第5話 彼女の好きなひと


 翌朝、私は足取りも軽く登校した。

 まるで宙に浮いているかのような感覚。地に足が着いていない。

 開けっぱなしの教室のドアを潜り、席に着く。


「おっはよー、真郷! ご機嫌じゃん」

「あら、わかる?」

「わかるよぉ、見るからに幸せオーラ撒き散らしてるもん」


 にこにこ顔の映美が、楽しそうに言った。

 映美は私の前の空席に陣取ると、椅子に後ろ向きに座った。そしてそのまま私の机の頬杖を突く。


「なんかいいことあった?」

「あったわ」

「なになに?」

「内緒」

「教えてよ!」

「やぁよ。折角のツキが逃げちゃやだもの」

「けちんぼー」

「なんとでも言いなさい」


 心の余裕からか、自然と笑みがこぼれる。向かい合う映美は私を上目遣いに見た。


「真郷、すごく楽しそう。よっぽどいいことがあったんだね。好きなひとでも出来た? 恋する乙女の顔してるよ」


 にんまりと笑みを濃くした映美が言う。

 私はそれに、そっぽを向いて答えたのだった。


「やぁね。私は正真正銘の男の子です」


 視界の中央で、ひらりと黒が揺れた。


「おはよう、真郷」


 後ろのドアから現れた天女。

 真っ黒な膝下丈のプリーツを揺らしながら、彼女が言った。


 涼やかな顔。

 円らな黒耀石が、私を映している。

 綺麗に弧を描いた潤んだ唇が私の名前を確かに紡いだのだと思うと、鼓動が速まった。


「おはよう、穂垂」


 麗しい微笑みを返し、彼女は私の後ろをすり抜けていく。すれ違った瞬間、ふわりと柔らかな甘い香りがした。


 彼女は何事もなかったかのように、窓際の席に着いた。そして、いつもと同じように本を開く。活字を追う目が、きらきらと煌めいて、


 すぐ目の前で映美がなにか喚いている。

 私にはなんと言っているのかわからなかった。


 彼女の横顔が、遠い。



 * * *



 この日、穂垂は以前と変わらない様子で一日を過ごした。

 真面目に授業を受け、休み時間には本を読んで。クラスメートとは必要なだけ会話をする。雑談はしない。穏やかな表情。変わらない。


 私は、


 私は穂垂を目で追いながら気持ちが沈み込んでいくのを感じていた。あまりに、彼女が変わらないから。

 昨日私に見せてくれた年頃の表情は、夢か幻だったとでもいうのだろうか。

 まさか。

 あれは現実だった。

 あの瞬間吸い込んだ空気の色さえ、はっきりと思い起こせる。


 思い上がりだったのだろうか。

 昨日、私は確かに、彼女の心に近付いた気がした。あの瞬間の表情が、その答えだと。本当は意味などなかったというの?


 彼女に焦がれ、想いを募らせるそのたびに、ひとつ、またひとつと欲が生まれる。

 その美しい髪に、頬に、爪に、触れたい。

 その美しい指先で、私に触れて欲しい。


 私の想いに、応えて欲しい。


 私は、穂垂のこころに触れられないのだろうか。


 穂垂は私のことを、――


 指の先が氷のように冷えていく。


 私の思考は暗転した。



 * * *



 彼女の好きなひととは、一体誰なのだろう。


 その答えを聞くことが、とてつもなく恐ろしかった。


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