第19話 CAVAとTEKKAMAKI
離婚調停所に出席する日が来た。カルメンの弁護士が作成したコンベニオ(という種類の書類)は、すでに何ヶ月も前に調停所に提出してある。今日はコンベニオに記載された条件どうりの離婚が認められたかどうか、その審判を聞きに来たのである。
調停所の判が押されれば、そのコンベニオは法的な効力を発揮する。我々夫婦の続柄は解消され、財産は書類に記載されたどおりに分配される。私は決められた額を毎月カルメンの口座に振り込むことになる。息子は母親と同居するが、週何日かと2週間毎の週末は父親と過ごす。他にも、不意の出費は時と場合によって2人の協議を要するとか、どちらかが病気もしくはやむをえない理由で義務を遂行できないときの措置、云々といった細々として決まりがある。これらの事は一度決められたらきちんと守らなければならない。どちらかが勝手に約束を破ったりしないよう、罰則まで設けられているのである。
指定された部屋に入ると、私たちよりも一回り年上と思われる白髪まじりの女性が椅子から立ち上がって私たちを迎えてくれた。この女性が、私たちの離婚調停を担当する判事であった。テレビや映画に出てくるような無表情で冷徹な判事と違い、人懐こそうな笑顔を浮かべるやさしそうな女性に見受けられた。
部屋は、私たち3人の話し合いには広すぎるように思えた。窓が大きく、そこから差し込む朝の光が板張りの壁と床を明るく照らしていた。エアコンが効いていて涼しかったが、普段はあまり使われない部屋らしくい。長い間締め切られていた部屋の匂いがした。判事は私たちを机の前に並んで座らせた。判事の後の壁には、ずいぶんと若い頃のスペイン国王の写真が額に入れられて飾られていた。
「どちらの言葉で話しましょうか?カタル-ニャ語?それともスペイン語?」
「どちらでも」
カルメンはそっけなく返答した。私は片言のカタル-ニャ語は話すが、第二言語はカスティジャーノといわれるスペイン語だ。もちろんカルメンは、その事を知っている。しかし、いつものように私のために「スペイン語でお願いします」とは言ってくれなかった。
判事は大きく息を吐いた。 そして、「こんな事はもうたくさん」というようなうんざりしたような表情を浮かべて、首をうなだれた。 判事は大事な宣告の前に気持ちを集中させていただけなのかもしれない。しかしその様子は、「どうせ別れるのに結婚する夫婦がどうして後を絶たないのだろう?」、と嘆いているようにも見えた。判事は顔を上げ、審議の結果を一気に伝え始めた。スペイン語であった。
「提出された書類に記されているような共有財産の分与を本気で実行しようなどと考えているのなら、このような離婚は到底認められません。私は40年もこの仕事をしていますが、こんなひどい、めちゃくちゃなコンベニオは見たことがありません。あなた達は少し頭を冷やして冷静に話し合う必要があるのではないですか?」
カルメンは早速口答えする。血圧が低めで朝は苦手な人であるが、頭に血が上る速さは誰にも負けない。
「でもこの男性は承諾のサインをしているんですよ。どうして今さら話し合う必要などあるんです?」
「その理由はこちらの紙に書いてあります。とにかく、あなたたちの再調停の申請を少なくとも一年間は受け付けられません。あなたたちはその間にきちんと話し合ってください。その間に和解できて離婚を取り下げるなら、それはそれで結構。それでもどうしても離婚したいと言うのなら、あなた方3人のうち誰も不幸にならないような公平な財産の分配を考えてください」
「あなたはどんな権利があって私たちの離婚にそこまで口出しできるんですか?離婚後の取り決めをどうしようと私たちの勝手じゃないですか」
「あなた方には未成年の息子さんがいるでしょう?その息子さんがお父さんの困窮ぶりを見て苦しまないとでも思っているのですか?」
「どうして父親が困窮するなんて決め付けるんですか?父親が今以上に働けば済むことじゃないですか」
判事の女性は、カルメンの質問にたいして根気強く回答し続けた。判事の言うことは論理的で理屈が通っているように思えた。と言うよりも、そもそもカルメンの要求があまりにも無茶苦茶で、常識外れなのだ。
私は、カルメンの雇った女弁護士が何度も念を押していたことを思い出した。
「本当にこの条件で良いのですね?」
