第4話

 翌朝、すっかり元の調子を取り戻したユンフォアへ、カセンが持ってきたのは、何とも豪奢な衣服だった。布地の色合いもさることながら、彩糸で各所にあつらえられた刺繍はいっそう目を引く。丁寧に重ねられた彩糸が織りなす意匠は細やかで、近づいて目を凝らしても、これが糸で刺繍されたものとは信じ難かった。

 呆気にとられ、ユンフォアは言葉を失う。

 ようやく口を開いた少女の第一声は、「いらないって言ったのに」だった。


 雨上がりの空は、ひどく澄んでいる。塵一つない空気に、胸がすっとした。

 昨雨の名残でぬかるんでいる庭を、ユンフォアは裾を手でたくしあげ、用心深く歩く。一歩どころか五歩ほど先を歩いているカセンの背を睨みつけ、ユンフォアはこっそりと愚痴を漏した。普段ならカセンと並び歩いていても歩幅の差など気にならない。だが、服に泥が飛び跳ねてしまったらと思うと、どうしても早く歩くことができなかった。

 自ら所望したわけではないが、カセンが衣服を贈ってくれたことに関して悪い気などしない。これほどの衣裳を着る機会などそう滅多に訪れないだろう。袖を通した時などは、知らず心が弾んだくらいだ。

 しかし、それとこれとは話が別。足元と衣裳のことばかり気にしていなければいけない現状は、どうもいただけなかった。

 ようやく立ち止まったかと思えば、カセンは人の気も知らず「この花だよ」と彼女を呼び招く。ユンフォアは「もう!」と一人息まくと、可能な限り歩く速度を上げたのだ。


 花の傍に腰を下したユンフォアは、目を瞬かせる。

 ごらん、とカセンが示した花は真珠の粉をまぶしたように白く、俯き加減のその姿は、一度風が吹けば倒れてしまいそうなくらい儚かった。恐る恐る指で俯いた花先を持ち上げてみれば、中央には金飾りを埋め込んだような黄色い花芯が覗く。

 ユンフォアは、感嘆を洩らした。

「綺麗だわ。今まで見た中で一番」

「よかった」

 二人は、顔を見合わせて微笑する。

 ユンフォアが見ている中で、カセンはそっと花を撫ぜた。紺の長い髪が肩から滑り落ちる。

 何度も見てきた彼の所作。ユンフォアは、慌ててカセンを止めた。

「待って、カセン。いつもはいいけど今日は駄目。地面が乾いていないのよ? それじゃ、かがんだ時に髪が泥で汚れてしまうわ」

「何か問題があるのかい?」

「どこに問題がないって言うの?」

 呆れたユンフォアは立ちあがると、さっさと彼の背後に回ることにした。

「結ってあげるわ。安心して。こう見えてもうまいのよ。もう少し大きくなったらヒョウリンのも結ってあげようと思っているの」

 言うが早いか、ユンフォアは見た目同様指通りのよいカセンの髪を梳き纏めていく。

「ヒョウリン?」と首を傾げた彼を、少女は「動かないで」とたしなめた。

「妹よ。今年の春に生まれたばかりなの」

 ふぅん、と気のない返事をし、カセンはそれきり喋らなくなった。黙したまま、眼前にある白花を見やる。ユンフォアは、彼の髪を纏めながら、一心に花を見つめるカセンを彼の背中越しに眺めていた。

 ふと庭園を囲む茂みが目に入り込んできて、彼女は「あ」と声を漏らす。どうしたのか、と問うカセンに彼女は「何でもない」と答えた。

 ユンフォアは再度茂みに目を向ける。昨日、隠れていたのはちょうどあの辺りではなかっただろうか。そうして、あそこから見ていたのが、まさしくここではなかったか。

 不明瞭な疑念は、昨日見た黒髪の女もまた、カセンと共に白い花を見ていたのだと思い至ったところで、しっくりと落ち着いた。地面に頭を垂れているだけの白い花。儚いと感じたのは、知らず黒髪の女を想起していたからかもしれない。

