第6話 聞けなかったこと


 聞けなかったことがある。


 彼女は私のことを、ほんの少しでも好いていてくれているのだろうか。愛しいと思っていてくれているだろうか。

 彼女は何故、好きなひとが居るのに私と――


 どうして私と、付き合ったりしたのだろう。


 胸の奥で、醜い感情が燻る。

 この感情に火が付いてしまったとき、私は一体どうなってしまうのだろう。



 * * *



 放課後、彼女は図書室に居た。

 貸出禁止の書架の原典を手に取り、彼女はページを捲っている。蚯蚓のぬたくったような草書の文字であろうそれを、活字を読むようにすらすらと追う。黒耀石の瞳が煌めいていた。


 ずっと焦がれていた。

 手を伸ばせば届く距離に彼女は居た。

 けれど、遠くから見つめることしか出来なかった。

 願えば想いが叶うのは、夢か物語の中だけだと知っていた。

 彼女が恋をしているのだと知った。

 だから、思い切って手を伸ばした。

 恋心を殺すために。

 そうしたら、


 死ぬはずの恋心は、生かされてしまった。


 彼女の心に近付いた気がした。

 しかし気のせいだった。

 思い上がりだった。

 言葉や態度で拒絶された訳ではないけれど。

 彼女はあまりに不変だった。


 近付いたと思えば、また遠退く。


 結局、彼女は私を――きっと、好きではなかったのだ。


 彼女の気紛れで与えられた甘やかなぬくもりに、独りで勝手に溺れていただけなのだ。


 彼女の横顔は、憎らしいくらいに美しかった。


「……穂垂」


 自分でもぞっとするほど冷えた声がした。


 少し遠い私の声に、彼女は顔をこちらに向けた。


 ただでさえ人の少ない図書室だ。このエリアは尚更出入りがなく、よっぽどのことがない限り無人だ。

 今日は私と穂垂が居る。

 よっぽどのことだと自嘲した。


「珍しいね。君が此方の棚に来るなんて」

「話があるの。いいかしら」

「勿論。なんだい」


 彼女は本を閉じて書架に戻すと、私に向き直った。


 清く涼やかな貌。

 吸い込まれそうな黒が、私を見つめている。涙の膜に私の姿がぼやけて写っていた。


「穂垂、私――あなたが好きよ」


 火が、付いてしまったのだ。

 少し遠い場所で、そう理解した。


 私は彼女を乱暴に書架に追い詰めた。彼女を責めるように、理不尽な思いをぶつける。みっしりと詰まった古書の背に思い切り手を衝いた。彼女の薔薇色の頬を掠めた私の掌は、鈍い音を立てた。


 彼女は瞬きひとつしなかった。

 いつもの顔をしたまま、彼女は私を見上げて言った。


「知っているよ。あの日も君は、そう言ってくれたじゃないか」


 息が出来なくなった。


「なら、どうして」


 どうしてあなた、


「私と付き合ったりしたの……?」


 必死に堪えていたものが、崩れていく。


「あなた、言ったじゃない。好きなひとがいるって。酷いくらい優しいひとだって。なのに、どうして私と、」


 醜い感情がぼろぼろと溢れだして、止められない。


「私なんかに優しくしたのよ!」


 肩で大きく息をする。

 肺がきりきりと痛んだ。

 吸い込んだ息がなにかに引っ掛かって、上手く呼吸が出来ない。


 煙を吐き出すように息を絞り出すと、左頬に冷たいなにかが触れた。


「泣かないでくれ」


 涼やかなはずの眉を下げた彼女は、黒耀石の瞳を揺らしている。

 彼女は私の左の目尻を指の腹で拭い、同じように右目も拭った。


「僕はこういうとき、どうしたらいいかわからない」


 そう言われて初めて、私は自分が泣いていることに気が付いた。


 私はぐいとセーターの袖口で目元を擦った。ろくに水を吸えない化繊のそれは、顔に塩水を塗り広げるだけだった。

 不意に、手首を掴まれた。彼女が小さく首を横に振る。

 彼女はスカートのポケットからハンカチを取り出すと、そっと優しく目元や頬を拭いてくれた。


 彼女の触れる箇所が、熱を持った。


 しゃくり上げるような息が整った頃、私は改めて彼女の顔を見た。

 彼女は何処か寂しそうに目を細めていた。


「落ち着いたようだね」

「――ごめんなさい。私、酷いことを、」

「いいんだ。君の言い分は尤もだもの」


 ほんの少し口角を上げて、彼女は言った。

 こんな表情の彼女を、私は見たことがあっただろうか。


「……あの、」

「なんだい?」

「教えてくれないかしら。あなた、どうして私なんかに」


 彼女は人差し指を私の唇に押し当て、私の言葉を遮った。


「『私なんか』なんて、言わないで欲しい。僕は君のことを」


 赤い唇が、淀みなく続きの言葉を紡ぐ。


「君のことを、一等好いているのに」


 まっすぐに、私の目を見て。

 とても柔らかな表情で、彼女は言った。


 無垢な黒耀石が私を捕らえている。


 穂垂が、私を好き――?


 言葉の意味を咀嚼しようとしても、上手くいかない。理解出来ない。否、言葉の意味はわかっているのだ。けれど、それを上手に受け入れることが出来なかった。


「だって、あなた……好きなひとが居るって」

「居るとも。それが君だ」

「でも、私の知ってるひとだって、」

「知っているだろう? 君自身のことだもの」

「……嘘、」

「嘘なものか。本当のことさ」

「……私?」

「そうさ。僕が好きなのは、真郷。君だよ」


 全身の強張りが解け、力が抜ける。膝から身体が崩れ落ち、思わず床に手を衝いた。

 ぽつり、ぽつりと言葉がこぼれていく。


「あなたに直接振られれば、諦められると思ったの。なのに、なのに付き合おうだなんて……」


 彼女は私の顔の高さに合わせるように、床に膝を突いた。そして、相槌を打ちながら私の肩を撫でてくれた。


「意味が、わからなくて……だけど、名前で呼んでくれて、私、嬉しくて。でも、ずっと、不安だったの。私はあなたの好きな“誰か”の、代わりなんじゃないかって……っ」


 思い切って吐き出した言葉は、想像していたよりずっと情けない声になった。

 彼女は幻滅しないだろうか。

 私のこと、女々しい男だと思わないだろうか。

 どんどんと頭は下を向き、彼女の顔を見られない。

 引っ込んだはずの涙がまた溢れてきて、床の木目を濡らした。


「代わりだなんて、そんなことあるはずないじゃないか」


 彼女の声に、私は恐る恐る顔を上げた。


「僕は君が好きだ。誰にでも等しく優しくて、いつでも自分より他人のことを気遣える君が好きなんだ。飄逸とした風を装いながら、自分に厳しい君を僕は好きになったんだ。僕は、」


 ――君だけを見ていたんだ。ずっと、ずっと。


 薔薇色の頬を更に赤く染めて、彼女は囁いた。

 甘い声音に、心臓が高鳴る。


「僕は君のことを、一等好いているよ。想うだけじゃ、伝わらなかったかな」


 困ったように眉を下げながら、彼女は目を細めた。


「――馬鹿ね。言葉にしてくれなくちゃ、わかるわけないわ」


 精一杯の強がり。


 教えて。

 あなたの言葉で。


「そうか。じゃあ、改めて言おう」


 熱の籠った黒耀石の瞳に、射抜かれる。


「好きだよ、真郷」


 彼女の言葉に、胸の奥の澱が融けていく。

 もう、大丈夫。


「わたしも好きよ、穂垂」


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