あの時は、女弁護士が家も店も全てを失おうとしている私の行く末を案じてくれているものだとばかり思っていた。しかし、そうではなかったのだ。女弁護士は、こんなコンベニオでは絶対に離婚が認められないことを知っていたに違いない。そのうえで、自分を雇う費用が無駄になるだけではなく、それでも離婚をしたいなら更に弁護士費用が必要になるけどそれでも良い か、という意味で念を押していたのである。
カルメンをちらりと見ると、顔を真っ赤にして怒っていた。とても自分の雇った弁護士の策略を疑う余裕などなさそうである。
「しかし、私はとても辛い目にあっていたんですよ」
「だからと言って、あなた方の息子さんがこれから辛い目にあわなければならない、ということにはならないでしょう?」
「息子はもう大人です。すべて理解してくれます」
「私たちは、何も離婚に反対する立場にいるわけではありません」
判事は諭すような口調で言った。
「離婚をして夫婦が別々に暮らしたしたほうが、子供達にとってより大きな不幸を防げる場合もあるんですから。ただ、私達の立場として、一つ一つのケ-スをじっくりと検討しなくてはならないことを理解して欲しいのです。特にあなた方のように繊細な年頃の子供がいる場合は、慎重に対処しなくてはなりません。感情的になって自分達の責任を見失うような事があってはならないのです。離婚と言うのは、決して相手に対する仕返しであってはならないのですから」
判事は外人の私にも分かるように、口を大きく開けて一語一語はっきりと発音してくれた。まるで小さい子供に大事なことを説明している母親のようであった。
そんな判事の話を聞いているうちに私は恥ずかしい気持ちになった。私たちは感情的になりすぎて、何か大事なことを見落としているのではないか。このままでは取り返しのつかない間違いを犯してしまうのではないか。そんなことを問い正されているような気持ちになった。私は思わずうつむいてしまったが、隣に座っているカルメンの怒りは沸点に達していた。
「バカバカしい!いまさら何を言っているの?私たちが話し合って決めた内容は、もう何ヶ月も前にあなた達に提出しているじゃないの!それをずっとほったらかしておいて、今になってそれはダメ、認められないだなんて。一体どんな権利があってそんな事を言えるんでしょう?信じられない!」
「私たちはあなた方の要求があったから、提出されたコンベニオの審議をしただけです。何かご不満があるなら。窓口に抗議書を提出なさってください」
「離婚調停がこんな無意味な事だとは知らなかったわ。分かっていたら初めからそんな要求などするもんですか。こんなことは、単なる時間の無駄ですからね」
判事はカルメンの顔をあきれたように見ただけで、もう何も言わなかった。かなり気分を害してしまったようである。友好的に話合いを終えようとする努力など、完全に放棄してしまったようであった。
昔、カルメンとの婚姻届けを受け取ってくれた判事も女性だったが、今から考えると離婚届けを受理する役目の判事に比べるとずいぶんと楽しそうな仕事である。好きでくっつくこうとする2人相手と、嫌いで離れようとする2人相手では雰囲気がまるで違う。もちろんカルメンのような極端な要求をする人ばかりではないだろうが、些細な事で険悪な話し合いになるであろう事は容易に想像できる。そもそも、利害で対立する二人を納得させる事自体、困難な話である。
カルメンは大きな窓に向かってぶつぶつと独り言を言っていた。判事はそんなカルメンを老眼鏡越しに睨んでいる。一言でも侮辱の言葉を発したら容赦しませんよ、というように唇を一文字に結んでいる。そして分厚いA4サイズの書類の束をトントンと机の上で揃えていた。それは、今にも敵に突進しようと、前足で土を払う猛牛の動作を思い起こさせた。
誰かが扉を叩いた。めがねをかけた若い女性が朗らかな笑顔を浮かべて部屋に入って来た。
「お話中ごめんなさい、コンチ。ちょっといいかしら?」
「ご心配なく、チャーロ。こちらの件はもう終了しましたから」
判事は一方的に私たちとの面談終了を宣言した。 勝ち誇ったような判事の顔が、生き生きと輝いている。彼女のまぶしい笑顔に見送られて、私たちは部屋から追い出された。
もしかしたら、判事が書類を揃える音は人を呼ぶ合図だったのではないだろうか?出口に向かう途中、そんな疑念が浮かんだ。面談の相手が難癖をつけてきたりからんできた場合に備えて、あらかじめ助けを求めるサインが決められていたのかもしれない。チャーロと呼ばれる若い女性が部屋に割り込んで来たが、それはあまりにもよいタイミングであった。カルメンは、そんな印象を受けなかったのだろうか?
