and more

手の甲なら 尊敬のキス

「私はどうしようもなく臆病ものなのです」


 金簪を黒髪に挿した女は、ひとり掻き合わせた両腕に爪を立てて、崩れ落ちそうな身体をその場に留めた。つい今しがた出会ったばかりの男を前に、彼女の頬に落ちた雫が筋をつくる。それは涙だったのか、それとも降り続ける雨粒の名残だったのか、最早女には分からなくなってきた。

「あの人には、必要ない」

 彼女が零し続ける述懐を男は口を挟むことなく聞いていた。否、実のところは耳など傾けてすらいなかったのかもしれない。底冷えのする紺の双眸には何の感情の揺らぎも見いだせなかった。雨を受けて艶と色めく男の真っ直ぐな紺髪は、降り注ぐ先に何があろうと意に介さず地へ落ち続ける雨そのもの。花園の主にしてみれば、このようなこと日常茶飯事に違いない。

 だが、そのことが妙に女を落ち着かせた。最期に誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。そして目の前の男は、彼女が吐露し続ける独白に興味こそ示さないものの、静かにそれを許容し続けた。

「ですが、私は恐い。どうしようもなく恐ろしいのです」

 見たこともない来世など慰めにもならない。知られぬよう抜け出したのに、いざ自死しようとすれば、ただの肉塊となり果て存在していた事実さえ失うと思うと途方もなく頭の芯が冷えた。いらなくていい。けれども、証拠が欲しかった。

 だから、と彼女は面を上げる。暗い雨が一人の女の頬を打った。



 幼少のみぎり、ソムドが教師の目を縫い勉学から抜け出す度に、母は息子のふくらはぎを仕置きとして鞭で叩いた。

 よいですか、と言う母の脅し文句はいつも変わらない。

「あなたのような悪い子は、森の外れの花番に花に変えてもらわねばなりませんね。お婆様のお姉様はあなたと同じで悪い子だったから、花番に連れていかれてチナジュにされてしまったのですよ。あなたのところにだって、すぐにやって来てくれるでしょう。そうしたら、枯れ草にでも変えてもらって、火を熾す時にあなたを一緒に燃やしてもらいましょうか」

 随分と歳を経た今では母のそれがただの戯言だと分かっている。しかし、まだ本当に幼かったあの頃は、会ったこともない親戚が道行く人に当然のように踏まれる雑草――チナジュになったと聞かされ心底恐ろしかった。怒られた晩は布団にくるまりながら、もしや花番がやって来はしないかと気が気ではなかったのだ。



 門の傍に突如現れた白い花。

 ソムドは、それが夢幻でないと知って愕然とした。

 今朝がたしとど雨を吸い込んだ地面はぬかるみ、崩れ落ちた膝が泥に沈みこむ。木の葉から落ちてきた雫が俯く白い花を弾いた。震えた花に指をかけて面を持ち上げると、花びらを束ねる中央には黄色の花芯が鮮やかに色を添える。

 花びらがひとひら、零れた。周りの音を吸い込みながら地面へ落ちた破片。息を呑んだソムドは慌てて花から手を離す。すると続けて二片、三片と花びらは儚くほどけ落ちた。

「ジヘ」

 ぬかるみに溜まった水に浮かぶ幾枚もの白い花弁。信じられぬ思いにとらわれて、ソムドは薄い花びらを丁寧に摘み上げた。それでも拾う際に指先についてしまった泥が清らかな白を汚し、花びらの薄さは簡単に潰れて縮れる。

 ソムドは全ての花びらを手に握り込むと、屋敷の中に取って返した。先日、家人の多くに暇を出した屋敷内はがらんとしている。彼は入用なものだけを手早く皮袋に詰め込むと、外套を引っ掴んで屋敷を飛び出した。

 間に合ってくれ、と願いながら、既に何も間に合っていないことに、ソムドは奥歯を噛み締める。

 人が花に変わるなど、誰が信じよう。

 ソムド自身、十に上がる頃には虚言だと断じていたし、早くに死んだ母が仕置きの度に言っていた口癖を今日まで思い出すことはなかった。

 だが、俯いた白花を目にした瞬間、ソムドは数日前に家を出た妻であると悟った。疑う余地すらない現実として彼の目には映った。

 白花の黄芯がソムドの脳裏でさやと揺れた。妻の黒髪によく映えていた金の簪が音を立てて姿を変える。あれは行き遅れと家族に煙たがられていた娘が、婚姻の際に唯一親から手渡されたものだった。

