前日譚 恋のはじまり


 空気が冷たくなってきた。

 セーターの袖口を引っ張り、私は窓の外を見た。


 校門に繋がる通路の両脇に連なる桜の木々の、茶色く褪せた葉も残り少なくなってきた。細く伸びた枝が遠目にもわかる。散った葉が、宙を舞った。入学して間もない頃、満開の花を咲かせていた桜。夏には青々と茂っていた葉が、今はセピアの色合いだ。ほんの少し切なくなった。


 もう十一月になる。

 入学してから半年も立つのだから、流石にクラスにも学校にも馴染めてきた。けれど、私は僅かな物足りなさを感じていた。宿題とテストに追われる日々がつまらないのかもしれない。部活動に参加してもよかったのだけれど、打ち込めるなにかを私は見付けることが出来なかった。来週には期末テストが控えている。気が重くなった。



 * * *



 渡り廊下を抜けた先に図書室はある。

 高校の図書室には不釣り合いなほどの蔵書量を抱えたそこは、この学校の売りのひとつでもある。にもかかわらず、普段生徒の出入りは数えるほどしかないという。私も、入学してすぐ校内をぐるりと回ったときにしか行ったことはない。勿体ないな、と他人事のように思った。事実、図書委員でも本好きでもない私にとっては他人事だった。

 渡り廊下を抜けて、廊下側に迫り出したプレートを数えながらリノリウムの上を歩く。社会科準備室の隣が図書室だ。

 備品庫。

 社会科準備室。

 あった、図書室。


 私は図書室のドアにそっと手を掛けた。


 開け放ったドアから、微かに古書の匂いが漂う。

 ドアを潜り抜けると、手前にカウンターがあり、図書委員らしい女子生徒が視線を手元に落としていた。手元には薄い文庫本があった。カウンターの向こうには読書スペースがあり、数人の生徒が教科書とノートを広げていた。

 考えることは同じという訳か。

 私は鞄を肩から下ろし右手に提げた。視線を彷徨かせ、室内を観察する。

 中に入って室内の広さに驚いた。出身中学とは比べ物にならない書架の数。壁に接している書架は天井近くまでの高さがあり、みっしりと本が詰まっている。その蔵書量は図書館と比べても遜色ない。

 書架の間をぐるりと縫い眺めて回るうちに、読書スペースに戻ってきてしまった。そろそろ教科書でも開くか、と思ったそのとき、私は目を奪われた。


 入り口から一番遠い、窓際の席。

 濡れたような光を放つ、長い緑の黒髪。

 陶器のように白く滑らかな肌。

 頬は上気したような薔薇色をしている。

 涼やかな眉にすうと通った鼻筋、熟れた果実のように赤い唇。

 黒耀石のような深い黒の瞳は、きらきらと輝いている。

 伏せられた長い睫毛が上下しているのを見て、初めて生きた人間なのだと認識した。


 あどけない、それでいて大人びた顔。

 浮世離れした容貌。

 神聖な空気が、薄いベールを纏ったように彼女を包んでいる。


 ――呼吸することを忘れていた。


 ひゅっと吸い込んだきりの息を吐き出し、深く吸い込む。

 古書の匂い。

 どくどくと鼓動が逸る。


 こんなに美しい少女を、私は見たことがなかった。


 頬が熱い。


 当初の目的すら忘れて、私は彼女の横顔を眺めていた。


 これが恋の始まりだと気付くまで、そう時間は掛からなかった。

 この恋が叶うまで、あと――。


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ことみち ららしま ゆか @harminglululu

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