殺風景な階段を降りて行く間、カルメンはまるで私など存在していないかのように無言であった。とてもそんなことを聞いてみよう、という気にはなれなかった。
結局、私達の離婚は認められなかった。少なくとも一年間は夫婦のままである。私は、お互いに頭を冷やしてもう一度じっくりと話し合うには、よい機会だと思った。調停所からバス停がある大通りまで、我々は公園に沿って歩いた。
「ところで、税務署や業者から督促状が店に届いているけど、君達の店は大丈夫なのか?」
「もう店は閉めるわ。あの人はお金を持って逃げちゃったし」
「何だって!」
カルメンはその公園の隅で立ち止まった。そこには柵に囲まれたオリーブの老木があった。何かの記念樹のようである。バルセロナ市役所の刻印が入った説明のプレートが掲げてある。カタル-ニャ語とスペイン語の併記であった。
“偉大なるカタルーニャの詩人 JOAQUIM BOFILL PELLICER、市民戦争の最中にこの木の下で銃殺される。その後、このオリーブの木は1938年のバルセロナ空襲にも、1954年の大火事にも生き抜き、『奇跡のオリ-ブ』として市民の有志団体に保護され続け今日に至る。1991年、バルセロナ市長から市の保護樹木に指定された”
この名誉ある市の保護樹木には2つの幹があるように見えた。しかし、根元の部分は一本である。それが後に二つに別れ、それぞれ好きな方向に伸びている。それでいて、別方向でそれぞれの成長期を過ごした後、枝分かれしていた2本の幹は再び一本の木に戻ろうとするかのように枝を絡ませているのだった。おかげで幹の中央はOの文字のようにぽっかりと空洞になってしまっている。しわくちゃの樹皮は煤けて真っ黒であった。
カルメンの店が上手く行っていない、という事は知っていた。しかし、カルメンがそれ程不幸な目にあっているとはちっとも知らなかった。私はカルメンに提案した。
「なぁ、俺たち、やり直せないかな?「寿司BAR・カルメン」は君と僕の店だろう?二人で続けていかないか?」
カルメンは私から目をそらし、オリ-ブの枝越しに降り注ぐ朝の光に目を細めた。
「終わりよ。何もかも」
私にはカルメンが何を指して終わったと言ったのか、分からなかった。長きに渡った調停が(結果はカルメンの望む所ではなかったとしても)一段落した事を言っているのか、それとも彼女が恋人と始めて失敗したレストランの事を言っているのか判別できなかったのである。カルメンの言葉には時々主語がないのだ。
カルメンは、公園の反対側にある建物に視線を移した。その方角からは、先ほどから小さな子供達の声が聞こえてきている。どうやら保育所があるらしかった。
長い夏休みが終わって、今日から新学期である。久しぶりにクラスメ-トと再会してバカ騒ぎする子供達がいるかと思えば、親と離れ離れになるのを拒んで泣きじゃくる子供もいた。そんな子供達をなだめたり、いさめたりするお母さん達の声も聞こえてくる。私達の息子ハジメは、初めて保育園に通い始めた日から一度も泣いたことはない。昔から忍耐強い子供であった。
「店まで僕も一緒に行くよ」
バスが大きな車体をゆらゆら揺らしながらゆっくりと停留所に近づいてきた時、私はなんとなくカルメンにそう言った。特に他意はなかった。問題のある提案という意識も全くなかった。同じ方向に行くのなら途中まで一緒に行こう、というただそれだけの誘いである。
しかし、その提案に対してカルメンの示した拒絶は凄まじかった。ステップを登りかけた私の肩を振り向きざまに突き飛ばしたのである。地面に尻餅をつこうとする瞬間、運転手の乗車チケットをちぎる手が止まるのが見えた。
「バスに乗りたいのなら、他のに乗って!」