 卓に視線を落とし、顔を伏せた彼女の姿が、白花にぶれて重なる。

 実家に帰ったものと安心していたのが甘かった。あの親が、役立たずとなった娘を迎え入れるはずがなかったのだ。

 ソムドは仕事仲間から能面と揶揄されていた顔を歪める。顔を打つ風は温度がなかった。焦燥に駆られて足が速くなる。

 一月後に出されるはずだった都の関門を、彼は自らくぐり抜けた。



 宮に仕官していたソムドが同僚に嵌められたのは、六日前のことである。

 蒼白し切った部下は、部屋に入るなり己のしくじりを詫びた。それでソムドはおおよその事態を呑みこんだのだ。国を動かすほどでなくともそれなりの地位についていた彼は責を問われて僻地の閑職へと飛ばされることになった。このやりようにいい加減辟易していたソムドは、遅れて現れた政敵に逆らうでもなく「諾」と頷いたのである。

 元々、早くに父母を亡くしたソムドは、近くに頼る親戚も後ろ盾もない。ようやく宮仕えできるようになる頃には金も底をつき、大きいばかりの屋敷と由緒だけはあるという家名しか残っていなかった。

 唯一、配属先の上司が優れていたことは、彼にとって救いとなった。傍から見れば随分と遠回りながらも、ソムドは着実に頭角を現していったのである。

 だが、今となってはそれも失った。

 丸三日の拘束後、解放されたソムドは閑散とした屋敷を前にほっと息を零した。迎えに出てきた妻の顔は白く、血の気を失っていたが、自分になり変わり既に家人たちによく計らってくれたらしい。

 涙ぐんでいる妻に無言で頷いて、ソムドは戸口をくぐる。腰を落ち着かせた彼の為に、ジヘが手ずから汲んだ茶は濃すぎたが強張った身体を温めるには充分だった。

 ソムドは茶杯を卓に置くと、妻に呼びかけた。ちょうど自分で注いだ茶の苦さに渋い顔となっていたジヘは慌てて姿勢を正し、夫に向き直る。

「お前は家に帰りなさい」

「え?」

「幸い子にもまだ恵まれていない。今なら義父も受け入れてくれるだろう。帰って他の男を探すといい。ここにいるよりは、よっぽどお前の家の役に立つ」

 理解を示し始めた茶眸が徐々に見開かれていく。「そんな」と非難に震えた唇を、ジヘは歯で噛んだ。

 茶杯から浮かぶ湯気がよりべなく空間を彷徨う。

 ぎゅ、と茶杯を両手で握りしめ、ジヘは卓に顔を伏せた。

「――私、は、必要ありませんか」

 しがみつくように絞り出された問い。掠れきった声音に、ソムドは肯定を返さなかった。

 無言で閉じ切られた部屋の重苦しさが、音を発することを躊躇わせた。ソムドは静かに茶杯を引き寄せる。

 つられて面を上げたジヘは、一度取り零したように笑うと席を立って駆けだした。奥で勢いよく戸の閉まった音がする。

 ようやく音の蘇った世界に、ソムドは息をつくと茶で口内を湿らせた。

 ソムドが寝室へ向かう時分になっても、ジヘはまだ泣いていた。寝台にうつ伏せて、すすり泣く声が痛々しい。ソムドは彼女に声をかけることができなかった。肩を抱いて、背を擦り、髪を撫ぜ、宥めすかす。そういったことが何ひとつ、彼にはできやしなかった。

 寝台の中に潜り込んだソムドは、妻に背を向けて目を瞑る。

 明け方、ジヘが寝室を抜け出したことにソムドは気付いていた。それでも、彼は素知らぬふりをして暗い瞼の裏で、戸が閉じる音を聞いたのだ。



 金簪が揺れて、しゃらと奏を鳴らす。

 ジヘとの婚姻は名しか知らなかった遠い親戚が持ち込んだものだった。近頃、とみに力をつけつつある商家の娘。これから取引先を広げようと意気込む彼女の家にしてみれば、まだ下級官僚とは言えソムドが持つ貴族の名はさぞ魅力的だったのだろう。ソムドにとっても彼女の家の持つ財力が廃れた家を再び盛り立てる為に必要だった。

