流星戦はテレビ棋戦なので、持ち時間がほとんどない。それでも最近の将棋は序盤がシステム化されているので、最初のうちは特に考えることもなくさくさくと手が進むことが多い。そしてそれはトップアマにとっても同じ事で、横歩取りの難しい将棋であるにもかかわらず、誠二の手つきには何の迷いも感じられず、つい先日指されたばかりの最新型をそのままたどっていく。これでは一体誰を相手にしているのかも忘れてしまいそうだ。

 このままでは淡々とした作業になってしまう。それを避けるためふと視線を上げると、誠二の顔がまるで以前と違うことに、初めて気が付いた。まずその髪は薄い茶色になっていたし、耳にはピアスが光っているし、首元にもネックレスが見えるし、しかしそんなことより何より、以前のような鋭い視線がまったく影を潜めていた。誠二はもう、昔の誠二ではない。そんな当たり前のことに、今ようやく気が付くことが出来た。

 僕が将棋という閉じられた世界に縛られている間、誠二は社会というごく当たり前の世界の中で自分を磨いてきたのだろう。僕にとっては、将棋が全ての生活だった。将棋に負ければお金がもらえない、単純なことだ。

 8五飛車戦法、山崎流。もう何十局指されたか分からない、ありきたりな革命的戦法。まだ僕は、自分の頭で考えた手を一回も指していない。どこかで歯止めを掛けなければ、おもしろい将棋になんてなりっこない。おもしろい将棋? 僕は何を考えているんだろう……。ここはプロの将棋の場だ。そして僕は、誠二のポリシーに付き合う必要がない。

 僕は、何に捕らわれているんだろう。今は、目の前の将棋にだけ集中すればいいはずなのに。誠二が、僕を狂わせはじめている。

 突如、盤面が暗転した。全く予想になかった一手が局面を乱す。プロには指せない、大胆な着手。常識通りに対応すれば、こちらが悪くなる道理はない。

 これが、誠二の目指していた将棋なのか。そしてそれでいながら、アマの頂点に立てたというのか。

 秒読みの声がやけに鼓膜にまとわりつく。30秒の猶予などほぼ何もないに等しい。ほとんど直感に頼るしかない。いや、本当は意地だ。意地だ。僕は勝ちたい。嫉妬している。天才を無駄にした彼を、それでも輝いている彼を妬んでいる。

 当たり前の一手を、29秒で指した。ひどく、落ち着いた手つきだと、自分でも思った。




 新手を思いついたと浮かれていた日がある。プロは何故気付かないのか、僕はなんて頭がいいんだろう、すっかり有頂天だった。

 その場にいた誰もがその手を認めてくれた。けれども、その後部屋に入ってきた誠二は盤面を見つめるなり言った。

「2二銀でつぶれてるね」

 検討は続いたが、確かに2二銀で駄目になっていた。僕の新手は、プロに知られることもなく葬り去られた。

 そのときからだろうか。僕は自分の才能を信用しなくなった。ひたすら訓練して、他人の手を研究して、置いていかれないように、しがみつけるようにと努力してきた。事実、プロになってもかろうじて勝ち越しているし、僕はまだ何とかしがみつけている。けれども、日々襲いくる虚無感はどうしたものだろうか。もしそんなことでいいのなら……ただ生きていくために、お金を稼ぐためにだけなら、将棋指しなんて野暮ったい職に就くのは馬鹿馬鹿しいではないか。勝負の世界に身を置くからには、一発何かをしてやろうというのが当たり前ではないか。そして今僕の前には、プロを5人も倒そうと挑んでいるアマがいる。誠二は僕の姿勢に疑問を投げかけるため、そのためにわざと悪手を、けれどもひどく魅力的な手を、僕に対してぶつけてきてくれたのではないか。馬鹿げているが、そんなことさえ考えてしまう。

 予想通りの手順が進められていく。こちらが少し指しやすい形勢は変わらない。しかし思った以上に差はないのかもしれない。一瞬の気の緩みが、即負けへと直結してしまう。パタパタという音が聞こえてくる。いつのまにか扇子を取り出した誠二は、ゆっくりと自分の頬に風を送っていた。余裕なのではない。こういうときの誠二は、たいてい汗を掻き始めているのだ。変わらないその姿に、奨励会時代の熱さが思い出されてくる。今僕は、本物の将棋を指している。絶対に、負けたくない。

 誠二の細い腕が、ぐっと伸びる。再び予想だにしなかった、最強の一着。くらくらするような、わくわくするような、凶暴な快感が僕の全身を駆け巡っていく。何かある。これに答えるだけのすがすがしい一手が、絶対にある。

「10秒」

 平凡な受けは許されない。そうすれば狙いの一手が飛んできて、たちまち玉は上部に引きずり出される。

「20秒」

 攻めだ。攻めなければいけない。しかも最強の攻めだ。秒読みは更に進んでいるが、僕にはもう道標が見えている。これだ!

