石鹸のほほえみ

穂波子行

石鹸のほほえみ




 妹をお風呂に入れるのは、私の役目だった。


「おねーちゃん、おねーちゃん」


 妹の智絵はまだ、一人で上手くお風呂に入ることができない。ぎこちなく身体を洗う妹を、私はたっぷりのお湯で満たされた湯船に浸かりながら見ている。なにか異変が起きたときにフォローするために。


「これ、みてぇ」


 妹が泡だらけの手で私に何か白い物体を差し出した。


「なぁに、智絵」


 湯気のせいで視界が悪い。

 つい癖で鼻先に手をやるけれど、いつもの手応えはなかった。そりゃそうか、さっき脱衣所でメガネは指輪と一緒に外してきてしまった。湯船から身を乗り出して眉間に皺を寄せると、ソレが石鹸だということが分かる。

 妹は皮膚の感覚が敏感なところがあるから、スポンジを使えない。だから手で泡立ててそのまま手で洗う。しかも限られたメーカーの固形石鹸しか受け付けない。普通の人より少しばかり、こだわりが強いのだ。


「石鹸だね」

「ここ、ここ!」


 私が見たままの感想を言うと、ムッとしたように妹が手にしている石鹸の中心を指さした。さらに目を凝らして見ると、なんとなく中心がへこんでいるように感じる。


「にこちゃんだよ!」


 妹が笑う。

 どうやら、偶然できた石鹸のへこみが笑っている顔に見える、ということが言いたいらしい。爪でえぐられたような三つのへこみは無理矢理に信じ込めば笑顔に見えなくもない、という微妙なものだったけれど彼女にとっては笑顔にしか見えないようだ。

 一度作業に没頭すると周りがみえなくなる性質なのに、身体を洗うという作業を中断してまで私にこれを見せたかったのか、と思うと無碍にはできなかった。


「そうだね、にこちゃんだね」


 きっと、妹が望んでいるであろう言葉を返す。共感の言葉。


「うん!」


 私の笑みを見た妹は大きく頷くと、また身体を洗う作業に戻った。私も、ぎこちなく腕やわきの下を洗う姿をぼんやりと眺める作業に戻る。


「さぁ智絵、石鹸貸して」


 彼女が洗えるところはもうほとんど終わってしまった。後は私が背中を洗って、流して、それでおしまい。


「えー」

「えー、じゃないよ」

「おねえちゃん、にこちゃん消さないでね」


湯船に浸かったまま石鹸を受け取った私は、できるだけ妹が「笑顔」だと思っている部分を触らないように気を付けながら立ち上がった。お湯の水位が下がる。


「はいはい」


 十分に石鹸を泡立ててから、妹の背中を撫でる。椅子は妹が使っているので、自然と私は彼女の後ろにかがみ込む形になる。浴室についた片膝が少し、痛い。

 でもその痛みも、今日で終わりだった。


「ねえ、おねえちゃん」


私が「ねえ、智絵」と口を開こうとするよりも早く呼びかけられてしまった。


「今日で、おしまいだね」


「……明日も、智絵はお風呂にはいるでしょ」


「ううん、そうじゃないの」


 妹には、私が明日結婚して家を出て行くなんてことは話していない。

 話したところで理解できるとも思えなかったし、私自身もこんな状態の妹を置いて家を出て行くことにある種の罪悪感を覚えていたから、進んでそんな話をする気になれなかったのだ。

 どうせ明日の今頃には、妹は同居している母とお風呂に入るのだろう。そしてきっとそのことに少しの疑問を覚えるけれどすぐに日常の一部になるだろう、というぐらいの認識だった。

 私にとって妹は何者にも変えられない存在だけれど、だからといって私には私の人生がある。だからここで彼女と離れて暮らすという事はとても自然なことのはずなのに、私は何故か泣きそうになっていた。潤む目を、必要以上に瞬きをすることで誤魔化す。


「おねえちゃんとは、今日でおしまいだなって」


 なんと返して良いのか分からない私は結局、聞かなかったことにしてシャワーを手に取った。お互いの身体についた泡を洗い流す。


「さ、終わったよ」


 私がそう言うと、妹は立ち上がった。


「うん!」


 後ろからでも存在を主張する豊満な胸と、肉付きの良いおしり。

 そしてなにより。




「まいにち、ありがとう」




 頭上から降ってくる、甘えた声。

 三つ年下の妹は私よりも発育が良く、ずいぶん背も高い。

 私が女性の平均身長よりも低いということもあるけれど、それを加味しても妹は長身の部類に入るだろう。

 身体はもうどこからどう見ても立派な大人の女性のそれなのに、彼女は。


「あー、やっぱりにこちゃん消したぁ」


 生まれつき、一定以上の知能を得られない。今の彼女はもう何年も同じ場所にいる。

 私の手から石鹸を奪った妹は自分の爪でみっつのへこみを作ると、それを私に差し出した。


「はい、にこちゃん!」

「智絵、アンタなんで」

「んー、お昼におばちゃんが言ってたから」


 おばちゃん、というのはケアサービスに来てくれる女性のことだろう。悪気はないのだろうけど、余計なことをしてくれたものだ。だけど、今はそのおせっかいが少しうれしい。


「おねえちゃん、ずっとにこちゃんでいてね」


そう言って私の隣を通り過ぎた妹は三十歳というとても年相応の女性に思えた。


「智絵っ!」


 ハッとして振り返ると、そこには母にタオルで身体を拭いてもらうことを嫌がるいつもの妹の姿があった。介助の面で、髪を長く伸ばすことの許されない妹の短い髪が跳ねている。


「おかーさん、やめてよぉ」

「はいはい智絵ちゃん、少しの我慢だからね。あ、お姉ちゃんありがとう。明日は大事な日なんだし、後は一人でゆっくり入りなさい」


 少し疲れた顔の母も還暦を過ぎている。私の結婚報告をなんとも複雑そうな顔で聞いていたけれど、父と一緒に快く承諾してくれた。


「あ、ありがとう」


 目の前で浴室の扉が閉まる。

 湯気の大半が逃げてしまったので私は再び湯船に浸かり、追い炊きボタンを押す。ピロン、という間抜けな音が響いた。


 彼女は、どこまで理解しているのだろう。


 六歳程度の知能しか得られないということは方々の病院で耳にタコができるほど聞かされていたはずなのに、私は未だにそんなことを思う。

 時々、すこしだけ鋭い目をする妹。

 三十路を迎えても、一人でお風呂に入れない妹。

 そんな彼女を残して、私は家を出て行く。その後ろめたさを見透かすようにかけられたさっきの「ありがとう」を、私はどう解釈すればいいのだろう。


「ん?」


 受け取ったまま一緒に湯船に入れてしまった石鹸の存在を思い出す。引き上げると、さっき妹がつけたへこみは少しだけ薄くなっていた。


「にこちゃんでいてね、か」


 それはきっと、笑顔でいてほしいという意味なんだと、やっと私は理解した。

 六歳程度の知能でも、他人への感謝ぐらいはできるのだろう。世間から見れば六歳程度の知能でも、それは三十年をかけて智絵が手にした知恵なのだから。


「えい」


 私は明日のためにキレイに整えた爪でグイ、と妹と同じ場所を抉った。

 明日からの、妹のいない生活と私のいない生活。

 そのどちらもがこの「にこちゃん」のような笑顔で満たされますように、と祈りながら。




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石鹸のほほえみ 穂波子行 @honamikoyuki

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