 線の細い娘だと思った。肖像画以外の彼女を初めて目の当たりした時、ソムドはそう思った。商家の豊かさを象徴する絢爛な花嫁衣装。貴族の奥方に見合うよう全身を飾り立てられている彼女は鮮やかな衣装を幾重も纏っていた。だからこそ袖の合間から覗いたジヘの手がやたらと頼りなく見えたのかもしれない。

 招待客へと早々に顔を売りに行った両親に置き去りにされ、娘は広間の隅でぽつねんと佇んでいた。傍に向えば、彼の存在に気付いた娘は、見惚れるようにソムドを眺め、次の瞬間、羞恥に顔を伏せる。ソムドは娘に手を差し伸べた。娘は顔を明るくさせて彼に笑む。おずおずと掌に重ねられた手を、ソムドは広間の中央へ導いた。ソムドは、彼女に恋をしたわけではなかった。だが、失くして久しい温もりを彼女の掌は確かに持っていた。

 頬を紅潮させてころころと表情を変えていた娘は、いつの間にか戸惑うような、はにかむような、一歩身を引いた表情しか見せなくなった。それは、ある意味年齢にともなった落ち着きとも言えただろう。けれども、いつも緊張に身を強張らせているようにも思う。そうさせたのは自分なのだと、気づかぬほどソムドは愚鈍ではなかった。


 あぁ、それでも、と彼は思う。


 花番がいるという花園の場所をソムドは知らなかった。どこか森の端にあるのだ、と語った母の言葉を頼りに、森という森を渡り歩く。

 行き合わせた乗合馬車に乗り、金が底をつくと、ただひたすらに歩いた。すれ違う人には、花園の話を聞いたことはないか、と逐一尋ねた。ジヘの白い花は、ソムドの行く道の先々で咲き綻んだ。

 皮の剥けた踵が血を滲ませて、沓の中で悲鳴を上げる。あまりの痛みにソムドは沓を脱いだ。はじめはよかった。解放された足に外気は心地よく、踏みしめる草は裸足の彼に優しかった。

 だが、その内に、地面に転がる石砂は、剥きだしの足裏を傷つけた。ソムドは衣服を割いて足に布を巻く。沓を捨てたことを悔やんだが、最早どうしようもなかった。

 そより、そよ、と葉擦れが清らかに彼の耳にささやく。森の隙間から零れる陽光は、茶けた大地の影を揺らした。

 この頃になると、ソムドにはもう面を上げる気力さえ潰えていた。落ちくぼんだ目で、繰り出さねばならない自身の足先だけを見据え続ける。幾日も、酷使し続けた足はひきずるのにも重く、心の蔵が跳ねる度に痛みが頭に響いた。

 ただ、探さなければ。見つけなければ。どうしても、もう一度。あの取り零したように笑う、その姿が、散ってしまってよいはずがなかった。

 そより、と。白い花は風に攫われてしまいそうに茎をしならせる。目の端で花の行方を追った途端、石に蹴躓いてソムドは倒れた。胸を打った彼は、強く咳き込む。明滅する世界の中で、立ち上がろうと引き寄せた腕は、砂を擦るだけで持ち上がりはしなかった。

 ソムドは呻く。

 舞い降りた鳥は、彼の鼻先で地べたに散らばる木の実をついばんだ。

 ――あぁ、ほら。

『見てくださいな』

 庭先に出たジヘは控えめにソムドの袖を引いた。

「ことりか」

 目の悪いソムドは、目を眇める。

 森の緑を宿した小鳥は、畳んだ羽を器用に広げた。

 ざわりと森が騒ぎ立てる。擦り切れた男の衣を、風は無造作にはためかせた。

「おや、少しばかり遅かったかな」

 葉を揺らして響く女の声は、逆らいがたき軽やかさを持ってソムドの耳の底に落ちた。

 誰、と問うことは許されなかった。切れた唇はやわと震えるだけで声を出す力を失ったようだった。せめて、正体を見極めようと頭をもたげたかったが、瞼すら自由に持ち上がりはしなかった。

「いや。まだ息はある」

 生臭い息が、顔にかかる。ざらりと額を擦っていったものは、恐らく獣毛であった。唸りに似た、女のものとは違うその声は、女に問う。

「どうする」

 女はささめきながら笑った。まるで風と変わらぬ響きだった。それが答えだったのだろう。ただ一言、女はソムドに語りかけた。

「起きなさい」

 女の手が、ソムドの頭に置かれる。

 呼応して巻き起こった風が、ふわりとソムドの上半身を持ち上げた。重かったはずの瞼は自然と開きだす。はっきりとしてゆく視界の中で、髪の長い女が銀毛の獣を従え、立っていた。