 ユンフォアは落ち込みかけた気持ちを追い払うべく、二三頭を振った。すっかり纏め上げてしまった紺色の髪が解けぬよう手で押さえて、彼女はカセンに呼びかける。

「何か布を持っていない?」

「布?」

「そう。髪を留めておくの」

「残念だけれど、持っていないね」

「そう」

 先に留め具があるかを確認しておけばよかったと思ったが、もう遅い。ユンフォアは、何か代わりになるものはないだろうか、と辺りを見渡した。

 周りにあるのは花ばかり。彼女は花群を見つめながら、しばし思考を巡らせる。

「カセン」

「どうした?」

「花を一輪、貰ってもいいかしら。茎を布の代わりにしてみたらどうかと思うのだけれど」

「それは、いけない。一つが消えれば、全てが消えてしまう」

「どういうこと?」

「そのままの意味だよ。とにかくいけない」

 カセンにしては珍しく強い口調だった。だから、相変わらず彼の意図する理由が分からなくとも、自身の提案を押し通すことはユンフォアには憚られた。

「じゃあ、どうすればいいかしら」

「なら後で。ユンフォアが帰ってからにしよう」

 再び思案し始めたユンフォアに、カセンは何とも軽く答えを返す。それでは本末転倒ではないか、とユンフォアは憮然とした。

「せめて地面が乾いてからにしてちょうだい」

「わかった」

「今度来る時は絶対に布を持ってくるわ」

 ユンフォアは肩を竦める。自分でもよく結えたと感心する紺の髪。「もったいないわ」と、彼女は渋々手を離した。彼の髪は一切の歪みも残さず、さらりと解けて元に戻る。

 何とも不服そうな彼女に、カセンは笑いながら腰を上げた。つられてユンフォアは顔を上げる。

 朝の光の中にある彼も、やはり美しかった。カセンが微笑する度に、うっかり見惚れそうになる自分をユンフォアは自覚する。

 彼女は、非日常な衣服を纏う自身を鑑みた。鮮やかな色。凝った意匠。外身だけ豪華では、中身とのちぐはぐとした違和感を払拭できない。

「よくて祭の日の子どもだわ」

 ユンフォアは肩を落とす。

「とてもよく似合っているけれどね」とカセンは笑んだ。

 作ってもらったかいがあったと言う彼に、彼女は火照り出した顔を慌てて俯かせた。



 やがて娘へと成長したユンフォアは、泉から水が溢れ出るように膨れ大きくなっていたカセンへの恋情に、ある日、突然気が付いた。

 ユンフォアは、少女の頃と変わらず林の先にある屋敷へ通い続ける。その間、庭園に咲く花は一度として枯れたことがなかった。むしろ、年々増えゆく花は深みを増す。

 彼女にとってカセンと共に庭を廻る時間は、何にも代え難いものとなった。多少無理してでも折り合いをつけ、ユンフォアはカセンの屋敷を訪ねる。

 ―――ただ一つ、ある時を除いては。

 黒髪の女と遭遇して以来、ユンフォアは、カセンが他にも女と逢瀬を交わしている姿を度々目撃した。最初に出会った女は、数いる存在の一人にすぎなかったらしい。と言うのも、カセンと共にある女は次々と変化した。少なくとも一度見た者を二度見ることはなかった。

 ユンフォアは、どうも女に節操がないらしいカセンの様子に強い憤りを覚えた。だが、結局それも彼の容姿を思えば仕方がないのだろうと次第に諦観が胸を占める。

 それでも、彼女らといるカセンを目にする度、傷つく己を認識するのにはほとほと嫌気がさしていた。

 故にユンフォアは、この日もすぐさま彼らに対し背を向ける。幼い日のようにその場に留まるなどという愚かな真似はとてもできなかった。

 カセンは、今日もあの二本の腕で彼女を包み込むのだろう。そうして、次に出会うのはやはり同じ女では有り得ないのだろう。

 そうやって、幾度も女が変わる。カセンが選ぶ女は、どうやら容姿も出自も関係はないらしい。

 ならば、なぜ自分はカセンの目に留まらないのだろう、とユンフォアは釈然としない想いを抱きながら、屋敷を後にした。

 受け入れられれば最後。それきりなのだと解してはいながら、ユンフォアは、そのたった一度が欲しかった。



 寄せられた口が花を揺らす。彼の指先になぞられる紫の花弁をユンフォアは羨ましく思った。

 おいで、と伸ばされた手。彼女は滑稽な嫉妬心を覆い隠して笑み返す。娘は腰を下ろし、男の傍に添った。

「あんまり増えると名を覚えきれないわね」

「覚える必要もないよ。そもそも名なんてものを持ってはいない。花は花でしかないのだから」

「けれど、私はこの花の名を知っているわ」

 ユンフォアは、足元に咲く橙の花の名を口にする。視線で問うてくる彼女に「それは名を付けたかった者が付けた名でしかない」とカセンは答えた。

「だけど、名がないと困るわ。だって橙の花と言っても、ここには橙の花がいくつだってあるもの。一体どの橙の花のことを言っているのか、見当がつかないわ」

「ユンフォアは、名があった方がいいと思うのかい?」

「できればね。あった方がいいと思うわ」

 ふむ、とカセンは首肯し思案する。

「ならば、ユンフォアが考えてやるといい。次からは、その名と共に飛ばそう」

「どういうこと?」

 ユンフォアは首を傾げる。だが、カセンは急にすっと目を細めると、彼女の問いに答えることなく立ちあがった。

「誰だ」

 カセンの剣呑な物言いに、ユンフォアはハッとして彼が見据える庭の片隅に顔を向ける。乱暴に掻き分けられた茂み。折れた枝が、音を立てて踏みしだかれていく。

 このままでは花まで荒らされてしまう。焦燥にかられたユンフォアは咄嗟に一歩踏み出した。「ここにいなさい」とカセンが彼女の肩を掴み制止をかける。同時に、男は茂みから姿を現した。

 見覚えのない男。太刀を腰に携えた彼は、怒気に任せ「リィを返せ」と喉を震わせた。


「ここに女が来たはずだ。一体リィをどこにやった」

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