シン・チワワ

侘助ヒマリ

最凶のアニマルウェポン

ガチャガチャ。


玄関のドアが開く音がする。

半日ほど待ちに待った音だった。


ワビスケ(ロングコートチワワ♂11歳)は直径50センチほどの自分のベッドから飛び出し、玄関へと猛ダッシュする。

待ち焦がれていた人が帰ってきた!


「ただいまー。ワビちゃん良い子にしてた?」

半日ぶりにご主人様が声をかけてくれる。

嬉しさのあまりご主人の足元にまとわりつくワビスケだったが、突然その3センチほどの小さな足の甲に激痛が走る。


キャヒン!


「あ、ふんじゃったー。ごめんねー」

能天気な声をあげたのは一緒に帰ってきたご主人の娘。5歳。

ワビスケの齢の半分にも満たないくせに、体重は彼の10倍はある。

そんな巨体にか弱い足を踏んづけられたのだからたまったものではない。


それでもワビスケは痛みをおしてご主人について歩く。

この時間ならまだ外は明るい。

今ごろ昼下がりの太陽に暖められた電柱の根元が良い具合に芳香を漂わせているに違いない。

ワビスケは散歩に行きたい一心でなおもご主人にまとわりついてアピールした。


しかし娘を幼稚園から連れて戻ってきたご主人はワビスケの猛追を器用に避けながら家じゅうを歩き回る。

何せ今日は幼稚園の行事で朝から家を空けていたから家事がいろいろたまっているのだ。

ご主人のトイレにまでついて回るワビスケに、ご主人は申し訳なさそうに言った。

「ワビちゃんごめんね~。お散歩行きたいのわかるけど、もうちょっと待っててね」

詫びるつもりがあるならばせめて俺の腹ぐらい撫でてから言え、とワビスケは憤った。

娘の弁当箱をシンクで洗うご主人の横で、キッチンマットの上に仰向けになって横たわる。

無防備な姿を曝け出し、ご主人に詫びのチャンスを与えてやろうというワビスケなりの慈悲であった。


そんな慈悲深いワビスケにさらなる不幸が訪れる。

「ワビちゃん、ねんねしてかわいーねー」

ご主人の娘がワビスケの腹部をむんずとつかんだのだった。

加減を知らない小さなが毛も皮膚も薄いワビスケの腹をこするようになでつける。

胃の中の物がこみ上げてくるようで不快極まりない――とここでワビスケは大事なことに気づく。

今日は昼ご飯をまだもらっていないのだ。

どうりで腹をこすられても胃液しかこみ上げてこないはずだ。

ワビスケは隙を見てぐるんと体を回転させて起き上がり、今度は後ろ足で立ち上がってご主人の膝下を前足でどつく。

これはワビスケの”ごはんちょうだい”アピールなのだ。

いつもはこれでご主人が気がつき、ご飯の用意をしてくれる。

それなのに、今日に限ってタイミング悪く娘が「おかあさんおやつだしてー」とねだり始めた。

ご主人が「はいはい」と言いながら動いたものだから、わびすけのどつきは空を切り、前足は虚しく毛足の長いキッチンマットに沈んだ。


甘えれば足を踏まれ、散歩には連れて行ってもらえず、昼ごはんもお預けのまま。

10年以上もこの家のマスコット的キャラとして家族を癒し続けた俺に対してあまりな仕打ち――。


ワビスケの怒りが頂点に達したとき、彼の心の中を大きな黒い染みが支配した。

彼の自慢の亜麻色のトップコートは怒りで逆立ち、歩くたびに優雅に振れる豊かな尻尾は激情に打ち震えた。


シン・チワワの誕生である。


彼は和やかに談笑するご主人たちの前で踵を返し、まず家族の寝室に向かった。

2、3回はずみをつけてベッドに飛び乗り、ターゲットを物色する。

奴らが最もダメージを受けるのはこれに違いない。

娘が”これと一緒じゃないと寝られない”というウサギのぬいぐるみ・ミミフィである。

彼とさほど変わらない大きさのミミフィの耳をがぶりと噛むと、彼はまるで肉食獣が草食獣を狩るときさながらにミミフィの体を激しく左右に振った。

小さな前足でミミフィの首元をしっかりと押さえ、耳の根元を犬歯で思い切り噛んで引きちぎる。

メイドインチャイナのミミフィはいとも簡単に耳の付け根から綿を飛び出させた。

彼はついでとばかりにミミフィのつぶらな瞳(プラスチック製)にも噛み跡を残す。


次のターゲットは同じくベッドに横たわるご主人愛用のタオルケットである。

きっちりと畳まれたタオルケットの裾を見つけると、彼は前足で一心不乱に引っ掻き出した。

裾がめくれてくると、今度はタオルケットの中ほどをひたすら掻く。

きめ細やかで手触りのよいパイルが彼の細い爪によって生地の外に掻き出される。

ループ状のパイルが何十本もの糸に変貌し、絡まりながらその存在感を高めていく。

自らの爪がひっかかり、爪を傷める寸前というところで彼はようやく手を止めた。


さて、そろそろ仕上げといくか――。


彼はベッドから飛び降りると、寝室の隅にあった彼の居住スペースにおもむろに戻る。

先ほどまで彼が丸くなっていたベッドも、すでに彼の温もりは失われている。

ここで丸くなってご主人の帰りを待っていた頃がいかに希望に満ち溢れていたことか…。

彼は絶望を抱いた瞳でそこを一瞥し、視線をゆっくりと隣に移した。

そこにあるのは白いプラスチックトレーに囲われた一枚のペット用トイレシート(吸水ポリマー入り&消臭機能付き)。

彼はいつもそこに入る時、トレーの枠を何度も踏んで位置を定めてから用を足している。

でも今の彼はワビスケではない。荒ぶるアニマルウェポン、シン・チワワに変貌したのだ。


彼は外でいつもしているように、シートの上からトレーの外に向かって高々と左足を上げ、下腹に思い切り力を込めた。


シャー…


やることはやった。


彼は満足げにご主人のベッドに飛び乗ると、先ほどいい具合に丸めたタオルケットに身を沈め、諦めと少しの達成感を胸に抱きながら眠りについた。


次に彼が目覚めたのは、彼の仕打ちに怒りを爆発させたシン・ゴシュジンによる、制裁という名のゴングが鳴ったときであった――。



おしまい。











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シン・チワワ 侘助ヒマリ @ohisamatohimawari

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