「名も知らぬ来訪者よ。よくぞ『森』まで辿りついた。あなたの労を私は労おう」

 女は微笑んで、ソムドに手を差し出す。すっきりと伸びた美しい掌。温度のないように思えるその手は、ひどく澄んでいた。

 ソムドは、眼前に立つ女を仰ぎ見る。あらゆる木々が、彼女の周りを取り巻いていた。

「森に住む、知恵の魔女」

 掠れたソムドの声につられて腕を下した女は、意外そうに首を傾げる。

「知恵の名で呼ばれるのは、久しぶりだ。最近は時とばかり呼ばれていたから」

 はるか遠い昔から、変わらぬ姿であるという女。人知を越えた力を持つ森に住むその者に出会えさえすれば、どんな願いをも叶うと言う。

 ソムドが探している花園よりもはるかにまことしやかに人々の口に上り、誰もがいると信じて疑わなかった存在。ここに来るまでにも、何度も聞いた。

 魔女は口を開く。

「いいよ。聞こうか。あなたの願いを」

 ソムドは息を飲んだ。当然のように与えられた権利に、彼は平伏し、額を地面に擦りつける。

「――花園を。花園の在り処を探しております」

「花園?」

「花に変えられた妻を取り戻したいのです。花番の居場所を教えてください」

「花番」

 魔女は含むように、繰り返した。ソムドは、顔を上げる。魔女が知らなければ、もう他に行くあてはない。ぎり、と目頭に力を込める。一挙一動も見逃さぬように。

 魔女は真横に佇む銀獣に視線を逸した。銀獣は、はたりと尾を振る。人間と変わらぬ仕草で嘆息をして、銀獣は魔女に答えを明かした。

「蔦のことだろう」

「蔦の?」

「前につくったろう。これが言っているのは恐らく『森』の南端にある花田のことだ」

「あぁ」

 得心したらしい魔女は、目を眇めた。眼差しを遠くにおいて、「そうだった」とおぼろげな表情を浮かべた魔女は頷く。

 人間よ、とソムドに呼びかけたのは、魔女ではなく銀獣だった。

「あれがつくったのなら、お前の妻は自ら望んだのだろう。花になりたいと。でなければ、あそこへの道はそうたやすくは開かない」

「それでも、『森』への来訪者よ。あなたは、花田に行くことを望む?」

 重ねて魔女は問う。

 ソムドは、首肯した。是、と口を開く。

 風は巻き起こった。森の木々すべてを掻き崩して、強風が吹き荒れる。ソムドは、思わず腕で顔を覆った。胸を圧する威圧感は、息をすることもままならない。「そう」と軽やかに声が耳を打った気がした。「どうか」と彼は、息を吸う代わりに願いを吐き出す。

 次の瞬間、ソムドは地面に叩きつけられた。

 衝撃が身を襲って、ソムドは蹲った。口内を切ったらしく、舌に沁みた血の鉄くさい味に、知らず吐き気を催す。せりあがってきた異物感を飲み下して、ソムドは茶けた地面から顔をもたげた。

 敷き詰められた花の色。風の流れに轍を広げてざわめく花々に、ソムドは目を瞠った。鼻につく芳香に引かれるがまま腕をついて、立ち上がる。ソムドは、よろめいて身体を動かした。

 花園の端にこの世のものとは思えぬ美しい男が立っていた。ソムドは、男に向って前のめりなりながら足を繰り出す。紺の髪を腰帯まで流す男は驚いているのか、ソムドに視点を置いたまま微動だにしない。するりと風が紺髪をさらって、寸の間、紺髪が空に流れた。冷水にさらした染糸に似て、透明さの中に感情を沈める男の双眸は驚いている割には冷静に、自分へ向かうソムドの挙動を見守る。

 ソムドは両腕を伸ばして、紺髪の男の衿を引き掴んだ。

「花園の――いや、花田の主か」

「どうやってここへ? 道を開いた覚えはないのだけどね」

 紺髪の男は眉を寄せる。するりと宙を滑らせた男の指の先で、伸びてきた蔦がソムドの腕を絡み取った。ソムドは驚愕して男の服から手を離すと、蔦を引きちぎる。だが、次から次へと伸びてくる蔦は、ソムドを逃しはしなかった。