バスはそれほど混雑していたわけではない。奥に詰めてもらわなくてもまだまだ乗客を乗せる事ができそうであった。しかし、私が突き飛ばされるのを見ると、バス停に並んでいた人達はもう乗車する意思を失ってしまったようであった。カルメンは人を押しのけて、あっという間にバスの中に消えていった。
発進しようとウインカーを点滅させているバスの後姿を見送っていると、後部のガラス越しにカルメンの大きな体が見えた。最後列の席に近づこうとしている所であった。若い学生風の女の子が二人が、同時にシートから立ち上がるのが見えた。どうやらカルメンはまた席を譲られたようだ。
カルメンは昔からよく席を譲られる女であった。下っ腹がぽっこりと出ているせいで、よく妊婦と間違えられたのであった。私はそのたびに笑いをこらえねばならなかった。笑ってしまうと、カルメンから激しく怒られるからである。
しかし、まさかこの年になって妊婦に見間違われることはあるまい。だとすると、あの学生風の女の子たちは、怒ったような顔をして近づいてくるカルメンに何か注意されるとでも思って逃げ出したのだろうか?どちらにせよ、幾つになってもよく席を譲られる女だ、などと思っているうちに、私は急に悲しい気持ちになった。
「男として守れなかった物のために、女のように泣くが良い」。アルハンブラ宮殿を追い出されたボアブディルに母親が吐き捨てた言葉が思い浮かんだ。きっと私は、その時のボアブディルのように情けない顔をしていたと思う。
カルメンを乗せたバスは、次第に遠くへ離れて行った。
***
カルメンからは今日一日予定を入れないように言われていたけれども、その用事は30分ほどで終わってしまった。今日は急ぎの用もない。私は、開き直ったような、自棄になったような、それでいて何処か晴々とした気持ちで教会前の広場に立ち、そこから枝分かれしているいくつかの道を眺めた。そして、そのなかで一番細くて狭くて暗い道を選んで進むことにした。
その道はいまだにアスファルト化されておらず、古い石畳が敷かれていた。石畳はどれも黒光りしていて、角が擦り切れて丸くなっていた。道は平坦ではなく、所々にうねるような起伏があった。
旧市街の細い道をブラブラと目的もなく歩くうちに、この近くには昔カルメンとよく行ったシャンパネリアがある事を思い出し、そこで朝食を取ろうと踵を巡らせた。あの店でロゼの発泡酒を飲むことは、新しい人生の第一歩を始める今日のような日にふさわしい気がしたのである。
「カバをもう一杯!」
シャンパネリアは昔とちっとも変わっていなかった。古いカバ樽も、しみだらけのカウンターも、おがくずだらけの汚い床も、店内に漂う古いワイン蔵のような匂いまで当時のままである。カルメンとよく通った頃を思い出しながら、懐かしい気持ちで杯を重ねた。カバも相変わらず甘ったるい安酒であった。このたちの悪いカバは何杯か飲んでいるうちにろれつが回らなくなってくる。
このシャンパネリアで働くスタッフは、ほとんど知らない人に代わっていたが、一人だけ顔見知りのおじさんが残っていた。体格は立派になり、額の生え際も薄くなったが、強いアンダルシア訛りはちっとも変わっていない。彼は私のことを覚えていてくれた。
「キタオ!久しぶりに帰ってきたと思ったら、朝からずいぶんご機嫌だねぇ。よっぽど良いことがあったんだな?」
「良いこと?そうであって欲しかったよ。実は今、調停所に行ってきたところなんだ。離婚の調停のためにね」
「何てこった!お前たち離婚するのか?そりゃ大変だな、キタオ。俺も離婚を経験したけど、あんなややこしいことはない。でも、やけになっちゃダメだぞ。こういうことは辛抱強くやるに限る。よかったらいい弁護士を紹介するよ。困ったことがあったら何でも言ってくれ」
