「あぁ、そう言えば」と、唐突に手を打った同僚に、ソムドは耳だけ傾けながら、茶杯の茶を啜った。

 都から遠く離れた官舎での昼下がり。

 ソムド夫妻を自ら出迎えてくれた上司が初めに言った通り、田舎ながらにこの州での仕事は意外にも多い。だがその仕事の大半は、治水作業に関するものだった。

 大河が流れ、国の中でも雨量の多い地域のせいか、ひとたび河が氾濫すれば大変なことになる。そこまでにはならずとも、多雨はその年の農作物の出来に直に響く。少しでも、水はけがよくなるよう毎年の点検と、新たな対策が必要であった。

 今日も朝から、崩れた堤防の補修作業の視察に出ていたソムドたちは、ようやく官舎に戻り、いつもより遅い昼休憩を取っていた。

「聞きましたよ。ソムドさん。そう見えて、奥さんに頭が上がらないんですって?」

 一体、どう見えるのかはさておき、いきなり自分の話になったことにソムドは少なくない驚きを覚えた。が、普段から表情が薄いと言われるソムドでは、驚いていることなど誰にも伝わらなかったらしい。

 ソムドよりも五歳ほど若い二人の同僚は、本人を置いて嬉々として盛り上がり始めた。

「あ! その奥様なら僕見たことがありますよ。けど、そんな風には見えなかったなぁ。どっちかと言うと大人しそうに見えましたけどね」

「人は見かけによらないからな、家じゃすっごい剣幕で怒ってたりして」

「ええええ。それはやだなぁ。恐いんですか」

「だって、このソムドさんが恐妻家なんだぞ」

「確かに。どちらかと言うと亭主関白っぽいですよねぇ。何か言われても無言で押しのけてそうなのに」

 で、どうなんですか? と、揃って聞いてくる二人に、ソムドは押し黙る。茶を啜りながら、そうだったろうか、と思案したソムドは、そういえばこの間けんけん怒っていた妻の言い分に頷いてしまったことを思い出した。その声が隣に響いていたのだろうか。そもそもどんな内容だったのかもソムドには覚えがないが。

「頼まれたものは、何でも買ってくるとか」

「あぁ。それは、買いますね」

「わざとのように出される苦い茶も何も言わずに飲むんでしょう? カンジョウ様に聞きました」

「そうですね」

 それが? とソムドが茶を啜ると、若い官僚たちは『やっぱり!』とでも言わんばかりに目を見開いた。

「どうしてそう奥さんに逆らえないんですか?」

「そう言われましても」

 逆らうも何もないんだが、とソムドは思いながら、興味津々で今にも身を乗り出してきそうな二人を見返した。

「まぁ、確かにできる限り妻の言い分にも耳を向けるようにはなりましたが。また家出された揚句、花になられるのは恐いですからね」

 半ば愚痴のようにソムドは零す。

「は……花ですか」

 同僚たちは、不可思議そうに顔を見合わせる。しばし、頭を捻った後、彼らはしみじみとそれぞれの感想を述べた。

「ソムドさんでも冗談言うことがあるんですねぇ。よく意味はわかりませんが」

「それ、花みたいに奥さんがかわいいんだってのろけてます?」

「あ、なるほど。のろけだったのか。うん、確かに奥様は楚々として可愛い感じではあったなぁ。なるほど、花っぽいかも」

「へー! 僕も一度お会いしてみたいですね。お花様なのですか」

 ソムドそっちのけで妻について語りだした同僚を、彼は放っておくことにし、残りの茶を干した。もうそろそろ休憩も終わる時間である。


 その後、彼らはジヘと話したことがあるカンジョウにソムドの妻について直接聞きに行ったらしい。結果、カンジョウにも「あぁ、なるほど。あれは花っぽいな」というよくわからないお墨付きをもらったせいもあり、ソムドが恐妻家という事柄よりも、彼の妻は『お花様』として密かに官舎の中で広まり、ジヘは本人の預かり知らぬところでめでたく時の人となった。



 今日こそは普通のお茶を、と心掛けながら、ジヘは夫に茶を注ぐ。二つの杯に注ぎ分けながら、「そういえば」と彼女は朗らかに切り出した。

「最近、この辺りでよく『お花様』という言葉を聞くんですよ。秘密なのか、皆さんひそひそと仰っているんですけどね」

 今日も今日とて表情を変えずに茶を飲んでいるカンジョウを前に、自身も椅子に腰を下してジヘはそろりと杯の中の茶に舌をつけた。

 やはり、少しばかり苦くて彼女は口を曲げる。そうしてこんなこともあろうかと最近は茶とは別に用意するようになった白湯を二つの杯に注ぎ加えた。

「『お花様』だなんて一体どんな方なんでしょうねぇ?」

「さあなぁ」

 おっとりと首を傾げるジヘの前で、カンジョウは苦みが薄くなった茶をすすった。

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