 脚も腕もすっかり蔦が巻きついて、ソムドは動きを塞がれる。痛い程に肌に食い込む蔦に、ソムドはざらつく息を浅く吐いた。花田の主は冷やかに紺色の双眸を煌めかせ、口を開く。

「なぜここへ?」

「魔女に、知恵の魔女に頼んだ。ここに来ることを」

 花田の主は考える素振りを見せた後、思い当たる節があったのか「あぁ」と得心した。

「愛し子に願いをかけたのだね?」

 そうか、と主は頷いた。まもなく興味を失くしたように、彼は咲き誇る花々の中へ踵を返す。長い紺髪は、裾と共に翻った。するりと拘束を緩めた蔦から、ソムドは投げだされる。したたか腰をうったソムドは、それでもすぐに立ち上がって、花田の主に追いすがった。

「待ってくれ。返してくれ。頼む。お願いだから、妻を、ジヘを。元に戻してくれ」

 袖を掴まれた花田の主は、膝をつくソムドを見下ろす。

「できないよ。君の望む方法は与えられていない。君の言う人間がここへ来たのだと言うのなら、その者は君がここへ来ていることを知っているだろう。君が連れて帰りたいと望んでいる今も、その者は戻りたいとは望んでいない。望んだのならば、自分で戻っているはずだからね。花は本来、強制されるものではない。自由に根付き、咲き、実り、枯れる。それが理。戻る、戻らないはその者の意志だよ」

「まさか」

 ソムドは身を震わせた。溢れ返る花の香に酔うようだった。縋り、求めた答えも、無情なものでしかない。戻らない。本当に遅すぎたのだ、何もかも。

「見つけてあげるといい」

 絶望するソムドに、花田の主は言った。憐憫すらこもっていない声は、淡々と味気なくソムドの耳を通り抜ける。

「もし君が望むのなら、その花を持って行っても構わないよ。そうすればたった一輪、君の元で咲いて枯れるだろう。どちらでも好きにするといい」

 頭をもたげたままのソムドの前で、花田の主は今度こそ踵を返した。遠のいていく背を、伸びやかにそよぐ紺色の髪を、ソムドは呆然と眺める。

 ざん、と風は吹いた。荒い風の割に、地上を埋め尽くす花は、柔らかにそよぐだけだった。同じ種が重なるでもなく乱雑に植えられた花々は、思い思いの場所で花弁を広げる。

「すまない」

 ソムドは、顔を覆った。意味のない謝罪を繰り返して、彼は身を折って蹲る。魔女や花田の主が言ったことが本当ならば、花と化したいと望むほどにジヘを追い詰めたのは、紛れようもなく自分なのだ。夜通し、声を殺してすすり泣く。彼女の嘆きを聞きながら、何もしなかった自分のせいなのだ。

 しゃらん。はにかむ度に顎を引く癖。その度に、彼女の金簪は、控えめに揺れた。今ではもう悲しんでいるようにしか聞こえぬその音を、ソムドはありありと思い出して、空を仰いだ。

 もういくら蹲っていたのか。明るかった昼の空は、夜の暗闇を通り越して、朝を迎えようとしていた。花田一帯を取り囲む木々が、白んだ儚い朝日を浴びて、さやさやと光を弾く。

「ジヘ」

 ソムドは、呟いて辺りを見渡した。

 立ち上がって、歩き出す。探さなければ、と思った。探さなければ。どうしても。このままでいいはずがないという思いは何度考えても変わらなかった。ジヘが戻りたくないと望むのならば、そのままでもいい。強制する権利をソムドは持っていない。ただ、ソムドはジヘを前にして謝らなければならないのだ。彼女の在り処を知りもしないのに、自分を囲う花の中でいくら謝っても、それはジヘに届かない気がした。

 ソムドは、花々の間を辿る。足元に咲いた花。掻きわけようとして、ソムドはやめた。ジヘが花に変わったのだ。ならば、ここに咲く花もやはり誰かであったのだろう。彼は引っ込めた手を躊躇いながらも伸ばすと、そっと一輪ずつ確かめていく。

「ジヘ」

 ソムドは呼んだ。

 答えが返るはずもない。しゃらん、と音が聞こえはせぬかと耳をそばだてたが、やはり無駄であった。

 ひとつ、ふたつ、とソムドは、花を確かめてまわる。

「ジヘ」

 白い花。中心に一つ、金飾りを持つ。道中、彼の行く先々に咲いた花の俯き加減までも、ソムドははっきりと記憶していた。それほどまでに、彼はここに辿り着くまでジヘの花を見かけた。導かれるように、ここまでやっと来れたのだ。