この街で何十年も生き残っている小さなバーやレストランには、共通の要素がある。うまい、安いといった要素はもちろんのこと、そういう店には、会いに行きたくなるような魅力的な人がいるのだ。人々がバーやレストランを選ぶ基準はまちまちだが、同じような条件なら、知り合いがいる店、気が合う人間がいる店に行きたいと思うのは人情であろう。そんな常連客たちとの絆を大事にすることは、我々のような小さな飲食店にとって不可欠である。
カルメンは私のそんな考えに不満を持っていた。どうしてそんなに客を甘やかすのか、とよく愚痴をこぼしたものである。私にはそんなに優しく接してくれないのに、と客に対して焼きもちを焼くのだった。
カルメンによると、私は典型的な臆病日本人の見本に分類されるらしい。表面的には働き者だけど、それは自分が何か失敗をしでかしたら世間の村八分にされるのではないか、という恐怖からの勤労意欲であって、決して自発的な行動ではない、というのである。
とにかく、もうそんな愚痴を聞かされることもなくなってしまった。
「スペイン女は、情熱的といわれているけれど極端なんだよ、アミ-ゴ。連れ添った相手をとことん愛するか、とことんやっつけるかのどっちかだからな。ところで君は、自分の弁護士を雇ったのか?」
カウンタ-の隣にいた男が話しかけてきた。年齢は60歳前半くらいだろうか。はじめは何処かで知り合いになった男かと記憶をたどったが、こんなもじゃもじゃ髭をたくわえた顔は、見覚えがない。酔っ払っているようには見えないが、寂しがりやで話し好きのおじさんなのだろう。ややこしい男に絡まれてしまった。
「いいえ。妻が雇った女弁護士に任せました」
「女弁護士!それはいけない。君は破産させられるぞ。一体どうしたら君一人で女二人に立ち向かおうなんて考えが浮かぶんだろう?もとはといえば、結婚なんかしたのが間違いの始まりだね。だから俺は一度も結婚なんかしたことがない。これからも絶対にしないさ。女とは仕事上の付き合いも一切しない。女は信用できないからね」
無神経な髭男は、隣にいたご婦人たちにわざと聞こえるように大声でしゃべっている。おかげで、私までご夫人たちからの軽蔑のまなざしにさらされてしまった。
男の顔の下半分はもじゃもじゃの髭に覆われている。顔の中で肌が見えるのは、おでこと鼻と目の周りだけである。黙っていると口はどこに隠れているのかまったくわからない。ただ、息苦しそうな呼吸の音が聞こえるだけである。よほどの愛煙家なのだろう。鼻の下辺りの髭が、茶色く変色していた。
「だけど、心配するな。君は僕のような人間に出会えて幸運だよ。僕が相談に乗ってあげよう。僕は弁護士なんだ」
カウンターの中で髭男と目を合わせないようにしていたウエイターが、声を殺して笑っている。彼らが小声でこんなことを言っているのが聞こえた。
「おい、今日は弁護士になったぞ。この前はロシアのスパイだって言ってたのにな!」
「ご親切にどうも。でも僕らの話は大体かたがついたんです。では、失礼。そろそろ行かないと」
私は何とかこの場から逃れたかったが、髭男はしつこかった。一杯おごるからもう少しだけ居てくれ、と私の腕を掴んで離さない。それでも私が断り続けていると、振ってくる話は急に下ネタになった。
「じゃあ、一つだけ教えてくれ。日本人の睾丸は、スウェーデン人の睾丸の4分の1の重量しかないというのは本当か?」
「は?睾丸の重さなんて興味が無いので量ったことがありません」
「日本人てのは、割礼するのか?モーロ人みたいに」
「すいません!いい加減に腕を離してくれませんか?私は行かねばならないんです」
