第4話 レースのハンカチ
それは突然のことだった。
「映画?」
「そう。隣街の映画館なのだけれど、ロングラン上映してる作品がそろそろ終わるらしくてね。よければ一緒にと思って」
「それって、もしかして」
デート、ということ?
「嫌かい?」
「そんな、全然! 寧ろ嬉しいわ。誘ってくれてありがとう」
「そう言ってくれると僕も嬉しいよ」
ああ、今日も彼女は眩しい。
次の連休の最終日に会う約束をした。
私は約束の日まで眠れない日々が続くことを予感した。
* * *
映画館から少し離れた、公園の噴水前。
穂垂と待ち合わせの約束をしたこの場所は、ちょっとした待ち合わせスポットになっていて、私の他にも数人の男女が約束の相手を待っているらしかった。みんな揃って頻りに携帯を眺めている。その様子が少し面白い。まあ、私も同じなのだけれど。さっきから足を組み替えてばかりいる。
携帯で時刻を確認する。
九時三十二分。
待ち合わせ時間まで、まだ三十分もある。勢い余って早く家を出過ぎてしまった。かれこれこうして三十分ほど経つ。遅刻するよりはずっといいし、私自身待つことは苦ではない性分だから問題はない、のだけれど、幾らなんでも早過ぎた。
手持ち無沙汰で、私は手鏡を取り出して自分の顔を見た。
髪のうねりは出掛けに整えた。問題ない。ワックスを使っていない黒髪は、さらさらと素直に風に揺れている。後ろ髪を手櫛で簡単に梳かす。目に掛からない長さの前髪を左に流し、伸びかけの横髪を耳に掛けた。
服はこれでよかっただろうか。
シャツの襟を正しながら思う。
シンプルなワイシャツにループタイ、アーガイルのカーディガン。ストレートのスラックス、プレーンな黒い革靴、ひと振りのシプレ。色は無難にグレーを基調としたモノトーンで纏めた。
学校での自分のイメージを大きく損なうものではないはずだ。清潔感はあると思う。きっと不快にさせるコーディネートではない。そう信じたい。
「すまない。また待たせてしまったね」
「――穂垂」
彼女が居た。
見慣れた黒のセーラー服ではない、私服の彼女。
息を呑んだ。
フリルのあしらわれた、生成色のスタンドカラーのブラウス。チョコレート色のワンピースに、薄茶色のカラータイツ。普段は黒いプリーツに隠れている膝小僧が、ワンピースの裾からちらちらと見え隠れしている。栗色をした丸い爪先の革靴が愛らしい。斜め掛けにした小振りなバッグの肩紐が、柔らかな膨らみをより明確にしていた。
いつもは化粧気のない清い肌、今はほんのりと色付いている。控えめな光を放つ艶やかな唇はゆるやかに弧を描いて。
心臓が騒いだ。
「いいのよ。早く来過ぎちゃっただけだから」
なんでもない風を装い、手鏡を鞄に押し込みながら立ち上がった。
彼女は風に靡く髪を左手で抑えながら私に歩み寄る。セピアの色彩に浮き立つ、濡れたような緑の黒髪。
「僕も早く家を出てしまってね。君が来るまで本でも読みながら待つつもりだったのだけれど……君が先に来ているとは思わなかった」
「それだけ楽しみにしてたのよ、今日を」
「そうかい? ならよかった」
小首を傾げながら微笑む彼女に、私も口角を上げて応える。
楽しみにしていたのは本当。
それこそ、一時間も早く家を出てしまうくらいに。
「まだ早いけれど、行こうか」
彼女の申し出に、私は頷いた。
* * *
朝一番の映画館は、ひとも疎らでがらんとしていた。チケットを買って中に入り、自由席ということでスクリーン全体を観やすそうな後方の真ん中の席に移動する。
このシネコンの中で一番小さな劇場らしい四番スクリーンはあまり広くなく、私たち以外の客も少なかった。品のよさそうな老夫婦と、髭を生やした中年男性。たった五人だけの観客。席もそれなりに離れているから、快適に鑑賞出来るだろう。
彼女の隣の席に腰を下ろしたとき、照明はゆっくりと落ちた。
彼女が選んだ映画は、世界的な賞を取った海外の恋愛映画だった。
よくある波乱に満ちたストーリーではない、静かに育まれていく恋の話。特に山場があるわけでもないのに、酷く惹き付けられた。些細な誤解ですれ違いながら、心の奥底では互いが互いを求めている。ふたりの恋の経過が、妙にリアルだった。ヒロインのことを強く想い続ける主人公に、自分を重ねてしまった。
ラストに向かって、音楽が盛り上がる。
ふと、隣の彼女に目を向けた。
スクリーンの明かりに照らされた彼女の横顔を、一筋の涙が濡らしていた。
泣いている。
耳慣れない外国語が遠くなる。
黒耀石から零れた一滴のそれは、陽の光を含んだ朝露のようにきらきらと輝いていた。
目が、離せなかった。
やがて劇場の明かりが完全に落ちた。そして、ゆるやかに光を取り戻したとき、私の網膜は彼女の横顔をより鮮明に映し出した。
「見ていたのかい」
私の視線に気付いたのか、彼女は顔を此方に向けて何処か気恥ずかしそうに言った。私は思わず唾を飲み込んだ。
真っ白なレースのハンカチで目元を拭いながら、彼女は笑う。
「意外かい? 僕は口調こそこんなだけれど、感覚は女だからね。君だってそうだろう」
知っている。
彼女はとても繊細な、実に少女らしい感性を持っていること。非凡な容貌と大人びた言動、達観しているようにも見えるその姿に、近寄りがたさを勝手に感じているだけなのだ。
私だって、同じだ。言葉こそ異性のそれだけれど、感性はその辺の男子高校生と変わらない。まあ、多少私の方が情緒的かもしれないけれど。
「そうじゃなくて……涙がとても、綺麗だったから」
思った通りに伝えた。
彼女は少し驚いたようで、大きな目をさらに大きくした。そして、下瞼が弧を描く。
「ありがとう」
年頃の少女の微笑み。
私は頬が熱くなるのを感じた。
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