「ジヘ」

 ソムドは、妻の名を呼ぶ。

 朝日に照らされ、そよいでいたはずの風は、不意に動きを止めた。彼は額を流れた汗を拭う。辺りは、花の色ばかりが浮かぶ。こぼれそうになる嘆息を、ソムドは堪えた。

 さや、と花々が一斉に揺れる。ソムドは目を丸くした。風もないのに波をつくり、一方向へ流れていく。絶え間なく、花は波をひとつの方角へ寄せて、流れた。

 風もない静まり返った場所で、花だけがざわめく。

 ソムドはそっと、足を花々が示す方へ向けた。呼ばれている気がした。ジヘではなく、周りの花々に。こっちだ、と、彼を手招いて教えてくれているとしか思えなかった。

「ジヘ」

 彼は駆けた。急ぐあまりに花を踏まぬようにと気遣いながら、ソムドは必死に駆けた。

 揺れていた花が、動きを止める。あわせてソムドも足を止めた。

 こわごわとした思いで、ソムドはその場にかがみ込む。

 俯いた小さな白花。

 彼女の引っ込み思案な性格を現すかのように、白花は他の花々の下、身を隠して咲いていた。

「ジヘ」

 ソムドは、白花を両手で囲う。抱きしめることはできなくて、上半身を折った彼は、硬く目を瞑った。





 さやさやと、昼間の光を浴びる花は、静かに揺れる。

 しゃらん、しゃらん、と金簪が風の音に混じり響いた。

 花園の主は、花の中、座り込んでいる黒髪の女に目を向けた。

 紺髪の男に気付いた女は、顔を上げると、居心地が悪そうに微笑する。きっとまたこの主は、女の言葉に耳を貸す訳ではないのだろう。それでも、彼女はここへ来た時と同じように、彼に独白めいた言葉を連ねた。

「私はどうしようもなく臆病ものなのです」

 彼女は、昏倒してしまった夫を膝に抱き、その髪を愛おしげに撫ぜる。

「もう三年もこの人と一緒に暮らしているのです。だから、知っていたのに。この人は、いつだって、何も言わない。宮を追い出された時だって、一人で全部背負ってしまったのだと、彼の部下が私に教えてくれました。分かっていた。私を帰そうと彼が考えた理由も本当はすぐに気付いてしまった。全部。何も言わないで勝手に決めてしまっていた。私はかなしくて、どうしようもなくって。だって、私は彼が役に立つからと傍にいたわけではなかったのに」

 ほろり、と女は苦笑を漏らす。この人はちっともわかってくれないのだもの、と彼女は、夫の髪を指先で辿った。

「だから、困らせてやろうって。一生後悔すればいいって。だけど、死ぬには恐かった」

 彼の頬にこびりついた泥を、彼女は丁寧に拭う。

「結局、私はいつもこの人と違って決心が中途半端で。彼が必死に探してくれていると知って戻りたいと思った時も、私はどうしようもなく恥ずかしくって、私はこの人の為に戻ることだってできなかったのに」

 なのに、と女は目を伏せる。睫毛を瞬かせたのと同時に、雫が弾けた。

「この人は私を見つけて諭し続けた。謝るだけでなくて、ずっと。恥ずかしくて戻れない私に戻っていいと」

 一週間もですよ、女は涙を拭って、花園の主に笑いかけた。

 紺髪の男は、口を開かない。それでいい、と女は思った。

「帰ります、一緒に」

 女は夫の頭を膝に抱き抱えたまま、晴れやかに主へ告げた。

 花園の主は頷かなかった。ただ、男の指の爪に入り込んでいる泥に目を向ける。その視線につられて女は、男の手に手を伸ばす。今まで土など触ったことすらない癖に、まるで農夫のように土まみれになってしまっている手。擦り傷ばかりがついた甲。

 何も口にはしない。いつも。けれど、彼は行動するのだ。当たり前のように。そうして探しに来てくれた。


「ありがとう」


 ジヘは腰をかがめて、眠るソムドの手の甲にひっそりと口を寄せる。彼女は溢れだした涙を隠すように、そのまま夫の掌を額に押し抱いた。

 風が吹く。しゃらり、しゃらり、と金簪を鳴らし、辺りから消えた白い花びらを巻き込んで。

 そうして、二人は彼らが望んだ生活へ共に帰った。

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