「カセン」

 花束を片腕に抱えた娘は、花園に変わらず佇む紺の長髪の男に呼びかけた。声はきちんと届いたのだろう。こちらに顔を巡らせた男に、ユンフォアは表情を綻ばせると空いている腕をいっそう高くあげた。

 自然急き始めた気持ちを押さえて、彼女は地を埋め尽くす花の合間を抜ける。

 カセンは、その場を動くことなく娘を出迎えた。いつも読みとりにくい微笑を口元に刷く男はこの日もわずかに笑むだけなのに、見通せない紺の眼差しに親しみに似た感情を垣間見せたりもする。その度にユンフォアは安堵した。ここに来ることを、自分はこの庭の主に許されている。少なくともそれはユンフォアに与えられたものだった。

 ユンフォアは胸の内のほろ苦さを男に倣って微笑にすり変え、彼に指を伸ばした。滑らかに流れる紺髪にくっついている緑葉を彼女は指先で払う。

「お茶を、淹れるわ」

 ユンフォアは、カセンを見上げて伺いをたてる。自ら手に取り、繋いだ彼の手を、しかし強く握ることはできずに、彼女は心許なくカセンの手を引いた。

「ユンフォア」

 カセンは彼女の危惧など気づきもせずに、娘に合わせて歩き出す。

「途中で摘んできたの?」

 ユンフォアが腕に抱えている白い花束に目を配って、カセンは問うた。

「ええ。咲いてて綺麗だったから。白くて丸くてお月様みたいでしょう? カセンにも見せたくなったの。きっとこの庭のどこかにもあるんでしょうけど、見つけるのは大変そうだから」

 ここの花は手折ってはいけないし屋敷に飾るには不便でしょう? とユンフォアは最後に言い訳めいた理由を付け加える。

「へぇ。屋敷に飾るのかい?」

「駄目かしら?」

「駄目ではないよ。構わない」

「なら、飾るわ」

「うん、そうするといいよ」

「カセン」

「どうしたの?」

「嫌ならいいのよ?」

「なぜ?」

 カセンは、本当に不思議そうに問いかけてくる。彼を見上げるユンフォアは、口を引き結んだ。こんな時に込みあげてくる衝動のまま、泣き喚いたり怒ったりする無垢さはもうとっくの昔に置いてきた。

 分からないのならそれでいいと思う。ユンフォアにも分からないことばかりだ。これから先もきっとずっと分からない。

 それでも。

 ユンフォアは、精一杯笑って首を振る。

「嫌じゃないならいいのよ」

 カセンは傾いだままの顔をかすかに顰めた。

「ユンフォア」

「お茶にしましょう。カセン。早く」

 ユンフォアは、歩を速めた。まるで、無邪気にはしゃぐ少女のように。

 二人が辿る道の後。実りのない空間で、花だけが今日も咲き誇る。

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