の子2人とスタジアムから続く長蛇の列に並んでいた。学校にいる時よりも大人っぽく見えるのは化粧をしているからであろう。女の子というのは、この年頃になると変身願望が沸くのかもしれない。彼女たちはジャラジャラと身に着けた装身具を鳴らしながら、振り付けのおさらいをしているところであった。

  

 「遅いぞ!いつまで待たせるつもり?」


  ハジメの顔を見るなり、沙羅は学校では先生に咎められそうな(先生の中にはいまだに尼さんが多数いる学校である)言葉遣いで怒鳴った。私は沙羅に向かって、「やぁ」と手を上げたが無視された。


 「ごめんごめん。少し手間がかかっちゃって。でもちゃんとおやつを持って来たよ。君の好きなイチゴ大福さ。僕が作ったんだぜ。あとで一緒に食べよう」

 

 ハジメも私も沙羅が喜んでくれることを期待したが、沙羅の反応は思いのほか冷ややかだった。

 

 「わたし、これから友達の誕生日会があるの。せっかくだけど要らないわ。あ!こっちもやっと来た。全く男っていつも女を待たせるのね!」


 沙羅はゆっくりと近づいてくる大型のバイクに手を振った。運転しているのは高級ブランドのジャケットを身につけた青年である。ひとまわり位は年上であろうか。青年はヘルメットを脱ぐと、沙羅とキスをした。キスをしながら沙羅の友達をじろじろと値踏みするような目つきで見比べていた。容姿の恵まれている女友達に好色そうな視線を送っている。うぬぼれている男の典型のような自信に満ちた顔であった。いけすかない野郎である。


 「じゃあ、ハジメ。また明日ね」


 「ああ、また明日」


 みじめな恋の顛末であった。はからずも、息子の恋が目の前であっさりと砕け散るのを見せつけられてしまった。ハジメは地べたに座り、イヤホンをつけて何事もなかったかのように音楽なんぞを聴き始めた。我慢強くやさしい息子だが、容姿はけっして優れているとはいえない。もちろん、その原因の一端は私にある。これからも少なからぬ異性に恋心を抱くであろう彼にとって、残念ながら私との容姿の酷似という遺伝は大きなハンディキャップになるだろう。

 そんな事は、とっくの昔から分かっているさ、とばかりにハジメは平静を装っている。そんな息子の姿を見るのは辛かった。胸が締め付けられる思いであった。


 私はそのイヤホンを彼の片耳から引っこ抜きたい衝動を必死で抑えた。ハジメに聞きたいことがいくつかあった。特に、「今夜は皆と徹夜で並ぶ」と言っていたはずなのに、沙羅の言葉からすると明朝まで並ぶのは今のところハジメ一人しかいない。人を平気で利用するような女に夜食まで作って、お前はどこまでお人よしなんだ、と言いたかった。しかし、傷心の息子にそんなことを言うのはあまりに残酷である。とりあえず、彼が何か話しだすまで待つことにした。


 息子は最初、早くお店に帰りなよと私を追っ払おうとした。それでも私がいつまでも帰ろうとしないと分かると、とうとう観念したのか、しぶしぶと話しをし始めた。


 沙羅達は、明日の朝までここに帰って来ないらしい。と言うのも彼女たちは今朝早くからこの場所で順番待ちをしていて、(彼女たちがハジメの言うほど長い時間並んでかいたかどうかは疑わしい。だが開演にまだ丸一日以上あるにも関わらず、すでにこれだけの若者が並んでいるのは驚きであった)今日の午後から明日の朝までは、ハジメが順番待ちする約束であったからである。沙羅の親は、いくら彼女が18歳とはいっても、徹夜でコンサート会場に並ばせることを許していなかった。だからお人好しのハジメがその並ぶ役を買って出た訳である。


 「君もその歌手が好きなのか?」


 と聞くと手をひらひらさせて、「まぁ、それほどでもないけれど、嫌いでもない」、といった程度であった。私はそんな歌手の存在すら知らなかったけれども、息子と一晩順番待ちをする覚悟を決めた。こんな場所に未成年の彼を放っておく訳にもいかない、ということもあるが、それ以上に息子と一緒にいたいという強い欲望が沸いたからであった。


 のどかな土曜日の昼下がりであった。歩道の縁石に座って秋晴れの街を見下ろしながら、手足を伸ばした。こんな日に仕事をサボって息子と二人きりになるのも悪くないと思った。ハジメは私に背を向けてあぐらをかきながら、用意してきた音楽を聞き本を読んでいる。私は彼のイヤホンを引き抜いた。


 「店は伊藤さんに任せちゃった。パパは今日、臨時休暇をとることに決めた」


 ハジメはあっそ、とうなづいた。


 「一人で並ぶのはいいけれど、トイレとか食事はどうするつもりだったんだ?」


 「席をはずす時は、前後の人に頼むさ」


 歩道の向こうは、小さな公園になっている。ハジメがそちらに目をやったのは、そこで用を足すというつもりだからだろう。うっそうと茂る藪の手前に湿ったコンクリ-ト製のベンチがあった。その上で一組のアベックがいちゃついている。コンサ-トの列に並んでいる若者たちであろうか。巻きタバコの紙を舐めてなにやら一心に巻いている。