 記録係の息を呑む音が、はっきりと聞き取れた。誠二の扇子も頬の横でじっと留まっている。どうだ、と言わんばかりに睨みつける。これが、天才に生まれなかった人間の、努力の末の一手なんだ。

「そうか……」

 誠二の唇から呟きが零れ落ちた。しかし再び扇子が揺らめき始め、天才の脳は回転を取り戻したようだった。駒台から持ち上げられた駒は……

「そうだよな……」

 更に想像を絶する、とんでもない攻めの手だった。もはや、寄せ合いしかない。守りの手など入れる余裕はない。胸の高鳴りはおさえられない。なぜだろう、こんな将棋なら、何回でも指したことがあるのに、相手が誠二だというだけで、涙が出るんじゃないかと思えてくる。おもしろい。少なくとも僕は、今最高におもしろいと感じている。

 数手進み、僕の王と誠二の玉は、敵に攻め込まれ風前の灯となっていた。そして僕の手番。どうやって寄せればいいのか。ひょっとしたら詰みがあるのか。直感は詰みがあると伝える。しかし詰めろでも勝てそうな気がする。大体僕の玉は詰むのか? 直感は詰まないと答える。しかし詰むような気もする。

 分からない。何が正解か、どこまで読みきれているのか、全くわからない。そう、ならば賭けてみるしかない。秒読みの声が突然現実味を帯び、僕に着手を促す。詰む。敵玉はすでに討ち取られている。

 ノータイムで玉を逃げる誠二。いつだってそうだった。読みきれていようがいまいが、自分の信念の元に駒を動かすのだ。僕に考える暇を与えようとはしてくれない。天の才だけで、この場を乗り切ろうというのだ。

 もう、引き返せない。詰ます以外に、勝ちはない。ただ、正確な順がまだ見えない。終盤力だけなら、今では、僕の方が優れているはずなのだ。けれどもこの局面、今このときに詰みがあるかどうかだけは、神の気紛れに左右されているのではないかと思える。

 五割一分だ。僕が勝つ確率は、これまでは五割一分だった。それは誠二に対しても変わらない。そしてこの局面でも。なおも逃げ続ける誠二玉。桂馬を捨てれば上部脱出が防げそうだが……しかし駒が一枚足りなくなる気もする。捨てるのか、捨てないのか……二つに一つ……

 かつて、僕の憧れていた棋士が、同じような局面で桂馬を捨てて負けた。けれどもそのことについて感想戦での言及はなかった。誰もが、そちらが正しいと感じていたからだ。たった一言、「こちらの負けでしたね」と対局相手が言い、感想戦は終わった。

 捨てないべきなのか。それでも僕の手は、駒台から桂馬をつまむ。詰むはずだ。いや、詰まなくてもいい、この手が見えてしまった時点で、勝負はついているはずだ。この妙着が、正しいか正しくないか……全てはこれで決まる。

 いやに乾いた音だった。歩の頭に打たれた桂馬。誠二の動きが止まった。そのあと一度、桂馬を取ろうと歩に手を伸ばす。そして思いとどまり、手を引っ込める。そのとき、僕にも全てが分かった。桂馬を取れば、ぴったりの詰みだ。しかし取らなければ、簡単な詰みだ。

「負けました」

 誠二の頭が、ゆっくりと下がってくる。僕も、軽く礼をする。驚くほど、心が落ち着いたままだった。そうさ、所詮、アマ一人に勝っただけの事に過ぎないじゃないか。勝って当たり前じゃないか。

「完敗でした」

 誠二は以前と変わらぬ笑顔で僕の方を見つめていた。僕は今、自分がどんな顔をしているのかよく分からない。

「でも、おもしろい将棋でした」

 少しだけ、口許が緩むのが分かった。ようやく、昔の友人とちゃんとした再会を果たすことが出来た気がした。

「ああ、おもしろい将棋だった」

 解説者の先生と、聞き手の谷田女流二段がやってくる。誠二は照れくさそうに、目を伏せた。




 家に帰ると、止め処もなく涙が溢れてきた。どうしようもなかった。僕がなくしてしまったものは、なくした頃と同じように輝いていた。おそらく、今日を最後に、二度と僕の前に対峙することはないだろう。けれども、今日僕は、新しい大切なものを手に入れたと思った。それは、危険な賭けかもしれない。でも、天才少年が果たせなかったことを、凡人の僕が達成できるとしたら、非常に痛快ではないか。

「ありがとう」

 この一言を、結局本人には言わないままだった。それは、僕が名人戦でおもしろい将棋を指すまで、お預けだ。


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五割一分(Standard) 清水らくは @shimizurakuha

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