雨の庇

 さぁああああ、と降りだした雨は、靄となって辺りを包みこんだ。霞みだした景色の中、花々が持つ色味だけがぐんと深みを増す。

 見上げれば、曇天の空から放射状をとりながらも、無造作に散らばる雨粒に、花園の主はほんのわずかに眉をひそめた。

「ユンフォア」

 彼の呼びかけが何を意味するかに気付いたのだろう。娘は目に入りかけた雨粒を手の甲で払うと、「待って」と答えを返した。しかし、たったのそれだけで、一向に作業の手を止める気配はない。

 広い庭の片隅にある唯一の泉。その場から流れ落ちる水の筋が小川を形成する。

 小川のすぐ脇でしゃがみ込でいる彼女は、一体何をそんなに作りたいのか。ここへ来る途中に拾って来たらしい小枝を組み合わせているのは見てとれるものの、『できなかったら格好が悪いじゃない』と正体を明かそうとしない。

 しとりしとりと、緑の葉が雨に濡れ艶と光る。対して、ふやけ始めた土は、泥となってユンフォアの手を汚した。溶けだした土が、澄んだ川を濁らせる。

「あともう少しなのよ」

「いけないよ。ユンフォアは濡れてはいけない」

「だけど、カセン。今、作ってしまわないと、きっと雨で流れてしまうわ」

 小川に雨粒が吸い込まれる。絶え間なく波紋を描き続ける水面に、彼は川の勢いが増した気がした。

「――おいで」

 常よりもいくらか強みを帯びたカセンの口調。ユンフォアは観念すると未完結の作業を放棄して、立ち上がった。彼を振り返り、肩をすくめる。

「……もう少しで、できあがると思ったのよ」

「そうだね。それはとても残念だけれど」

 ちらりと、ユンフォアは作りかけの作品に目をやって、口惜しそうに息をついた。

 カセンは手を差し伸ばすと、まだ未練があるらしい彼女を促す。

 何の疑問もなく重ねようとした掌――ふと、ユンフォアは泥まみれの己が手を鑑み、慌てて手を引っ込めた。小川に比べ綺麗な清水が湧き出る泉で、素早く手を洗い、衣の裾で流しきれなかった泥を拭う。

 カセンは、彼女の行動に首を傾げかけた。けれども、その前におずおずと躊躇いがちに預けられたユンフォアの掌に、彼は考えるよりも先に彼女の手を引くと、早速、庇のある屋敷へ向かって歩き出した。

 ユンフォアはカセンの後を数歩遅れながら、引っ張られるように小走りする。

「ねぇ、カセン。もう小さくはないのだから、そんなに簡単には風邪なんてひかないわ」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「雨に濡れると言うのなら、カセンだけ先に戻ってくれればよかったのよ」

「それでは、大して意味がない。どちらも変わらないからね」

 先を行くカセンを見上げ、ユンフォアは、む、と表情をしかめる。

「変わるわ。私を待っていたせいで、カセンまでびしょぬれになってしまったじゃない。カセンは私を放って、さっさと先に屋敷に入っておくべきだったんだわ」

 きゅっと込められた力が、掌越しに伝わる。すっかり水分を含んだ紺色の髪は重たく、歩く程度の動作ではなびかない。カセンは肩越しに背後を見やった。恨めしそうに睨んでくる娘の仕草が、苦笑を誘う。

「カセンが風邪をひいてしまうわ。早く拭いてしまわないと」

「なら、早く庇の下に入った方がいいのではないかな」

 言って、カセンは屋敷を前に立ち止まる。

 つられて足を止めたユンフォアは、涼し気な顔をしている彼を見上げると、無言でカセンの体を庇の下へと押しいれた。

「…………カセンは、時々意地が悪いわ」

 ユンフォアは、むすりと彼を睨めつける。「そうだろうか」と問うたカセンに「そうよ」と彼女はきぱりと断言した。

 ふむ、とカセンは思案する。

 ――と、紺髪の毛先に集った水滴が、眦の横を通って、すぅと頬を滑り落ちた。ユンフォアは、指を伸ばして、それを拭いさる。

 指先に掬いとった雫と、無表情なカセンの顔。彼女は二つを見比べて、クスクスと含み笑いを漏らした。

「ねぇ、今、ちょうどカセンが泣いているみたいだったわ。ちっとも想像がつかないけれど」

 カセンは、また不可思議な感慨を抱いて、おかしそうに笑う彼女を眺める。

 時に置き換えれば一瞬にも満たない些細な逡巡。彼は目を眇めると、次いで、雫の残った彼女の指先を己が掌で覆い隠した。

「早く布で髪を拭いておいで」

「ええ。カセンの分を用意しないと」

「それから、熱いお茶を」

「ええ。その後、すぐに淹れるわね」

 女は無邪気に破顔する。そのままユンフォアは、カセンの手を引くと、屋敷の戸を開いた。




*****





 雨が降る。

 音も鳴らぬささやかな雨は、さやけさの中、その身を一粒、茶褐色の花の一端に落とした。雫を弾き損ねた花弁は、重みに押されてしなやかにしなる。やがて滑り落ちた雨粒の軌跡が、鮮やかに花びらの表面を浮き立たせた。

 その様を目の当たりにした花園の主は、ひっそりと目を和ませる。

 花に覆い囲まれた庭。数多の花種を埋め尽くすかの如く、花々の上を蔦が連なり絡み合う。

 彼は蔦先に宿る花の一つ一つを手で辿った。惑わす芳香も漂わぬ質素な花。

 庭中に隙間なく拡散し、伸び交う蔦の手が届く範囲――いっそ庭の原型が分からぬほど、枝分かれた蔦の先々で、幾万もの茶褐色の花が咲き乱れた。

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