 「ここからだと、サグラダ・ファミリアも大聖堂も見えないね。見えるのはティビダボの山だけだ」


 「もうちょっと前に出たら、右手にサグラダ・ファミリアが見えるよ」


 アベックのいるベンチの手前まで行って右手を見ると、碁盤の目のように区画された新市街が見下ろせた。聖家族教会の巨大な尖塔が8本見えた。私がバルセロナに来たときは、確か塔はまだ4本しかなかったはずだ。建設が終わるまで後200年かかる、といわれていた教会だけど、しばらく市内観光をしていないうちにずいぶんと工事のペースが速くなったみたいだ。


 「学校も見えるよ」


 「本当?」


 「ほら、あっちの尖った屋根」


 ハジメはさっと顔を上げ、一瞬だけ街の一方向を指をさした。

 なるほど、その方向をじっと見ていると、あそこがディアゴナル通りにある銀行の大きなビルだとか、あそこから右下に通りを下ったあれがデパートの建物だから、そこから右に伸びた通りに『寿司BAR ・CARMEN』があるはずで、そこから歩いてこの位の距離にハジメの学校があるはずだ、などというのはなんとなく分かる。しかし、彼の言う学校の目印である教会の尖がり屋根は、とうとう確認することができなかった。


 「寿司BAR ・CARMENの隣にある錠前屋さんのマテオを知っているだろう?彼のお父さんが錠前屋さんを始めたころは、あの辺りはほとんど空き地だったって言ってたよ。同じ通りにヤギを飼っていたおばあさんがいたらしい。毎日ディアゴナル通りを上がって、君の学校のそばまで草を食ませに行っていたらしいよ」


 息子は顔をあげた。


 「うそでしょ?」


 「いや、本当らしいよ。今じゃこんな都会の真ん中でヤギの散歩なんて信じられないけどね。よかったら今度、その当時の写真を見せてもらえるように頼んでおくよ。マテオさんの息子のカルロスなんて、若くてまだガリガリだった。笑っちゃったよ。ところでハジメ、恋をする奴は阿呆かな?」


 「なにそれ?いきなり何を言うかと思えば」


 「ハジメは『ドン・キホーテ』を読んだ事がないのか?」


 「ないよ。あんな長い話。どうしてそんなことを聞くの?」


 「ヤギが草を食む話をしてたら『ドン・キホ-テ』の冒頭を思い出したんだ。そこでは、ロシナンテがバビエラっていうエル・シドの馬と餌を食べながらそんな会話を交わしていたのさ。で、キホ-テの馬は、そう聞かれて何と答えたと思う?」


 「さぁ、、、」


 「「あまり賢いとは言えないな」って言うんだ」


 「僕はパパみたいにならないつもりだよ!」


 私の話はハジメの機嫌を損ねてしまったようであった。

  

 「パパとママはお互いに愛し合っていたんだろう?だから夫婦になって店も一緒に始めたんだろう?色んな苦難も2人で乗り越えてきたんでしょう?なのに些細なことでいがみ合ったり、遺恨を残して元の様に戻れなくなっちゃうなんておかしいよ!そんな人たちがいるから、「恋をする奴は阿呆」なんて言われるのさ。僕に好きになった人が出来たら、どんなことがあってもその人を尊重して大切にする。憎んだりしないよ。絶対に」

 

 ***


 やがて夜も更けた。列に並んでいる少年少女たちも、一時の狂乱から覚めてすっかり静かになった。昼間は日差しの暖かかったモンジュイックの丘も、夜になると冷え冷えとした夜気に包まれた。その寒さは肌寒さを通り越して痛いほどである。ただ、真夏であったら活発に活動していたであろうやぶ蚊がいないことだけが救いであった。私はやぶ蚊に好かれる性質なのだ。

 ハジメは寒さに体を丸め、私にもたれかかるようにして眠っていた。両足を抱えるようにしながら、私の胸に頭を寄りかけている。寝息は規則正しく穏やかで、可愛い寝顔であった。

 

 空は透き通った群青色である。幾千もの星がちりばめられた美しい夜空であった。野宿なんて何年ぶりだろうか。列に並ぶ少年たちは、準備よく寝袋や毛布なんぞを用意して寝ている。気持ちよさそうな彼らの寝顔がうらやましかった。私といえば、地面に接しているお尻が冷たくて仕方がなかった。腹も減った。考えてみれば、朝食以降何も食べていない。ハジメに持たせたイチゴ大福が、まだビニ-ル袋の中で手付かずのままでいた。手を伸ばせばハジメを起こさずに届く場所にあるけれど、我慢することにした。無断で食べてしまうのは、息子に対してさらに罪を重ねてしまうような気がしたからである。

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寿司BAR・カルメン 三笠るいな @mufunbetsunamonozuki

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