自称弁護士の髭男は、ようやく私を解放してくれた。しかし、レジに行って支払いをしようとしている私の耳元であろうことか、「♪タンタンタ~ヌキ~の、、」という歌を歌い始めた。日本人なら誰でも知っている戯れ歌である。バルセロナで、しかも外人からこんな歌を聞かされる事になるとは思ってもいなかった。余計な事を教える日本人がいるものである。不覚にも、私は声を上げて笑ってしまった。髭男が再び私の腕を引き寄せ、耳元でささやいた。
「お前の家に招待してくれないか?」
「何で?」
「何でって、一緒に楽しい時間を過ごそう、って言ってるんじゃないか。君もこっち側の人間(同性愛者という意味)だろう?分かっているくせに」
「離してくれ!」
ウエイターから差し出されたレシートを受け取ろうとして、床に落としてしまった。拾おうとしてかがんだ瞬間、尻に激痛が走って飛び上がった。テーブルの角か何かに尻をぶつけたかと思って振り向くと、髭男が葉巻のカプセル状のケースを手に持って笑っている。ケースにはモンテ・クリストと書いてある。カルメンとの結婚式の時に、参加者に配ったのと同じ葉巻であった。
「どうだい?なかなかの命中率だろう?」
髭男はさらに私を挑発した。こやつは空手の型を模し、カンフー映画のような叫び声を挙げ、ご丁寧に指先で両目尻を吊り上げて東洋人の細い目を真似て見せたのだった。
全身の血が逆流した。髭男を突き飛ばしてつかみ掛かった。テーブルがひっくり返り、コップや皿が落ちて割れた。怒号や女性の悲鳴が響き渡った。そこまでは覚えている。
ところが、その後のことはまったく記憶に無い。髭男ともみ合っているうちに脳震盪を起こしたらしい。気がつくと床の上で伸びていた。どうにか家に帰ることはできたが、どのように家に帰ったかも覚えていない。片目は青紫に腫れ上がり、頭がずきずきと痛んだ。翌日は一歩も外にでなかった。
数日後、シャンパネリアのスタッフと市場で偶然に再会した。私を覚えていてくれた、あのアンダルシア訛りのおじさんである。私は気がつかなかったが、彼も同じ精肉店から仕入れをしていたのだった。以前にも何度か市場で私の姿を目撃していたらしい。
マノロ(それが彼の名前であった)は、肉屋の主人に先日のエピソードを披露した。私は穴があったら入りたいほど恥ずかしかった。
「いやぁ、驚いたよ。いつも店じゃ大人しくて、虫も殺さないような顔をしていたこの男が、いきなりそいつにつかみ掛かったんだもの。「お前なんかTEKKAMAKIにしてバルセロナ港に沈めてやる!」ってその男に向かって叫びながらな!」
私は鉄火巻きではなく、簀巻きと言ったはずだった。しかし、それが何なのかを知っているスペイン人はごくわずかであろう。理解してもらえなかったとしても不思議ではない。
マノロによると、私はすっかり常軌を失っていた、とのことであった。誰かが止めなければ、本当に髭男を殺めかねない勢いだったらしい。肉屋はそんな話を聞いて、目を丸くしていた。.
「彼が?とても信じられない!」
肉屋の親父は、哀れむような顔つきで私を見た。
私はそれまで、自分を常識のある人間だとばかり思っていた。しかし、そんな自分の体にも獣のような凶暴さが潜んでいたのである。知らない間に心の中に鬼が住み始めてしまったのだろうか?
シャンパネリアでは、幸いにも大事には至らなかった。誰にも怪我をさせずに済んだし、私も軽い怪我をしただけであった。だけど、あのような激しい怒りにかられるような事は二度とない、と言い切れるであろうか?もしそうなったら、今度は自分を抑える事ができるだろうか?自暴自棄になって歯止めが効かなくなるのではないか?そんな事を考えると、とても恐ろしい気持ちになってしまうのだった。
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