五割一分(Standard)

清水らくは

 時が、眩暈を呼ぶ。

 僕の前に座っている、あいつ。あの頃と同じように、下座につくあいつは、やっぱり少し、歳をとっていた。

 かつての天才少年は、最強のアマとして、僕の前に姿を現した。平凡なプロとなった、僕の前に。




 地方の道場で地味に将棋を指していた僕にとって、小学生名人の誠二はまるで違う次元の人間だった。奨励会の入会試験を全勝で通過し、3級までは全く無駄星なしで昇級していった。同時に入った僕は、勝率自体は悪くなかったものの昇級の一番に弱く、5級に上がるのにも丸一年かかってしまった。

 僕と誠二は歳も一緒だったし、同じ九州の人間ということで仲が良かった。そして誠二は常に、僕の憧れであり目標だった。史上三人目の中学生棋士を期待される男と、なんとなくプロを目指して奨励会に迷い込んでしまった男。僕ら二人は、あまりにもアンバランスだった。

 誠二が三段リーグ(ここを抜けると晴れてプロになれる)に入ったのは、僕がようやく初段になった頃、二人が中2の時だった。その頃は僕も調子が良く、中学生のうちに段位者になれたのは嬉しい誤算でもあった。それでも誠二を前にしては、遅れをとっている、そう感じずにはいられなかった。いつのまにか僕は誠二をライバルとして見るようになっていたし、事実おかげで実力以上のペースで強くなることができた。それだけに、彼がプロになってしまうのが少し恐かった。例えどれだけ段位が違っても、同じ部屋の中で対局しているからこそ誠二を感じることができるのだ。彼がプロになってしまえば、二人の関係は先生と坊主に過ぎなくなってしまう。最悪の場合、僕は彼の記録係にならなくてはならない。

 早く誠二に追いつかなければ。その思いでいっぱいだった。口では「誠二、早く上がれるといいな」と言ってはいても、心の中では「俺が行くまで絶対に待っていろ」と思っていた。でも、本当に僕が三段になるまで彼が待っているとは信じられないことだった。

 天才少年は思い悩んでいた。将棋の中に情熱を感じられなくなったと言っていた。才能だけで勝ち越すことは出来ても、選ばれし者になるにはあまりにもテンションが低すぎた。他の少年達も、三段まで這い上がってきた天才達なのだ。いつのまにか、誠二の名前は僕よりも下にあった。

 高三に上がる直前、三段リーグを終え、誠二は奨励会を退会した。そして僕は、次期三段リーグを勝ち抜け、プロ四段になることが出来た。誠二のいない奨励会は、僕にとっては全く活気のないものに見えた。何の皮肉か、その思いが僕をプロへと押し出してくれた。




 あれから5年。僕ももう二十三歳になる。段位は五段になったものの、順位戦はC級2組から上がれず、勝率も毎年五割前後、誰からも注目されない、中途半端な棋士になってしまった。リーグ入りも一度あったものの全敗、早指しではいつも予選落ち、タイトルホルダーとはまだ一度も対戦がない。

 その僕が、にわかに注目を浴びている。流星戦Bブロック、第5回戦。ここまで4連勝で本戦入りを狙うのは、アマチュア枠から出場の大沢アマ……誠二だった。

 アマ初の5連勝なるか、そして奨励会時代のライバル対決、色々な話題だけが先行して、アマと下っ端五段の対決を多くの関係者が見守ることとなった。取材も多く、心なしか他の若手達の視線もいつもより多い気がする。

 背広姿の誠二は、僕よりも大人びているように思った。大学にも入らず、小さな企業で働いてきた彼は、僕よりも必死に生きてきたのかもしれない。果たして彼に負けは許されただろうか。僕のように半分は負けても、年にたった十数回ほど将棋に勝つだけでも生きてこれた人間が、今彼より輝けている保証などどこにもない。

