第3話 恋心の殺し方


 あの日から、ずっと考えていた。

 この恋心の殺し方を。


『好きなひとが居るんです』


『君の知っているひとだよ』


 彼女の声が、脳裏に甦る。

 私の、知っているひと。


 誰なのだろう。


 知りたい。


 でも、知りたくない。


 彼女が恋したひとなのだから、きっと素敵なひとなのだろう。

 そう漠然と思うことしか、今の私には出来なかった。



 * * *



 移動教室から戻る途中、大量のノートを次の授業の担当教師から託された。クラス全員分のそれはかなりの重量がある。

 運動部の男子に任せてくれればいいのに。それとも、あの教師からは私が屈強な男に見えているのだろうか。こんなに非力だというのに、全く。

 内心愚痴をこぼしながら、私は階段へと足を向けた。


「綾部君」


 踊り場の手前で、背中から声が掛かった。

 振り向かなくてもわかる。


 穂垂。


 身体ごと振り返ると、麗しい貌をした彼女が居た。


「半分持つよ」

「悪いわ」

「手伝わせてくれないかい。この間のお詫びとして」


 狡い。

 そんな言い方、断れっこない。


「じゃあ、お願いしようかしら。ありがとう、朽木さん」

「どういたしまして」


 ふわりと柔らかく微笑む彼女に、心臓が疼いた。


 持っているノートの半分を穂垂に手渡し、隣り合いながら階段を降る。


 なにか、話し掛けたい。

 けれど、なにを話そう。


 固く口を噤んだまま、私の右足は踊り場を踏んだ。


「綾部君は、好きなひと、居るのかい」

「えっ!?」

「居るんだね」

「……まあ。年頃の男の子、ですから」


 あなただとは、言えない。


「きっと素敵な子なのだろうね。綾部君が好きになった子は」

「……ええ。とっても素敵な女の子よ。誰より気高くて、美しくて、聡明で。そして、残酷なほど、優しい」


 それは穂垂、あなたなのに。


「羨ましいな」

「あら、朽木さんだって恋してるんでしょう? どんなひとなの?」

「ひとことで言うなら紳士だね。優しいひとだよ。それこそ、残酷なほどに。誰にでも等しく優しくてね。きっと僕なんて、見向きもされていないのだろうね」

「そんなこと……あるはずないわ」

「どうしてだい?」

「だって、あなたは」


 恵まれた美貌に、清らかな精神。

 誰もが羨む、ただひとりのひと。


「とっても魅力的な女の子だもの」


 彼女は、困ったように眉を下げて笑んだ。


「ありがとう、綾部君」



 * * *



 じくじくと胸が疼く。

 早くこの恋を殺したい。

 そのためには、


「すまない、待たせてしまったね」


 あなたに殺してもらうしか、ない。


 放課後の教室。

 柔らかな金色の陽射しが、彼女を照らしている。


「私が呼んだんだもの。待つことくらい、苦じゃないわ」


 本心だった。

 待つことは苦ではない。

 早く、解放されたかった。


「あのね、朽木さん」

「なんだい」

「……私、あなたのこと、」


 穂垂、私は


「あなたが、好きです」


 早く、


「付き合って、くれませんか」


 殺して。


 彼女は大きな目をほんの少し見開いて、短く息を吸った。

 戸惑っている。

 当然だ。

 昼間、あんな話をしたばかりなのに。

 彼女は時間が止まってしまったかのように、微動だにしなかった。


 どくどくと心臓が煩い。遠くで聞こえるはずの吹奏楽部の練習の音も、今の私は聞こえない。

 自分の鼓動と、呼吸と、秒針の音。

 時間の経過がわからない。一瞬が数時間のように思えた。

 じりじりと導火線が燃え、玉砕の瞬間を待っている。


 彼女の唇が、僅かに動いた。


「いいよ。付き合おうか」


 そうよね。

 付き合えるわけないわよね。

 これでやっと楽に――


 ……え?


「朽木さん、今なんて、」

「付き合おう。綾部君」


 聞き間違いでないのなら、それは


 私と穂垂が


 恋人に、なるということ――?


 頭が追い付かない。

 私の思考回路は迷路になってしまったようだ。


 もだもだしている間に、彼女は私との距離を詰め、手を伸ばせば容易く触れられるところに迫っていた。

 酷く穏やかな微笑み。

 心臓が高鳴る。


「名前で、呼んでいいかい」

「もっ、勿論!」

「ありがとう、真郷。僕のことも、名前で呼んでくれると嬉しい」


 呼んでもいいの?

 あなたの、名前を。


「――穂垂」


 私は初めて、愛しいその名前を声に出して呟いた。


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