ことみち

ららしま ゆか

第1話 見つめることしかできない

 彼女はいつでも静かに本を読んでいた。


 騒がしい教室の中で、彼女の周りだけ切り取ったように静謐な空気が漂っている。ひたすらに穏やかで清らかな風が、彼女を包んでいた。


 肌理細やかな白磁の皮膚に、濡れ羽色の艶やかな長い髪。

 頬は桜色に上気していて、潤んだ唇は熟れた果実の赤。

 まっすぐに切り揃えられた前髪の下には、ほっそりとした涼やかな眉と上を向いた長い睫毛。涙の膜に覆われた黒目勝ちの瞳は、黒耀石のようにきらきらと煌めいている。


 この世の綺麗なものだけを食んで生きてきたかのような美しいさ。

 すれ違う者は男女問わず溜め息を漏らし、同性である女性でさえ頬を染める非凡な容貌は、そう、まるで舞い降りた天女。


 活字を追うとき一際輝くその瞳に映りたい。本のページを繰る細い指で触れられたい。小鳥が歌うような声で、私のために囁いて欲しい。彼女が纏う神聖な空気を肺に含み、共有することが出来たなら、どんなに素敵なことだろう。


 穂垂ほたる


 心の中で、彼女の名前を呟く。


 私は彼女に焦がれていた。

 どうしようもないほど。


 せっかく同じクラスになれたというのに、彼女と私の接点はないに等しい。彼女はいつでも本が友達といった風だし、私と言えば――


「ちょっと真郷まさと、聞いてるぅ?」


 思考が遮られた。


 私の目の前では、ふわりと香水の香りをさせながら映美えいみが頬を膨らませていた。

 映美も私のクラスメートである。


「ええ、勿論。聞いてたけど?」

「ほんとかなー」

「そんなこと言ってるとあんたの話もう聞いてやんないわよ」

「えー! それ困る! カレのこと相談出来る男子、真郷しか居ないんだから!」


 映美の話題は最近出来た彼氏のことで持ち切りだ。

 恋する女の子は可愛い。特に花のように顔を綻ばせる姿は、遠目に見ても微笑ましい。

 しかし、薄桃色の空気を漂わせる彼女には申し訳ないけれど、目線はつい穂垂を追い掛けてしまう。頭の中は、穂垂のことでいっぱい。私だって、恋する健全な男子高校生なのだ。


「とにかく。付き合い始めなんだから、私に相談ばっかしてないで今を楽しみなさいよバカップル」

「えへへー、そう見える?」

「毎日手ぇ繋いで帰ってりゃそう見えるわよ」


 きゃー、と頬を両手で包みながら笑う映美は、本当に愛らしかった。

 映美は始業の鐘が鳴るのを待たずに、自分の席へと戻って行った。席からひらひらと手を振る彼女に、私も手を振り返す。


 私も映美のように恋の悩みを誰かに打ち明けることが出来たら、少しは心が軽くなるのだろうか。


 窓際の席に目を向けると、穂垂は机の上に教科書を出していた。その手には、やはり本があった。愛おしげな眼差しに、嫉妬した。太陽の眩しい輝きが緑の黒髪に反射して、綺麗な天使の輪を作っている。


 美しい。


 始業の鐘が鳴った。

 途端に教室内が慌ただしくなる。

 ガラリと雑に開かれた前の扉。

 教壇の前に立つ担当教師。


 一日が始まる。


 ああ、

 今日もまた、私はきっと

 彼女を見つめることしか出来ない。


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