 そう、白状しよう。僕は初手を指す前から、震えていた。いや、この対局が決まったときから……彼が僕と同じブロックに入ったときから、心底恐怖していた。自分よりも才能のある者が、自分よりも下から這い上がってくる。これが恐怖を呼び起こさない理由も思い浮かばない。天才は、どこまでいっても天才だ。現に彼は並み居る強豪アマを撃破して、そしてプロですら四人も倒してしまった。彼は僕より強かった。ただ誠二は、プロにもまれた経験をもたない。ただそれだけが、僕に有利に働いているような気もしたが、けれども、何の意味もないように思えた。将棋を知らない人には説明しにくいが、しかし、天才とはやはり選ばれた人間なのだ。どれほど僕の方が基本的な強さを手に入れたとしても、天才にしか見えない一筋の道は、一生見出すことが出来ないと感じられる。どれだけ僕の培ってきたものをぶつけても、どれだけ彼を圧倒していたとしても、誠二にしか見えない天才の一手で、僕は負けてしまうかもしれない。

 気が付くと僕は、いつもどおりに駒を並べ終わっていた。いつもどおりに整然と前方を向く二十枚の駒に、誠二の駒もきっちりと対峙している。

「お願いします」

 同時に頭を下げる、僕と誠二。顔を上げ、誠二のことを睨みつけた。僕が目指していた輝きは、未だに光を携えたままだった。いつのまにか、震えもやんでいた。




 奨励会員は、忙しいときもある。

 月二回の例会のみならず、普段のプロの対局の記録係や、タイトル戦の記録係もある。特にタイトル戦の場合、地方への遠征となるので二日間学校を休むこともざらだ。まあ、わかっていて希望するのだからさぼる気満々である。

 昔のことだ。誠二が記録係を務めるタイトル戦、地元から近い場所での開催ということもあり、僕も見学に行くことになった。高校のほうはもとよりサボりぎみだったし、今更一日二日欠席が増えても、と少しやけ気味で僕は出かけていった。

 タイトル戦自体は凡戦だった。当事五冠を有していた羽根名人が、全く隙なく勝ちきってみせた。

 そのとき、誠二の呟いた言葉が、今も耳の奥に焼き付いている。

「おもしろくないのなら、やる必要もなかったよね」

 まるでプロの頂上決戦さえ見下すような、そしてその失望感が全てを決定付けているかのような、寂しすぎる顔だった。思えばあのときから、誠二はプロ棋士になることに疑問を抱いていたのかもしれない。

 帰り道、誠二はもう一つ、僕に告白した。

「俺、やっちんのことが好きなんだよね」

 やっちんというのは当事奨励会にも所属していた、女流の谷田さんのことだ。女流としては活躍していたし、いい人ではあったのだが、少なくとも僕は女の子として見たときに魅力を感じたことはなかった。確かに男社会の奨励会のことだから、彼女のことが好きな奴なんてざらにいたかもしれない。けれども誠二に限って、谷田さんが好きなんて俗な感情を抱くことが信じられなかった。

「何で?」

 思わず僕は聞いてしまった。弁解しておくが、谷田さんは今ではすごく魅力的な女性になっている。

「決まってるだろ、おもしろい将棋を指すから」

 それが本音だとは思わなかった。そして谷田さんは別の人が好きだということも、黙っていた。

「じゃ、告白すんの?」

「どうかなあ」

 結局、その後誠二がどうしたのかは知らない。ただ二人が付き合うことはなかったし、しばらくして、誠二は奨励会をやめてしまった。

 僕は結局、誠二のことがよくは分からないままだった。彼が目指していたものが何なのか、彼を失望させたものは何なのか、今でも分からないままだった。少なくとも今、彼は僕の前に座っている。将棋に対する情熱を、失ったとは思えない。

 おもしろい将棋を指せるような余裕なんてない。僕は絶対に、誠二の認めるようなプロではない。けれども五割一分の勝率は、僕を何とか名目上のプロたらしめている。負けるわけにはいかない。逃げ出した奴に、負けるわけにはいかないんだ。




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